2012年04月27日

今いてほしい!?日本を変えたリーダーたち〜西郷隆盛〜 @

BS歴史館  西郷隆盛  〜命もいらず 名もいらず〜   です。

時は激動の時代・幕末から明治。
日本の大改革を成し遂げた男がいました。
西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫) [文庫] / 山田 済斎 (編集); 岩波書店 (刊)
西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫) [文庫] / 山田 済斎 (編集); 岩波書...
西郷隆盛。260年続いた江戸幕府の支配を終わらせ、近代国家の礎を築いた明治維新のリーダーです。
その豪快な行動の裏には、冷徹で緻密な計算がありました。

どんな敵をも味方にしてしまう圧倒的な包容力。その象徴が薩長同盟。その中に隠された西郷のしたたかな策略とは?

江戸城無血開城、この美談の裏に隠された、目的の為ならば手段を選ばない西郷の真実とは?

後の西郷を作りだしたのは、若いころの心中未遂事件。獄中生活。これが、西郷のリーダーの心得となっていきます。

「命もいらず 名もいらず
 地位も金もいらぬという人は
    始末に負えない
 しかし この始末に負えぬ人でなければ
    国家の大業は成し遂げられぬ」

西郷の目指したリーダーのあるべき姿とは?

日本人で最も難しいのが西郷です。
軍国主義の時代には理想の元帥として、敬天愛人を出すと民主主義の先駆けとして・・・時代によって解釈が違うのです。

しかし、西郷は必ずしもリーダーとは言えず、担ぎ上げられる最高の御神輿だったのです。

西郷の成し遂げた偉業の一つ。。。
宿敵長州と結び、反幕府勢力を作ったことです。

リーダーの流儀@
策略亡くして勝利なし。

1864年7月19日大事件が起きます。長州VS幕府諸藩連合軍の「禁門の変」です。
当時長州は、攘夷を唱えていましたが、過激な攘夷で京都政界から追放されていました。その政界復帰を求めて上洛します。

この時西郷は、幕府に味方しました。
薩摩軍の協力のもとに、幕府は長州を一蹴。さらに長州征討で長州のおとり潰しを画策します。それを強力に進めたのは西郷でした。

「今、長州を潰さなければ、将来に禍根を残す」

1864年下関戦争でさらに長州は追い詰められます。
長州は惨敗し、諸外国に対し幕府も多額の賠償金や不利な条約を飲まされます。

西郷は、この状況下で内乱は避けるべきだと思っていました。内乱が起こったら、間違いなく日本は植民地化される!!
征討軍の指揮官として、長州と幕府の和解を迫りました。
しかし、そこにはしたたかな作戦があったのです。

本来は軍使をたてるところ、指揮官西郷が自ら出かけます。
自分が殺されたら全面戦争になる!!

話し合いの結果、長州から和解案を提案させました。
その和解案とは・・・
  三家老の切腹
  山口城の取り壊し・・・

そして幕府をも説得し、すんでのところで和解させます。

敵をも味方につけるのが、西郷の真骨頂。窮鼠猫を噛む状況を避けるのが得意でした。

1866年第2次長州征討決定。
幕府に要請された西郷は、
「長州はすでに謝罪しており、この戦いは大義名分がない。出兵はお断り申し上げる。」

このことは、幕府にとっては晴天の霹靂でした。

この時すでに西郷は、密かに桂と薩長同盟を結んでいました。
薩長同盟の内容は、朝敵となった長州の復権への協力を約束したものです。
そして、長州が幕府と戦うときには軍事援助をすることを約束していました。
幕府打倒のシナリオが始まったのです。

西郷の思惑通り、幕府は長州に敗退、時代は討幕・新政府樹立に進んでいきます。

何故、宿敵長州と手を組んだのでしょうか?
幕府と長州、どちらが日本の為になるか?
幕府はもうだめだ!!結ぶのは長州!!

本当は内乱を避けたい・・・本当は血を流さずに・・・

リーダーの流儀A 
非情なまでの決断
西郷の最大の功績は、徳川が支配する世を終わらせたことです。

1867年10月14日、慶喜は大政奉還を宣言。
その目的は、徳川勢力の温存と新政権でも実権を握ること。

しかし、西郷は大久保らと画策し・・・
京都御所を軍勢で包囲。朝廷に新政権からの慶喜の追放を決定させます。

それが、12月9日王政復古のクーデターです。
何故クーデターが必要だったのでしょうか?

図抜けた才能を持つ慶喜。彼が新政府に入るという考えの人が殆どでした。
しかし、それでは現状容認的な新政府になってしまう!!
そこで、あえて武力によるクーデターを起こしたのです。

そして天皇を中心とする新政府樹立。
これに対して幕府が反発して・・・

鳥羽伏見の戦い勃発。

戦いは、西郷率いる新政府軍の勝利。
慶喜は新政府には反抗しないと申し入れますが、強固な姿勢で跳ね除けます。

「維新変革と言うものは、中途半端では済まされない。
 戦いを終わらせるのは、慶喜の切腹だけだ。」と、江戸総攻撃を宣言します。

江戸が焼け野原になる・・・。直談判したのは勝でした。
江戸城明け渡しを条件に総攻撃中止と慶喜救済を願い出ます。

この時の西郷の本来の目的は、「慶喜の切腹」ではなく、内戦を早く終わらせること。
互いの誠実さを持って戦いを終わらせる。。。

「いろいろ難しい議論もあるでしょうが、私が一身にかけてお引き受けいたします。」
と、自らの一存で受け入れます。

そして、歴史的な大英断。
1868年4月11日、江戸城無血開城、江戸は戦火から救われました。

どうして非情になったのでしょうか?
それは、西郷などの討幕派は、少数派だったということ。
薩摩や長州の上層部の大多数は、幕府を倒そうとは思っていません。既得権益があるからです。
おまけに幕府は400万石、朝廷は4万石しかありません。まともに戦って勝てるわけがないと思っていたのです。

追い詰められていたのは西郷の方。自分たちの今の立場、将来を見据えた時に、非常にならざるを得ないのです。

「作略と言うのは平生はやるべきではない。
 ただし事に臨んでは作略がなくてはならない。」

西郷は、薩摩人でありながら、日本の今後を見据えています。
どうしてそんな人物が出来たのでしょうか?

それは、薩摩の下級武士の生活に始まります。
西郷は農民から年貢の聴衆を行う役人でした。
農民の苦しい生活と、役人の不正を目の当たりにした西郷は、24歳の時農政改善を求め上層部に意見書を出します。彼を逸材と見抜いたのは第11代藩主斉彬、この斉彬、諸外国との外交と、産業の発展に国の浮沈がかかっていると幕府に意見をするような、開明派の名君です。
藩ではなく、日本国としての改革をしようとした人物でした。

斉彬は西郷を高く評価し、側近として育てました。西郷もこれを喜び忠勤に励みます。下級武士から今の自分にしてくれた斉彬に尽くしたのです。

斉彬は、国を挙げての幕政改革の必要性を目指し、西郷に情報収集や人脈工作をさせます。
藩を超えて有能な武士、公家とも親しくなりました。
西郷は、ついには篤姫に直談判するにまでになりました。

西郷35歳の時に斉彬病没。
敬愛していた主君の死に、殉死を覚悟する西郷。それを止めたのは、ともに工作に当たっていた清水寺の僧侶・月照。

しかし、1858年9月安政の大獄開始。
公家たちが断罪され、月照もお尋ね者に。。。西郷は薩摩に連れ帰ります。
しかし、藩は、西郷に月照の殺害を命じました。
それは出来ない!!と、月照と共に鹿児島の海に身を投げます。

しかし、運命は皮肉。一人だけ助けられ、生き延びてしまった自分。。。
このことが、リーダー西郷を生み出していくのです。


西郷さん、書くことが沢山あります。あせあせ(飛び散る汗)
時間が来てしまったので、また連休明けに。るんるん

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2012年04月26日

第15回「嵐の中の一門」

第15回 「嵐の中の一門」

1149年3月、熊野詣の帰途に落馬した家盛は、そのまま帰らぬ人となりました。
当時は熊野詣が流行っていたそうで・・・。それは、院政の時代に度重なる熊野御幸があって、庶民にはやり出し、「蟻の熊野詣」と呼ばれました。

当時は政治も悪く、飢饉なんかでこの世に失望した人々が浄土信仰の広がりをもとに、生きながら浄土に生まれ変わることを夢見て詣でた道で、熊野古道と言われています。

こんなに和歌山が、クローズアップされたいのに・・・どうして視聴率が悪いのでしょう?
ほんと、熊野詣、アピールして!!

宗子は悲しみのあまりとり乱し、

「触るでない!!」と、清盛を突き放し!!

忠正は家盛が死んだのは清盛が神輿(しんよ)を射た報いであり、「お前が死ねばよかったのだ」と罵声を浴びせます。
まさに、祇園の祟りです。バッド(下向き矢印)

清盛の館を弟の頼盛が訪ね、失意の清盛に家盛が落馬寸前に発した言葉を告げます。

それは、「兄上」というひと言でした。

また自分は清盛が苦手であること、それでも伝えに来たのは、父母を同じくする唯一の兄・家盛のことを思ってのことだと伝えます。
次からは、この頼盛がブレーンと言うか、「賢い」とか「静」の部分を引き継ぐような予感がします。揺れるハート


時は過ぎて・・・忠盛は喪が明けるとすぐに鳥羽院に謁見し、変わらぬ忠誠を誓います。
そして、高野山の宝塔再建という鳥羽院の命を受け、自分の名代を清盛に務めさせたいと申し出ました。


清盛は戸惑いながらも引き受け高野山を訪れると、そこで陸奥国への長旅から戻ったという僧・西行、かつての義清と再会を果たします。

僧でしょう!!義清!!
モテモテですよ!!


こんな僧でいいのでしょうか?!
俗世に見切りをつけたとは・・・言える?ただ単に、重い荷物を捨てただけなのでは??


そのころ、藤原摂関家の兄弟争いは激しさを増していました。

1150年に近衛天皇が元服すると、すぐに弟・藤原頼長は養女・多子を入内させます。兄・忠通は対抗すべく、得子の養女・呈子を自分の養女にし、入内に向けて動き始めます。
すごい戦いです。ブシュー!っと、血の出る戦いよりも酷いかもしれません。暗雲を背負っての登場でした。揺れるハート


一方、崇徳院の御所には権力争いから遠ざけられた兄弟が暮らしていました。

兄・崇徳院と弟・雅仁親王です。歌ってばかりの雅仁親王に、政治に復帰する野心がないのかと崇徳院が問うと、雅仁親王は笑い飛ばし、野心があるのは兄ではないかと言い当てました。

が・・・本当に権力を握るのは、雅仁
こんな、権力からほど遠い雅仁が権力者となるのですから、やはり権力に固執するようになるのでしょうね・・・。ああ怖い!!


家盛の一周忌。。。

供養のため家盛の愛用品を正倉院に収める支度をする忠盛に、宗子が清盛の生みの母・舞子の形見である鹿の角を差し出しました。
亡き舞子の志を遂げたいと忠盛が思っていたために家盛が死んだのだと宗子は感情をぶつけます。
まあ、腹は立つでしょうね。。。

自分の愛する息子が死んで、1年でちゃんとなれるとはやはり無理なものがあるので、この宗子はアリでしょう。もっと忠盛も寄り添って欲しいですね。。。たらーっ(汗)


ある日、清盛の館を西行が訪ねて来ました。清盛は西行に、平氏一門は嵐のただなかにあるが、その嵐のもとは自分であり、自分に宝塔再建の大役は果たせないと弱音を吐きます。

相変わらずのくよくよMAXです。ならば、賢くしていればいいのにねえ。。。

西行は、清盛にしかできないことがあるはず、嵐の中に身を置いて務めを一心にはたすべきだと清盛を諭します。
これが、「嵐の中の一門」に繋がるのですね黒ハート


清盛はふっきれたように宝塔の再建に全力を注ぎ始めます。
そこらが、単細胞でかわいいですね。解りやすいです。黒ハート


一方、源義朝は藤原摂関家に言いなりの父・為義と衝突を繰り返しています。
まあ、普段から衝突していますよね。この家は!!

ある日、義朝は常盤が貴族の家人らしき男ともめているのに出くわします。
実は忠通が呈子の入内を華々しいものにするため、見目麗しい女性を都じゅうから集めていました。そこで、病人の母を抱える貧しい家の娘・常盤に白羽の矢が立ったのです。嫌がる常盤に向かい義朝は、呈子に仕えれば親孝行になると説得。常盤は集められた千人の中で随一の美女に選ばれ、宮中に入ることになりました。
これからどうなるのでしょうか?常盤さん。黒ハート

まさに、シンデレラストーリーになるのでしょうか?


美福門院となった得子に呼ばれた忠盛は、この再建が落成のあかつきには、公卿の地位も夢ではないということをほのめかされます。
酷いですね。公卿になりたくって仕方のない男にこんな甘い言葉を!!
でも駄目だよ〜ん。。みたいになりそうな雰囲気満々です。

平静を保てない忠盛に・・・しかもその直後、頼長が忠盛の前に現れ、家盛が死に至ったてんまつを告白するのです。

さすが、悪左府様です失恋

頼長「私も残念でならぬ。まこと優れた男子だったゆえ、とりわけ目をかけておったのだが・・・」

忠盛「ありがたきお言葉」

頼長「身の程をわきまえぬ野心を持つ者は、苦しみ抜いて死ぬということよ。」

忠盛「・・・・・!」

頼長「知らず知らず、生まれ怪しき兄への鬱屈がたまっておったであろう。
   家盛こそが跡継ぎの器と少しばかりおだててやると、何もかも差し出しおった…。」

忠盛「・・・・・!!」


頼長「かえすがえすも惜しまれる。家盛と私は全てにおいて、
   しかと結ばれた仲であったゆえ・・・」揺れるハート

おまけに後ろに控えている彼も、いい味が出ています。ふ〜ん、次はこの子なんだ揺れるハートみたいな感じをプンプン匂わせています。るんるん

頼長「私が父なら褒めてやるがのう。家盛天晴であった。さすが武士の子、見事なる犬死じゃ。」


そこまで言うか!!みたいな。やりますねえ。。。

悪左府様素晴らしい!!


久しぶりに見る悪っぷりです。忠盛もびっくりです!!
自分の方が年上であるにもかかわらず、手玉に取られている感がたっぷり出ています。


そして。。。忠盛の心中には、やり場のない怒りが充満していました。


高野山に納める曼荼羅を彩色する様子を見つめていた清盛は、絵師にすすめられ、筆をいれようとしていた。そこへ忠盛があらわれ、清盛に今すぐ中止しろと叫びます。

志のために家盛に犠牲を強いてきたと自らを責め、もはや自分が出世のために努力を重ねてきたことすべてが無駄だったと悔い叫びます。

でも、そんなに家庭を顧みずに仕事をしてきたふうには見えないというか。。。本当は、必死に忠犬のように働いて、賄賂もたっぷり渡しているのですが、そんなことはドラマには書かれていませんが。。。たらーっ(汗)

しかし、清盛は、曼荼羅の彩色を止めようとせず、そんな清盛を忠盛は幾度となく投げ飛ばします。

強烈な親子喧嘩です!!

清盛、頭が割れたのが、ドドッと血まみれです。

まさに少年漫画のような血の出方です。

それでも清盛は、自分は家盛の兄だと叫び、額から流れた血を筆につけ、曼荼羅の中央にある大日如来の唇を塗りました。

汚れてるよ、血で!!


宗子さんもその場にきて曼荼羅に見入っています。

家盛が兄上によろしくと言っていると、宗子はほほえみかけると清盛はすでに疲労のあまり、深い眠りについていました。

ええ〜!!いつ許したの?!

なんだかわからないまま、ナレーションが入ります。

「こうして平氏一門が嵐を乗り越えて結束を深めた一方で、源氏一門の絆を危うくする事件が起きようとしていたのだった。」


とにもかくにも、3つの家のもめ事を、十二分に見せてもらった回でした。
対立がわかりやすかったですよ。黒ハート

ますます面白い!!と思うのは、私だけでしょうか?

視聴率もなあ・・・。
お友達としゃべっていても、みんな韓国ドラマの話をします。あせあせ(飛び散る汗)

別に韓国ドラマの悪口を言うつもりはありませんが、日本の歴史ドラマも楽しいと思うんだけどなあ。。。

陽だまりの樹も面白いしね。黒ハート

まだまだ期待していますよ。黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 12:25| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月25日

城下町へ行こう!「萩の城下町」

見上げればそこに城のある町、城下町。全国に200はあると言われています。

その城下町で、新しい不思議を発見しましょう。

今回は、山口県萩市。萩と言えば、吉田松陰など、幕末のスーパースターを輩出した町です。
この小さな町から日本が改革されました。
萩の不思議と魅力とは?

山口県萩市・人口5万3843人。面積698.79㎢、特産は夏みかん・萩焼・かまぼこです。
海と山に囲まれたこの町は、維新胎動の地でした。
その基礎を築いたのは、中国地方の覇者・毛利輝元です。
萩の城下町は260年間毛利の当主によって代々治められてきました。

やはり、松下村塾の吉田松陰です。
ここでは多くの維新の志士が生まれました。吉田松陰や高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文などです。
今も色濃く残る残影・・・そこにはどんな不思議があるのでしょうか?


萩城は?天守閣がありません。
明治の初めには五階建ての指月城が確かにありました。

これは、萩の人にとっては、とっても因縁のある城。
関ヶ原の合戦で敗れた毛利輝元は、八か国112万石から二か国36万石に引き下げられました。
さらに、当時は不便な地、萩の湿地帯に城を築くことになります。

そして廃城令により、明治7年に天守はとり壊され、現在は石垣だけが残っています。

萩の町は、江戸時代当時の古地図をもって歩ける街です。道がそのままに残っていので、時空を超える旅が出来るのです。

武家屋敷が並んでいた平安古地区は、鍵曲が残っています。左右を高い土塀で囲まれた細い道のことで、曲がっており、行き止まりのように見えます。敵を追い詰めるときに利用したとか。。。

そして、夏みかんが沢山生えています。

萩の夏みかん伝説。
130年以上前の失業対策として植えられた、武士を救ったみかんです。
家禄・特権を失った武士を救ったのが、夏みかんでした。
それを考えたのは、藩の要職や小倉県権令を歴任した小幡高政でした。

そして大成功し、明治大正の頃は萩の財政の数倍の夏みかんの収穫がありました。
夏みかんには、恩があるのです。黒ハート


幕末の英雄を思う。。。
菊屋横町には高杉晋作の旧宅があります。

【86時間限定!エントリーで最大19倍!!22日10:00〜25日23:59まで】高杉晋作と奇兵隊/青山忠正
【86時間限定!エントリーで最大19倍!!22日10:00〜25日23:59まで】高杉晋作と奇...

坂本龍馬と並ぶ幕末の英雄高杉晋作。
最強の軍隊・奇兵隊を率い長州藩を討幕に導いた維新の風雲児です。
高杉家は中堅の武士で、実務を担当しながら、お殿様の側近をしているような家柄でした。

イメージとしてはヒーローですが、萩ではこの英雄は疎まれていました。
身分にとらわれない画期的な軍隊・奇兵隊。討幕運動の先頭にいた高杉晋作が疎まれた原因は・・・。

明治維新となって、特権階級がなくなり武士が没落し・・・誰がこんな酷いことをしたのか???
「それは、高杉晋作のせいだ!!」と言うことで、親族は肩身の狭い思いをし、嫁にも行けなかったとか。。。


木戸孝義(桂小五郎)の家は、高杉晋作のすぐ近く。同じ町内です。
桂小五郎の家は、和田という医者です。桂家に養子にはいり、狙われるようになってからは木戸と改名します。また、近所には伊藤博文もいました。

維新を支えた3人は、竹馬の友であったのです。


英雄と天才を生む町。
維新を支えた英雄や、4人の内閣総理大臣(伊藤博文・山縣有朋・桂太郎・田中義一)を生んだ町萩。
そこには吉田松陰と松下村塾の存在がありました。

人はなぜ勉強するのか―千秋の人 吉田松陰 [単行本] / 岩橋 文吉 (著); モラロジー研究所 (刊)
人はなぜ勉強するのか―千秋の人 吉田松陰 [単行本] / 岩橋 文吉 (著); モラロジー研究...
吉田松陰は、幕末の思想家で、松下村塾を主催。
久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文ほか、多くの維新史志士影響を与えました。

1854年にペリーが来航した際、黒船に乗船しようとして失敗し、投獄される松陰ですが、そのことをペリーが記述しています。

「厳しい法律を破り、知識を得るために命を懸けた日本人の知識欲を示すもので、大変興味深い出来事だった。」

萩に戻った松陰は松下村塾を開き、数多くの英雄を輩出します。

松下村塾、始まった当時は庭の納屋を改築した八畳の小屋で、身分の区別なく無料で学ぶことが出来ました。
日本の未来を担う若者、92名の門下生を輩出。しかし、ごくわずかの期間しか・・・1年ほどしか開かれていませんでした。

それは、”日本を背負って立つ有為な人材を育てること”だったからです。
この明確な意識の元開かれていました。

その吉田松陰の教育指導とは?
久坂玄瑞は、非常に褒めて育て。
高杉晋作は、比較して育て。
伊藤博文は、・・・才劣り 学幼きも 質直にして 華なし

吉田松陰は、命を懸けて人を育てました。
吉田松陰一日一言 [単行本(ソフトカバー)] / 川口 雅昭 (著); 川口 雅昭 (編集); 致知出版社 (刊)
吉田松陰一日一言 [単行本(ソフトカバー)] / 川口 雅昭 (著); 川口 雅昭 (編集);...


藩主である毛利家は、御用商人を多く抱えていました。
もちろん、その町並みも残っています。

豪商・熊谷家。
金融・仲買・酒造業などで財を成した萩の豪商の家が残っています。
ここに残っている証文には・・・
「金三千両を奇兵隊軍用金として旧藩政府へ献納せり」
と、残っていました。揺れるハート

長州軍は、これらの豊富な資金と武器をもとに、幕府に対抗したのです。
これらの豪商が、英雄の活躍を後押ししたのは間違いありません。


高杉晋作が愛したパンは秘密兵器?

奇兵隊が食べていたパンが残っています。
幕末の科学者・中嶋治平が長崎で見聞し、長州藩へ伝えたのがこのパンです。

文献をもとに再現した幕末パンが販売されています。

このパンは、軍事目的で造られました。名前は「備急餅」。
つまり、兵糧・非常食でした。



そして、城下町には高杉晋作が愛した味もあります。
それは、桜鯛の押し寿司。

山口県萩市は、小さい町でしたが、この町から日本の舵を握るたくさんの英雄が生まれたのは事実です。
本当に魅力的な町でした。黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 13:01| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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