2012年03月02日

兄に追われた悲劇の英雄〜源義経〜

大河ドラマで清盛をやっているせいでしょうか?最近、頼朝や義経もたくさんしてくれます。

今回は、THEナンバー2・兄に追われた悲劇の英雄〜源義経〜です。

【徹底追跡】源義経の謎 (別冊歴史読本 3)
【徹底追跡】源義経の謎 (別冊歴史読本 3)
1192年「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えましたよね。この年が、源頼朝が征夷大将軍になった年、とされてきました。しかし、現在では、頼朝の統治は、その前からされてきたことが解ってきています。この1192説は、議論されています。

しかし、これが、およそ600年にわたる武士の統治の始まりでした。
鎌倉幕府の誕生は、2人の兄弟によって成し遂げられました。
兄・頼朝は、平家によって負け、父を殺され20年間流刑生活を送りましたが、後に、仇の平家を打ち破り、征夷大将軍にまでなりました。
弟・義経は、兄を助け、屋島・一の谷・壇ノ浦・・・数々の源平合戦を全て勝利し、今に伝説を残しています。

手を取り合った兄弟が、ある時を境に・・・。

平家物語には、2人の意外な関係が謳われています。

「頼朝卿の申し状によって義経追討の院宣を下さる」

いつから兄弟がいがみ合あったのか?No,1の兄・No,2の弟、美しい兄弟愛の果ては、あまりに儚い結末でした。

有名な勧進帳・・・これは、間違いなくフィクションです。
しかし、義経が平泉に逃げたのは、間違いないでしょう。

その義経の逸話は、まさにドラマティック。
一つ一つのエピソードが面白く、その天才伝説には、ヒーロー・アイドルの条件が揃っています。

兄は天才政治家・弟は天才軍人だったのです。

そして、2人のキーパーソンとなったのは、第77代天皇・後白河天皇でした。
この後白河天皇は、煮ても焼いても食えない謀略家。5代にわたって院政を行い、王朝権力の復興・強化に専念しました。
源平の争いの影の演出者であったのです。


1158年平治の乱
京に源義朝たち首謀者の首が晒されると、平家にあらがう敵はなくなりました。

清盛に殺されても不思議ではなかった2人の兄弟。しかし、清盛は殺しませんでした。

絶世の美女義経の母・常盤御前が清盛の妾となることを条件に、2歳になる義経の命は救われます。
13歳の兄・頼朝の命を救ったのは、清盛の継母・池禅尼。「亡き息子に似ている・・・」ということで、伊豆の国に流刑となります。

その監視役は、伊豆の国に一大勢力を築いていた地方豪族・北条時政でした。
そして、この娘・政子が、大きく運命を変えることになるのです。

北条時政は、政子を平氏に嫁がせようと考えていました。しかし、政子は、流刑者・頼朝の元へ駆け落ちしてしまいます。

これが、結果として、平家を裏切り源氏を支持する結果となるのです。頼朝にとっては、大きな味方を付けたことになります。

当時、伊豆を含む関東は、平家が土地を管理していました。思い年貢に土地の没収という恐怖。そこに住む人たちは不安に感じていました。

頼朝は、人々を巻き込んで勢力拡大。地方武士をまとめて、武士による政治を行うことを考えるようになるのです。


一方義経は、母を奪われ京都にある鞍馬寺へ。

平家打倒を考えるようになります。
15歳を過ぎたころ、出家させられる前に寺から逃げ出します。母の血縁を頼って奥州へ向かうのです。

奥州は・・・今の福島・宮城・岩手・青森と秋田の一部の事です。この奥州一帯は、藤原氏の支配地でした。初代・清衡、2代基衡、3代秀衡。この秀衡を頼りました。

岩手県赤沢地区は、金と馬の産地で、藤原氏にとって大切な土地でした。そこには、今も義経の修業の場が残っています。鵯越の逆落としの練習場所も?!


清盛が後白河を幽閉しようとしたのをきっかけに・・・
1180年4月平家追討の令旨が、全国の武士に下されます。
8月、頼朝が挙兵します。その時、20万もの勢力が集まりました。
10月富士川の合戦・・・これが、源平合戦の初戦でした。これは、頼朝の大勝に終わります。

その翌日、奥州から30余名を引き連れて義経が参加・・・。この時兄弟は、初めて顔をあわせます。悲劇の始まりでした。

頼朝の母は、熱田神宮・宮司の娘で名家のででしたが、義経の母は、身分の低い白拍子・・・この白拍子とは、平安末期から鎌倉にかけて流行した歌舞の一種で、それを演じる遊女の事もさします。

鶴岡八幡宮にお参りに行く際にも、家来扱いし、頼朝は義経に「馬の口取りをせよ」と、命じたといわれています。この時義経は、最初は「下人のやることです」と、断ったといわれています。

教養的には一通りやっているふたり。。。しかし、この当時は身分社会。母の出の違いで家来扱いされていたのです。


しかし、戦いの天才・義経の活躍で源氏軍大勝利。

1181年清盛が亡くなります。一つの時代が終わり、新たな時代の始まりでもありました。
後白河法皇は、平家追討に本腰を入れ始めます。

京に陣取りいち早く平家を打ち破った木曽義仲に目を付けました。清盛を利用したように、義仲を使おうとしたのです。

平氏は安徳天皇と、三種の神器を奪って西へ・・・。三種の神器とは、宝剣・鏡・勾玉の事で、神代から続く天皇の正当性を示したものです。

後白河法皇は、木曽義仲に奪還を命じます。しかし、敗北。

「寿永二年十月の宣旨」で、頼朝の東国支配が公的に認められます。
この時に、朝廷から宣旨されているので、これが鎌倉幕府成立という説があります。
もちろん、征夷大将軍に任命されたのは1192年ですが。

これに危機感を持った義仲は、後白河法皇を幽閉。

頼朝は、弟・範頼に4万の軍で京に出陣させます。ここには義経の姿もありました。

1184年1月宇治川の合戦で、義仲と対峙します。
この時、川を渡って急襲したのが義経率いる精鋭部隊。見事に勝利し、後白河法皇を救います。

1184年2月一の谷の合戦。
この一の谷、海と断崖絶壁に囲まれた土地。
ここを5万の兵で攻める範頼。膠着状態が続きます。
そんな中、断崖絶壁に現れた義経。誰もが出来ないと思っていた鵯越の逆落とし・・・。
後に鬼の仕業かと伝説になりました。

この奇襲戦法によって、源氏軍は大勝利。
頼朝に認めてもらえるだろう。と、思っていたものの、恩賞をもらえたのは大将の範頼だけでした。

頼朝は厳しい人でした。
@出しゃばりは嫌い。
A平家討伐の途中だから
という理由から、義経に恩賞がなかったのかもしれません・・・。

そんな心の隙に入ってきたのが後白河法皇でした。

義経を「従五位下 検非違使 左衛門尉」の官職を与えます。
喜んで受ける義経でしたが、頼朝は、その行為を軽率だと激怒し、平家追討から外してしまいます。

というのも、後白河法皇としては、平家はやっつけたいが、頼朝が支配するのも困る・・・。ということで、義経を対抗勢力にしようという思惑もあったようです。

それがわかっていた頼朝は、「武士による新政権を作ろうとしているのに、のこのこと貰うな!!」ということなのです。

しかし、戦いは膠着状態。範頼が救援を申し出たため、義経をまた平家討伐に参加させることになります。

1185年3月壇ノ浦の戦い。ここで、ついに雌雄を決することになります。
平家の総大将平知盛・500艘、義経軍800艘が、壇ノ浦で激突します。
潮の流れを読む平家に地の利があります。。。義経軍は漕ぎ手を討って、盛り返しました。

平教経は、直接義経を討とうと源氏の船へ・・・。
「おのれ義経!!」教経の一閃が空を切りました。
義経あわやのところでほかの船に乗り移ります。これが八艘とびです。

包囲されて身を投げた教経。潮の流れも変わり・・・知盛も自害。

時子と安徳天皇は、三種の神器と共に海へ・・・。

この時、岐路に箱に入っていた鏡と勾玉は発見されましたが・・・。宝剣は、2人の道連れとなったのです。

平家はここに滅亡。義経の平家打倒は達成されました。

しかし、頼朝はまたもや激怒!!
三種の神器は三つそろって初めて交渉が有利に運ぶというのに、宝剣が海に・・・。


義経は弁明のために鎌倉へ。。。しかし、頼朝は鎌倉入りを禁止。万福寺にある腰越状には・・・。
「義経は、野心など少しもございません・・・」しかし、頼朝からの返事はありませんでした。

会うことかなわず京へ戻る義経。これを見逃さない後白河法皇は、頼朝勢力を快く思っていない源行家と義経を結びます。2人が謀反を起こす・・・。そんな噂が広まりました。

適度に争っていてほしい・・・という後白河の考えです。当時は電話もなく、メールもなく・・・。噂をうまく使ったものの勝利なのです。

義経の暗殺計画が持ち上がります。追っ手を放つ頼朝。それを義経が返り討ちに・・・。これは2人の決別を意味していました。

後白河法皇は、義経のために、1185年10月18日頼朝追討の宣旨を下します。
また、九州・四国を与えます。義経は九州に拠点をつくるために船出・・・。
しかし、不運にも嵐で船が難破。味方がちりぢりになり、軍資金・人材そのすべてを失ってしまいます。
これを立て直すために京都へ・・・。

しかし、京では後白河法皇が義経を見捨てて頼朝側に立ち・・・
1185年11月11日義経追討の宣旨を下します。

一転して追われる義経。逃避行が始まります。この時に生まれたのが勧進帳ですが・・・当時としては関所があったのかも怪しいとか・・・。

奥州平泉に逃げる義経。恩人・秀衡が亡くなっていました。
頼朝は追っ手を放ち、藤原氏に圧力をかけます。
逆らえない藤原泰衡・・・。頼朝と対抗する勢力があったにもかかわらず、義経を襲い・・・首を差し出します。

1189年4月30日岩手・高館にて自害、享年31歳でした。

しかし、頼朝は、藤原氏を許さず、藤原100年はここに潰えるのです。
もともと、これを機会に滅ぼすつもりだったのかもしれません。


この時、頼朝の武家政権誕生から9年がたっていました。

ちなみに、幕府を開いた源頼朝・足利尊氏・徳川家康。この3人のうち、頼朝と家康は、身内にも厳しいという部分が似ています。だから、後に安定するのです。
尊氏はどちらかというと甘い清盛に似ています。つまり、尊氏の後も南北朝の戦乱となってしまいます。


この後、武士の時代が始まります。

1192年3月黒幕の大狸、後白河法皇が亡くなります。享年66歳でした。
その4か月後、征夷大将軍になりNo,1となった頼朝。
しかし、武士にはあるまじき落馬事故で世を去ります。この時、義経のたたりと言われました。
1199年53歳の生涯でした。

運に見放された状況に陥っていく義経。巷では、平家の怨霊の仕業と言われました。

もしかすると、歴史の神が、平家を滅ぼすためだけにこの世に遣わしたのかもしれません。。。

そして、その伝説は、海を渡って蝦夷へ・・・。


ちなみにBS歴史館でやっていた源義経〜悲劇のヒーローはこうして生まれた〜はこちら

源義経 謎と怪奇
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posted by ちゃーちゃん at 14:49| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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