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勝海舟と坂本龍馬〈新訂版〉 [単行本] / 加来 耕三 (著); 出版芸術社 (刊)
200年あまり続く、疲弊した幕藩体制にピリオドを打ち、新しい日本を夢見たヒーローたち。
「坂本龍馬・勝海舟・西郷隆盛・吉田松陰・桂小五郎・大久保利通」
中でも、幕府の中枢にいながら江戸城を無血開城し、薩長政権のキーマンになった男「勝海舟」
その弟子で、「日本を今一度洗濯いたし申候」
薩長同盟、大政奉還など、日本の革命的出来事の成立に深くかかわった「坂本龍馬」
幕府側のNo,2と、革命側のNo,2。
立場も身分も違う2人のNo,2によって、近代の夜が明けたと言っても過言ではありません。
まさに、時代のNo,2でした。
日本の転換期に果たした役割は、どちらに軍配があがったのでしょうか。
その時代背景と、運命の出会い。
1853年黒船来航。
日本列島は、蜂の巣をつついたように大騒ぎ。
恐れをなした老中筆頭・阿部正弘は、幕府のみならず大名、町人に至るまで意見を幅広く求めました。
全国から700通におよぶ意見書が届けられました。
その中でも異彩を放っていたのは
「優れた人材を登用する。」
「軍艦を建設し、それによる交易で国防費を調達する。」
「西洋式の兵制に改め、江戸の守りを固める。」
それは、勝海舟の時代を見据えた意見書でした。
これが海防掛目付・大久保忠寛の目に止まります。
この時33歳。小十人組に昇進した海舟は、長崎で頭角を現します。その後教頭に出世。
1860年幕府は、日米修好通商条約の批准書交換の為に使節を送ることになります。
エリートが選ばれる中、勝は軍艦頭取として咸臨丸で護衛にあたりました。
海舟は、遣米使節団には同行せず、日本に帰ります。
そして、幕府に頼らないで身分にとらわれない海軍学校を創設しようとします。
40歳で軍艦奉行並に昇進。自分の構想を訴えるも、幕府のお偉方は「長州人は駄目だ」とか、「身分がどうだ」とか、反対します。当時は国と言えば藩のこと。日本人という発想がなかったのです。
坂本龍馬は、土佐藩、下級武士の子として生まれました。
19歳で剣術修行で江戸へ。
その時黒船のニュースを聞きます。
「もう剣では大砲にはかなわない!!」
龍馬は土佐に帰って砲術を学び、土佐藩・河田小龍のもと、世界情勢を学びます。
その中でもアメリカの民主主義にいたく感動します。
「日本もみな平等で、自由な国に・・・。」
龍馬は脱藩し、再び江戸へ。。。
目指すは勝の屋敷。
勝の屋敷では、勝の熱弁に圧倒され、すぐに弟子入りします。
「日本の為に!!」
勝海舟と坂本龍馬、日本史上類を見ない最強コンビの誕生でした。
武士の底辺にいた2人。。。
神戸の操練所を作った勝でしたが、そこは、幕府の武士のみが学ぶことが出来ました。
そこで、操練所のわきに私塾を作ります。そして、操練所で同じように教育をしました。
そこには饅頭屋の近藤長次郎や医者の長岡謙吉もいました。
そうして日本を近代国家にするプロジェクトが発動しました。
神戸海軍操練所と私塾には、全国からたくさんの学生が押し寄せました。
尊王攘夷・開国・討幕・・・いろいろな思想の学生がいました。
その中で、池田屋事件にかかわった学生がいました。密議をしていたのは、望月亀弥太。そこを、新選組に襲撃されました。
海軍操練所は、反幕府の巣窟とみなされ、なすすべなし。
勝は軍艦奉行を罷免。神戸海軍操練所も閉鎖されました。
勝は、西郷に、包み隠さず幕府の現状を伝えます。
「幕府をつぶして日本を一つの国に!!」
西郷に新国家の青写真をイメージさせました。
そして、坂本龍馬たちを預けます。
1864年9月11日、勝と西郷が初めて会ったとされる日・・・その後西郷は、大久保に手紙を送っています。
「共和制という政治制度に日本を変える以外この国を救う手立てがない」
この時、西郷も討幕を決意しました。最終的にはアメリカのように・・・。
龍馬は西郷からの援助で蒸気船を買い、「亀山社中」を立ち上げました。
その後龍馬は、薩長同盟の成立に向けて奔走。
いままで敵だった長州と薩摩この二つをどう接近させるのか?
長州は、当時幕府から武器購入を禁止されていました。
そこを、薩摩名義で7000丁の銃と軍艦1隻を購入。薩摩は京都の警護で兵糧が欲しかったので、米と交換しました。
敵だった二者をギブ&テイクの関係にしたのは、龍馬の亀山社中でした。
1866年1月22日京都・薩摩藩邸にて・・・薩長同盟成立。
そこに証人として署名したのは龍馬でした。
そして時代は討幕へ・・・。
この後、西郷とは道を違えます。勝と龍馬は無血革命を目指します。
1866年第2次長征征伐で幕府は大敗。
薩長は、武力討幕へ傾くも、龍馬は平和裏に討幕をしたいと考えていました。
次の一手は。。。
自分が脱藩した土佐藩の力を借ります。
会談が行われたのは、長崎「清風亭」
当時の土佐は、幕府支持派。時代を様子見していました。
後藤象二郎と会談し、大政奉還をする方向に進んでいきます。
大政奉還してしまえば薩長も大義名分がなくなるので、戦うことなくケリがつき、案を出した土佐藩も有利に政治参加が出来る。。。
龍馬は脱藩の罪を解かれ、海援隊は土佐藩お抱えとなります。
龍馬は、後藤と一緒に京に上る途中の船の中で「船中八策」を書き上げます。
これは、山内容堂から徳川慶喜に提案され、大政奉還が実現しました。
どうして慶喜は、大政奉還を受け入れたのでしょう?
そこには・・・
「700年間政治から離れていた公家に、政治が出来るわけがない!!
きっと、もう一度お願いされて政治を任されるに違いない!!」
という西周の目論見がありました。
しかし、それを察知した薩長・武力討伐派が王政復古をしてしまうのです。
この時点で、龍馬の掲げたピュアな「船中八策」から血なまぐさいものへと変化してきました。
龍馬は大政奉還の1か月後近江屋で中岡晋太郎と一緒のところを刺客に襲われて即死。
龍馬は惜しい人物でしたが思想家というよりも「脚本家」
惜しまれて、死ぬべき時に死んだのかもしれません。
あくまで武力討伐を掲げる薩長。薩摩藩の起死回生は「錦の御旗」
西郷と岩倉具視は天皇の命により慶喜を追い落としにかかります。
「鳥羽伏見の戦い」これに幕府軍は大敗。
最後の砦は江戸城総攻撃!!
慶喜は海舟を海軍奉行並・陸軍総裁に昇進させます。
「江戸を火で埋め尽くすわけにはいかない」
と、無血開城を主張。
イギリスのパークスに圧力をかけます。どうしてイギリスか・・・薩摩がイギリスから武器調達していたのです。
江戸城総攻撃2日前に西郷と交渉開始。
「国内戦争は避けたい!!」
西郷は延期すると約束します。
この時海舟は、江戸市民を千葉に移す予定にしていました。
おまけに江戸の侠客・町日けし十番組の頭・新門辰五郎に慶喜の身辺警護をまかせました。
つまり、和戦両様の構えをとっていたのです。
勝は、幕府は見限っていても、慶喜には想いを持っていたのです。
さて、海舟と龍馬、どちらがNo,2か?
今回は、2人をあわせたような幻の人に軍配を上げるというものでした。

大きな時代の転換期、激動期には出てくるヒーロー。
2人のヒーローが成し遂げた偉業は、近代日本の礎となりました。
1868年無血開城。
船中八策は、五箇条の御誓文に生かされました。
岩崎弥太郎は、海運事業で三菱財閥を。
海舟は、数々の役職を歴任し、旧幕府軍の世話や生活の面倒を30年以上も続けました。
徳川幕府の終わりを最後まで見届けたのでした。
立場の違う2人が出会った奇跡、2人の考えは凡人を超えていながら二人ともジャパニーズ・ドリームを描いていました。
この二人の運命の出会いは、神が用意していた歴史の必然だったのです。
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