2012年03月26日

第8回孫市まつり その一

3月25日この日曜日和歌山市にある本願寺鷺森別院を中心に、「第8回孫市まつり」がありました。


出発点は和歌山城一の橋から。黒ハート

和歌山城は、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえています。

和歌山城は、天正13年に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。
その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎で、本丸・一の丸を造りました。

まず、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。

そして、元和5年には徳川家康の第10子・頼宣が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。

和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われています。

しかし、現在の天守閣は、和歌山大空襲で天守などの指定建造物11棟すべてを焼失、戦災後の昭和33年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。

そんな和歌山城がこちら。

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鉄砲隊で有名な雑賀衆。鉄砲の音と共に出発です。黒ハート
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和歌山城の一の橋を出発して和歌山城内を歩きだします。
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甲冑をきた雑賀衆が歩き出しました。黒ハート
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背中ののぼりには、「雑賀孫六」「雑賀孫八」「鈴木重秀」「土橋盛重」とか・・・exclamation&question書いてありました。

雑賀衆は・・・
紀ノ川下流域に拡がる一帯を本拠とする地域連合惣的な集団の総称です。

戦国期には優れた水軍と多量の鉄炮を持ち、その高い戦闘力から「雑賀を制する者全国を制す」と呼ばれるほどでした。

雑賀衆の構成は、五緘(からみ)と呼ばれる雑賀荘・十ヶ郷・宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷の各惣から成り、それぞれに統率者が存在し、合議制による自治を進めていました。

また、雑賀衆は一枚岩の強固な団結により織田信長と戦ったと思われがちですが、実際はそうではなく、実に複雑な行動をとっています。

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よそから手作りの甲冑を作って参加している人もいました。

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で、こちらは有名な「六文銭」・真田幸村の赤備え。
この赤備え、もとは、武田の騎馬部隊が使っていました。最強騎馬軍団です。黒ハート

武田の赤備えが強すぎたため、「赤備え隊=精鋭部隊または最強部隊」というイメージが諸大名の間で定着
したので。。。

その武田の遺臣が仕えたのが井伊直政。直政も、これにあやかって、自分の部隊を赤備えとして編成しています。

井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられました。
以後幕末に至るまで井伊家の軍装は足軽まで赤備えをもって基本とされていました。

そして、真田の赤備え。

大坂夏の陣において真田幸村が編成しました。

敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った幸村の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって、真田の武名を天下に示す事だったと言われています。

武田家由来の赤備えで編成した真田幸村隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と『薩摩旧記』(島津家)に賞賛される活躍を見せました。


つまり、最強に与えられる「赤備え」なのです。

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そしてこんな人たちも。るんるん

あーこには、「ママも一歩間違えばこんな感じだったんだよ。あせあせ(飛び散る汗)」と、紹介しました。が、あそこまではじけられるなんて、ちょっとうらやましい。黒ハート

そして隊列は和歌山市駅へ。。。

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posted by ちゃーちゃん at 17:38| Comment(0) | 和歌山探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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