2012年03月21日

第11回「もののけの涙」

第11回「もののけの涙」です。

内裏に呼ばれた平清盛は崇徳天皇に、佐藤義清が出家した際に詠んだ歌を伝えます。

他にも出家にあたってたくさんの歌を詠んでいますね。。。


清盛は、崇徳帝と同じく白河院の血をひく宿命を背負ったが、自分なりに面白く生きていくと告げます。
が、崇徳帝が、白河院の血をひいていると公言していいの?清盛!!あせあせ(飛び散る汗)

ここで、話の中でいつも足蹴にされていた崇徳帝に・・・待望の!!

1140年、崇徳帝に待望の皇子・重仁が誕生します。崇徳帝は帝の座を重仁に譲りたいと、父である鳥羽院に表明。しかし得子は、崇徳帝を言いくるめ、自らの子・躰仁に帝の座を譲ることを約束させます。

いいの?崇徳!!だいたいからして躰仁って、鳥羽上皇の子ではないの?そんな今までいじめられていた人の子供に譲る?!

でも、当時は、天皇にはしがらみが多すぎて、権威を振るえなかったのは事実のようです。
上皇になって、傀儡政権の黒幕となる方が、自由に権力を振るえたようですが。。。それにしても、なんだかなあ・・・。

翌1141年、躰仁がわずか3歳で近衛天皇として即位。しかし譲位の儀式で崇徳帝は、躰仁に自分の養子としてではなく、弟として位を譲る形式になっていることを知ります。

弟に譲ったのでは

   上皇として院政を行うことができない!!


だまされたと知った崇徳帝は怒りをさらに募らせていくのですが、後の祭り。出家して法皇となった鳥羽院が引き続き政治の実権を握ることとなりました。

が〜ん!!そんなことするから、日本最大怨霊になるんですよ。あとの二人は菅原道真・平将門ですが。

この後もひどいことをされ続けます。で、怨霊化するわけですが・・・。

いろいろされて讃岐に流された上皇・・・。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向(えこう)す」

自分が大魔王になって、この日本を呪ってやる!!
皇族の地位を落として、民衆がこの国を支配させるよう逆転させてやる!!

と、呪います。


そのまま朝廷皇族を呪いながら、1164年に讃岐で死んでしまいます。46歳の若さでした。

その後、京都の3分の1が消失する大火災が起こったり、都では変死する貴族が続出したり、天候不順や地震などがあいついで起こったりしたため、都の皇族や貴族はこれらの異変を上皇の祟りによるものと信じました。

だから、そんなことしたからだって!!

「皇を取って民とし民を皇となさん」の誓願の通り、平民(武家)が朝廷の天皇家をおさえて、実質的政治権力を執り続ける時代へ移ります。


それは1868年に明治政府が誕生するまでの、700年間続くことになるのです。

まさに、崇徳帝の呪いです!!

明治天皇も、この崇徳上皇の呪いを脅威に感じていたようで。

それならば、この呪いを利用しようと考えた明治天皇は、崇徳院の怨霊を鎮め、朝廷の守護神となって貰うため、皇宮近くに白峰神宮を造営し、崇徳上皇の命日に讃岐の白峰から崇徳上皇の神霊を迎え入れることにしました。

こうして、崇徳天皇は、死後700年を経て、ようやく京都に帰ることが出来たのです。

話が変わってしまいましたが・・・。1142年正月、皇后となった得子・・・まさに、悪巧みの似合う女になりました。権力者がどんどん変わっています。あせあせ(飛び散る汗)今後平氏は誰に忠義を尽くすべきなのか──。

清盛は答えの出ない議論を、

「くだらぬ」と一蹴。

そんな兄に賢い弟・お髭の家盛が食ってかかります。


「くだらぬとは何事にござりまするか。一門の行く末を話し合うておるのですよ!!」
なかなか、賢いですね・・・。
二人がとっても対照的です。黒ハート


明子は、貴族の娘たちに琵琶を教えることになります。

助手として駆り出された明子のかつての教え子・夢見る時子。なんだか気乗りしないのは、練習をさぼっているからか、夢見る夢子には野蛮人拒否反応があるのでしょうか?

そこで清盛と再会します。そんな中、明子は琵琶の生徒の侍女・波子を見つめる盛国の視線に気付き、2人の縁談を進めます。


縁談を断る盛国に。。。

「そなた、気にしておるのではないか?元は漁師であることを。
 盛国、そなたは立派な武士じゃ。
 漁師の出であればこそ、そうなれたのではないか?
 どうか殿と私に、そなたの婚礼の支度を整えさせてはくれぬか。」

まさに、賢い女ですね。縁の下の力持ち・・・。

後添いとなる時子とのコントラストが面白いです。黒ハート


清盛は、明子のこまやかな気遣いに感心します。

が、もののけですからねえ。。。自分が気遣いをすることはないでしょうが、そんな気遣いに気づいた清盛に成長を感じてしまいます。るんるん


場面は東国にいる源義朝。

相模の波多野一族を家来にするなど、地域一帯の武士の多くを配下におくほどに武名を高めていました。
どうしたらそんなに部下に出来るのか、とも思いますが、都から離れるほど都にコンプレックスを持っていたのは確かでしょうから、たくさんの配下が出来たのかもしれませんね。

で、三浦一族の娘との間に義朝の長男・義平が生まれ、波多野一族の娘との間に次男・朝長が生まれます。
まさに、「英雄、色を好む」でしょうか?

この人には、たくさんの女性と子供がいたようで・・・。

自分の血族を増やしていき、それが、平家打倒になるのですから。。。下世話な言い方かもしれませんがまさに「種を撒いて、実を結ぶ」というところでしょうか?

京では由良姫が義朝の帰りを待ちわびています。この人が、一番高貴な女性なので、跡は頼朝が継ぐのですが。。。

得子に良いように権力を振るわれ、すっかり権勢を失った待賢門院璋子は、ある日、得子に呼び出されます。

怖いですね!!この人形!!見ているだけでも恐ろしい・・・。あれって、使うときお祓いとかしてもらうんでしょうか・・・。本当に不気味です。。。

待賢門院に仕える者が得子を呪詛したというのです。


得子の陰謀と悔しがる堀河局ですが、待賢門院は鳥羽院や崇徳院を苦しめ、義清を出家に追いやった罪深き自分を得子が救ってくれていると説き、堀河局らとともに仏門に入ります。

え〜!!そうなの?なんだか理解しがたいことで、いえいえ、理解できません。。。こんな理屈。すっ飛んでいます。あせあせ(飛び散る汗)


神社参詣の帰り、参道にうずくまる物乞いを介抱した明子は疫病にかかってしまいます。
あくまでもよくできた女性です。黒ハート清盛には勿体ない?っていうか、2人とも常識がないと駄目よね。。。あせあせ(飛び散る汗)

治せる薬はないという薬師の言葉に清盛は動転。「博多へ宋の薬を買いに行くー!」

感染するおそれがあるため、介抱することも許されない清盛は、僧を呼び一心に祈りつづけます。
神や仏にお願いするなんて、なんだ〜人間じゃん!!って思いましたよ。

やがて目をさました明子に、ふたりで海を見る約束のためにも死んではならないと清盛は呼びかけますが、明子は清盛のお陰で十分楽しませてもらったと告げ、息をひきとります。


清盛は、祈とうする僧たちを足蹴に!!!

あ〜、やっぱりもののけじゃん!!


暴れまくる清盛!!
もう、誰にも止められない!!


盛国に・・・。

「殿!お止めくださいませ!恨むならば宋の薬を求めるを許さぬ法皇をお恨みなされませ!
 疫病を止められぬ朝廷をお恨みなされませ!
 そして…皆が健やかに健やかに暮らせる世を、殿がお作りなされませ!
 それこそが北の方様の夢見た景色に相違ございませぬ!」


よく止めに入ったよ盛国・・・。さすがです。


でもその後のナレーション。。。

慎ましやかに清盛とその一党を支えていた妻・明子の死は清盛を悲しませただけでなく、もののけの如く生きた白河院の血が清盛に流れていることを、育ての父・忠盛に否応なく思い出させた。

何ですと?

どういうことかしら?「もののけの血」って・・・。

僧侶を足蹴にしたってこと?う〜ん、よく解らないまま終わってしまいました。


でも、面白いとは思っていますよ。黒ハート

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
ラベル:もののけ 平清盛
posted by ちゃーちゃん at 13:48| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月19日

第10回 「義清散る」

第10回 「義清散る」

得子は、わが子・躰仁を東宮に立てようと考えます。

が、当時は(今も昔も?)東宮にするためには、親・後ろ盾がないと駄目な時代ですよね。だいたい、帝も子供をつくる時に政治的なとか、親の実力とか考えて子供を作ったとか・・・。あせあせ(飛び散る汗)

ちなみに、光源氏はお母さんの身分が低かったので帝にはなれない設定でした。失恋


崇徳天皇の中宮・聖子の父である関白・藤原忠通に接近し、躰仁を聖子の養子とすることを認めさせ、躰仁は思惑どおり次の帝となりました。

が、本当に、こんなに崇徳天皇を足蹴にしていいのかしら?

だって、崇徳のにっくき鳥羽上皇の息子なのよ!!

こんなに嫌っているのに本人をスルーしてもいいことなんですか?

東宮誕生の知らせを聞いた平清盛と佐藤義清は、朝廷内の不穏な空気に国の行く末を案じます。

大人になったね!!清盛!!

そうか、清盛が大人にならないと、「義清散る」は出来ないのか。。。

義清:「すでに救いようがない…。私達がお仕えする鳥羽の院が、あの体たらくとは心底あきれ果てた。私達武士が守らねばならぬ!」

自分たち武士が国を守らねばと熱っぽく語る義清を、清盛は心から頼もしく思うのでしたが。。。

事態は意外な?というか、あるある!!の法則へ・・・。

義清が待賢門院璋子に接近したことに気づいた元カノ・璋子の女房・堀河局は義清を誘い出し、二度と璋子を訪ねるなと彼にくぎをさします。

そこには少なからず嫉妬がありそうです。あせあせ(飛び散る汗)

そのころ、僧たちによる強訴が頻発し、清盛ら平氏一門はしばしば勅命を受けて彼らと戦闘。

朝廷の中で、平氏の武力の重要性をさらに高めていました。
まあ、天皇は武力を持ってはいけないからなあ。。。国民の象徴だしねexclamation&question
日本が兵隊を持っているとろくなことがないでしょう?
朝鮮出兵・日清・日露・太平洋戦争・・・。


一方、源義朝は、東国において次第に武名をとどろかせ、着々と家臣を増やしていました。


元服後も相変わらず奇行を繰り返す雅仁親王は、得子と出くわすなり、彼女を挑発。得子も「あなたは鳥羽院ではなく、先の院・白河の子なのではないか」と親王を攻撃します。


それを聞きつけた雅仁の母である璋子が取り乱して得子につかみかかったため大騒動となるのですが。。。

「おいたわしや・・・。」

そのうわさを耳にして璋子を心配した義清は、ひそかに彼女を訪ねるのだ。
だめだ!!それは!!

と思ったら、良い感じ?ではなく、彼女の心が本当は鳥羽院にあると知り、逆上して思わず首を絞めてしまうexclamation×2

駄目だろうそれは!!どう考えても切腹もんです。


駆けつけてきた清盛が止めに入り、堀河局の計らいで義清は逃がされ、何とか事なきを得たものの、その様子は内大臣・藤原頼長に見られていました。
かれは、本当に、良いところで出てきますね揺れるハート

まさに悪役です黒ハート。その眼がしつこそうですね揺れるハート良い感じです。悪左府様るんるん


頼長は義清を呼び出し、鳥羽院の前で彼の所業を暴いていきます。しかし、鳥羽院は義清をとがめなかったのですが。。。40超えて解りませんなあ。こんな男と女の描写。複雑すぎる?でも、見入ってしまいます。黒ハートそこに現れた璋子に向かい鳥羽院は、璋子が誰と何をしようと自分は何も感じないと言い放つ。

館に帰った義清は、満開の桜の下で我が身の無力感に絶望していました。
遊んでいた妻と娘が駆け寄ってきましたヨ。

良い奥さんと子供がいるじゃん!!なんで、璋子?やはり怪物の娘は怪物なのかしら揺れるハート
取り入られると駄目なのかしら。。。

娘から手渡された花びらを見つめてほほ笑んでいた義清は、やがて険しい表情に変わり、突然娘を蹴落とし去っていきました。

一瞬何が何だか解らなかったよあせあせ(飛び散る汗)
あんなかわいい子を放って何がいいのか。
文武両道なんじゃなかったの?



駆けつけた清盛に義清は「出家する」と言います。当時、出家とは死んだも同じこと。。。

だから清盛も源頼朝も殺さなかったんだよ。甘いとか、甘くないとか、情にほだされたとか、常盤御前が絶世の美女だったとか、あんまり関係ないようで。。。

「朝廷の乱れの種は、人を愛する心がねじ曲がり、どす黒くなった醜い心であり、美しく生きたいと思う自分は、その醜さにまみれる覚悟がない」と告げます。

少女マンガのような美しい男になってしまいました。オヨヨヨ・・・。こんなに美しいというか、折れそうな心の「夢見るユメオ君」が、結婚しているっていうのはどうかしら?

この時代、家の中で待っている女が多いのに、出家してしまったら、どうすればいいの?

出てきたときは、頼もしいぐらいに男らしかったのになあ。。。バッド(下向き矢印)

清盛は義清を思い直させようとするが、義清の決心は変わらず、その場で髻を切り落とすのです。

京随一のもののふといわれた佐藤義清は乱世の舞台に立つことなく世捨て人となってしまいました。
京随一のもののふが、女の事で世捨て人ですか?

exclamation&question

『世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ』

もっと活躍してほしかったですが、これから70過ぎまで世捨て人で頑張るのですね。。。
この大河でどんな最期をするのかも見てみたいのですが、70過ぎですから清盛の方が先に亡くなるのかなあ。。。享年64歳だからなあ。

平家の栄華をどう思っていたんだろう。黒ハート

別冊太陽 西行 捨てて生きる (別冊太陽 日本のこころ 168) [ムック] / 別冊太陽編集部 (編集); 平凡社 (刊)
別冊太陽 西行 捨てて生きる (別冊太陽 日本のこころ 168) [ムック] / 別冊太陽編集...

【送料無料】 西行と兼好 乱世を生きる知恵 ウェッジ選書 / 小松和彦 【単行本】
【送料無料】 西行と兼好 乱世を生きる知恵 ウェッジ選書 / 小松和彦 【単行本】


↓ランキングに参加しています。揺れるハート
↓応援してくれると嬉しいです。るんるん

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 17:25| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月16日

長岡謙吉〜文章で支えた龍馬の知恵袋〜

今回のナンバー2は、長岡謙吉です。
龍馬との対話〈上〉「出でよ!第二の龍馬」坂本龍馬船中八策 [単行本] / 浅井 隆 (著); あうん (刊)
龍馬との対話〈上〉「出でよ!第二の龍馬」坂本龍馬船中八策 [単行本] / 浅井 隆 (著); ...
NO,1坂本龍馬、NO,2長岡謙吉、お互いが最高のパートナーだったと言われています。

680年続いた武家政権を近代国家に作り替えたのが明治維新・・・。
始まりは、1853年黒船来航でした。

維新によって近代国家の骨格を成し、世界に羽ばたいていき現代に至ります。この明示を作るにあたっては台本がありました。それが、「船中八策」でした。

作者は長岡謙吉。来たるべき明治の作り方や、民政による議会政治など、新政府のプランが沢山ありました。このゴーストライターが長岡謙吉です。

長岡謙吉は、龍馬の秘書として様々な文書や書物を書きあげます。

2人は、藩にも幕府にも頼らない日本人の日本人による日本を作ろうとしました。
しかし、当時はまだ自由や平等といった概念はなく、それを言葉から作り、文章化したのが謙吉です。

海援隊という海運業・政治活動をする組織を結成し、近代日本の扉を開きました。
行動する龍馬を知性と筆で支えた陰の主役、それが長岡謙吉でした。

船中八策は、龍馬が作ったとされています。

内容は公議政体論の下、
1.憲法制定
2.上下両院の設置による議会政治
3.不平等条約の改定
4.海軍力の増強
5.御親兵の設置
6.金銀の交換レートの変更

など、当時としては画期的な条文が平素な文章として記されています。

しかし、これを起草し、草稿したのは龍馬の知恵袋・長岡謙吉でした。

また、大政奉還建白書の下書きも謙だったのです。

海援隊のメンバーには、陸奥宗光・近藤長次郎・後藤象二郎・岩崎弥太郎がいます。
ちなみに、海運業・・・海の精神を引き継いだのは岩崎弥太郎でした。

龍馬を語る上で絶対に欠かせない謙吉。言葉を性分化する、記録を残す技術に長けていたと思われます。
龍馬が考えていたことが残っているのは、謙吉がコツコツと記録したからに他なりません。つまり、龍馬のパフォーマンスを記録したナンバー2なのです。

2人はどこでどうであったのでしょうか?

1835年11月、土佐藩最下級武士の二男として生を受けた龍馬。5人兄弟の末っ子・泣き虫で、甘えん坊の落ちこぼれでした。

謙吉は、1834年医師の長男として生まれます。高知城下で家業を継ぐため勉学に勤しんでいた秀才でした。
2人の家は歩いて15分の距離にありましたが、対照的な生活を送っていました。
しかし、土佐藩は特に身分制度が厳しく、そのことが2人の行く末を大きく左右するのです。

身分制度に疑問を持ちながらも勉学に励んでいた謙吉。

当時は医者は知識人。しかし、多くは漢方医でした。中国の医学書で学ぶので、必然的に孔子や孟子も習うのです。おまけに鎖国の後も、オランダ・中国・朝鮮とは貿易をしていたので、蘭学や蘭方医学も入ってきます。
この2本立てなので、医者は当時のインテリでありたくさんの情報の持ち主でした。

そんな謙吉、12歳の時に人生を変える運命的な出会いがありました。
その人は、河田小龍。

河田小龍は、土佐藩士で日本画家でもありました。米国帰りのジョン万次郎の取り調べに当たった人です。だからこそ、国防にも関心のある人でした。

ジョン万次郎は、土佐の漁師の息子で、遭難して米船に救われ米国で教育をうけたのち、帰国し、幕府に用いられて翻訳、軍艦操作、英語の教授などに当たった人物です。


そんなジョン万次郎の漂流体験を書いた「漂巽紀畧」の下で、漢学・自由・平等を教えられました。
これからの国際語は英語だ!!オランダ語では駄目だ!!

西洋医学にも触れ感銘を受ける謙吉。西洋特有の自由・平等という概念にも触れ、文学・医学・思想、様々な面で教養を増やします。
そして、15歳の時、医学修行で大坂に行くことになりました。

代わって龍馬。龍馬は剣術修行のため19歳で江戸へ・・・。思い立ったら即行動の龍馬。。。その龍馬を一変させたのが、
1953年黒船来航でした。

ペリーの艦隊にびっくりし、目を覚ます龍馬、半年後に土佐に戻った龍馬は、河田小龍の門を叩きます。
そこで教えられたのは・・・。
「開国するには金が必要、まずは商売をして金を作る。 
 外国船を一つ買って、商売をしながら航海術を学べばいい。」ということ。

海軍と海運の必要性を説かれ感銘を受けます。

行動力と発想のある龍馬、しかし、それを文章に表わしてくれる人、教養のある人、龍馬にとって苦手な分野を埋めてくれる人が必要でした。

そのブレーンとして紹介してもらったのが謙吉でした。
まさに、海援隊の原型が生まれた瞬間でした。

1856年龍馬は江戸へ、謙吉も江戸で学びます。
しかし、長崎に脱藩。それは、予防学に過ぎない東洋医学に限界を感じ、最先端の西洋医学を求めての脱藩でした。

長崎でシーボルトに支持し、西洋医学を学びます。初めて学ぶ西洋を実学として学びます。
その時に、幕末期の国際法である「萬国公法」も学びます。
これは、海援隊時代に大きく活躍することになります

今は何をするべきなのか?討幕か?
文明開化を目指し勉強する謙吉。

1861年謙吉は、脱藩の罪で捕まります。
3年間高知城下で禁足の罪で村医者に納まってしまいます。

この時、初めての挫折を感じました。

しかし、村で西洋医学を使い医者として力を振るいます。妻も娶りました。

1862年龍馬 脱藩。
江戸で勝海舟に弟子入りし、神戸海軍操練所の塾頭に。。。航海術を学び始め、表舞台へ飛び出ることになります。

一方謙吉は、罪を許され自宅に戻り、家業を継いでいました。何の不足もない生活・・・。しかし、このまま田舎でくすぶっていることは出来ませんでした。
第1線で活躍する龍馬に可能性を感じた謙吉。

しかし、勝海舟の失脚で神戸海軍操練所が閉鎖され、龍馬は長崎で亀山社中という日本初の貿易会社を設立しました。

謙吉も決意、医者という地位も名誉も妻も子も捨て日本の改革をめざし、2度目の脱藩へ。。。

当時、脱藩は他愛罪でした。しかし、海援隊の規約には、
「藩を脱したもの この隊に入る」

などという文章があります。亀山社中には、度の藩にも属さず、ありとあらゆる人と自由に取引できるというものでした。

この亀山社中が動き出すとき謙吉の知性と言葉が何より必要となります。謙吉の言葉が日本を変えるのです。

亀山社中は、日本のための海軍を作りつつ、海外貿易で銃や大砲を買おうとします。
蒸気船の購入資金を援助したのは西郷隆盛でした。

ここに大きな仕事が舞い込んできます。
薩摩の買った軍艦と銃7,000丁を長州に。。。

1866年薩長同盟の締結です。

しかし、海援隊で事件が起こります。
海援隊が運航していたいろは丸が御三家・紀州藩の御用船とぶつかり沈没してしまいました。
これは、日本で最初の蒸気船事故でした。

龍馬と謙吉は御三家・紀州藩と交渉します。

そこで、「萬国公法」を用いて強気に交渉します。
というのも、日本では当時、定められた能率が非常に少なかったのです。そのため身分制度がそのまま用いられました。
しかし、国際法では、日本国内での格差は関係ないと主張したのです。謙吉は、弁護士の役割までしていました。
向米では法律の下では四民平等である!!
自分のしたい四民平等をするためには、法律が必要だ!!

結果は法律の重要性を学んでいた海援隊の圧勝でした。紀州藩に対し8万両の賠償金を請求し交渉成立。

勢いに乗る龍馬と謙吉。

武力に頼らず平和に政権移行させるためには強力な策が必要だ!!
大政奉還のシナリオが、夕顔丸の中で起草されました。それが「船中八策」です。
謙吉がいなければ、船中八策は残らなかったでしょう。

この船中八策、龍馬が上京の船中で後藤象二郎に示した八か条の新国家構想で、大政奉還・議会設置・大典制定・海軍拡張・諸外国との国交樹立が書かれていました。

また、のちに大政奉還を実現させる基礎となる建白書も。。。

武力討伐に乗り遅れた形になってしまった土佐藩。今後の土佐藩の為にも、土佐藩らしい実績の実現が必要だったのです。

この文章は、土佐藩によって時の将軍徳川慶喜に届けられます。

1867年10月3日慶喜は大政奉還建白書を幕府に提出。副書は謙吉が起草したと言われています。
10月14日大政奉還が実現。
2人の理想が現実になろうとしていました。

しかし、
11月5日坂本龍馬京都で暗殺 享年33歳・龍馬が脱藩して5年後の事でした。
海援隊の一方の輪が止まってしまいました。

しかし、謙吉の日本を変える活躍はさらに続きます。
土佐藩から正式に海援隊の時期隊長に任命されます。
しかし、1868年4月27日。海援隊はその役目を終え、解散しました。

謙吉は著作を残します。
1867年「閑愁禄」発行

政府に対しての功績を認められ、異例の三河県知事に任命されます。

1868年「藩論」発行
和漢混合体で書かれた高度な文章と漢字の素養から、直接の筆者は謙吉とされています。

そこには船中八策をさらに発展させた未来に活かせる構想が展開されていました。

龍馬の思想を記録して、最後には本として世に広めた謙吉。
この本は、新しい民主主義のあり方として外国でも話題になりました。
当時の英国公使パークスも、本国へ送ったと言い、現在でも高く評価されています。

その後謙吉は、中央官僚に抜擢、大蔵省に入って落ち着いた生活を送っていましたが、長く患っていた胃痛のため
1872年死去、享年39歳でした。

龍馬は最後まであこがれていた海外に渡ることはありませんでした。が、その思想は、謙吉によって海を渡り、世界に広まりました。

藩=国の時代ではない!!

藩を日本国の地方自治体としてみる。
謙吉最大の功績は、船中八策を書いたこと。
日本が民主化し、今に至る礎を築きました。
25通の手紙で読む 龍馬の肉声 (祥伝社新書 193) [新書] / 木村幸比古 (著); 祥伝社 (刊)
25通の手紙で読む 龍馬の肉声 (祥伝社新書 193) [新書] / 木村幸比古 (著); 祥...

↓ランキングに参加しています。黒ハート
↓応援してくれると嬉しいです。るんるん
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

幕末・明治(日本史) ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 15:38| Comment(1) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。