2012年03月26日

第8回孫市まつり その一

3月25日この日曜日和歌山市にある本願寺鷺森別院を中心に、「第8回孫市まつり」がありました。


出発点は和歌山城一の橋から。黒ハート

和歌山城は、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえています。

和歌山城は、天正13年に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。
その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎で、本丸・一の丸を造りました。

まず、秀長の城代として桑山重晴が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が入城。

そして、元和5年には徳川家康の第10子・頼宣が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。

和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われています。

しかし、現在の天守閣は、和歌山大空襲で天守などの指定建造物11棟すべてを焼失、戦災後の昭和33年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。

そんな和歌山城がこちら。

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鉄砲隊で有名な雑賀衆。鉄砲の音と共に出発です。黒ハート
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和歌山城の一の橋を出発して和歌山城内を歩きだします。
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甲冑をきた雑賀衆が歩き出しました。黒ハート
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背中ののぼりには、「雑賀孫六」「雑賀孫八」「鈴木重秀」「土橋盛重」とか・・・exclamation&question書いてありました。

雑賀衆は・・・
紀ノ川下流域に拡がる一帯を本拠とする地域連合惣的な集団の総称です。

戦国期には優れた水軍と多量の鉄炮を持ち、その高い戦闘力から「雑賀を制する者全国を制す」と呼ばれるほどでした。

雑賀衆の構成は、五緘(からみ)と呼ばれる雑賀荘・十ヶ郷・宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷の各惣から成り、それぞれに統率者が存在し、合議制による自治を進めていました。

また、雑賀衆は一枚岩の強固な団結により織田信長と戦ったと思われがちですが、実際はそうではなく、実に複雑な行動をとっています。

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よそから手作りの甲冑を作って参加している人もいました。

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で、こちらは有名な「六文銭」・真田幸村の赤備え。
この赤備え、もとは、武田の騎馬部隊が使っていました。最強騎馬軍団です。黒ハート

武田の赤備えが強すぎたため、「赤備え隊=精鋭部隊または最強部隊」というイメージが諸大名の間で定着
したので。。。

その武田の遺臣が仕えたのが井伊直政。直政も、これにあやかって、自分の部隊を赤備えとして編成しています。

井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられました。
以後幕末に至るまで井伊家の軍装は足軽まで赤備えをもって基本とされていました。

そして、真田の赤備え。

大坂夏の陣において真田幸村が編成しました。

敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った幸村の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって、真田の武名を天下に示す事だったと言われています。

武田家由来の赤備えで編成した真田幸村隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と『薩摩旧記』(島津家)に賞賛される活躍を見せました。


つまり、最強に与えられる「赤備え」なのです。

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そしてこんな人たちも。るんるん

あーこには、「ママも一歩間違えばこんな感じだったんだよ。あせあせ(飛び散る汗)」と、紹介しました。が、あそこまではじけられるなんて、ちょっとうらやましい。黒ハート

そして隊列は和歌山市駅へ。。。

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2012年03月23日

田原総一朗の仰天歴史塾「大戦へ続く テロの時代」

今回は誰なのでしょうか?
「田原総一朗の仰天歴史塾〜日本リーダー列伝〜です。揺れるハート
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昭和初期、格差の時代が始まっていました。
金解禁と、世界恐慌のダブルショックで企業の倒産・失業が相次ぎました。
欠食児童や娘の身売りが頻発。国民生活は窮乏を極めていました。

一方財閥は、ドルの売り買いで莫大な財産を築き、資本主義への不満が世間に蔓延していました。

政界では、三井財閥をスポンサーとする政友会と、三菱財閥と手を結んだ民政党が、互いの汚職を摘発し、泥試合を展開していました。
反乱による国家改造の機運が芽吹き始めていました。

昭和7年5.15事件、昭和11年2.26事件・・・。わずか数年で、180度変わった激動の時代、日本はこれを境に戦争への道を歩み始めたのです。

政府首脳を次々と暗殺したクーデターは、どのような思想の基に行われたのでしょうか?
そして、この国の進路にどのような影響を与えたのでしょうか?

クーデター・・・革命とは、その時代のトップを失脚させること。

クーデターが起こった大正時代から昭和初期とは???

1929年世界恐慌、国内でも失業者30万人。
1931年満州事変・・・が起こり、不安定ななか・・・。

1932年血盟団事件。これによって、前蔵相・井上準之介 暗殺。
                 三井財閥総裁・団琢磨 暗殺。

井上準之介は、浜口雄幸内閣の大蔵大臣で、金解禁を行いました。金解禁とは、金の輸出許可制を廃止して、金を通貨価値の基準とする「金本位制」に復帰させたのです。

自由主義経済、それに反対した人によって、暗殺。

団琢磨は、ロシア革命後、当時はやっていたマルクス主義・・・資本を社会の共有財産にすることによって、階級のない共同社会を目指す・・・を提唱する人によって財閥のトップが暗殺されたのです。

不況の中で農村が疲弊し、娘を売る人が増えて。。。人間的な生活が出来なくなっていたのです。
政治家たちは、次は自分ではないかと、戦々恐々としていました。


しかし、トップを暗殺しても何も変わらない。。。
それなら国家を変えなければ。。。
5.15事件勃発。犬養毅が暗殺されます。
首相官邸、午後5時過ぎ・・・。
4人の海軍青年将校と5人の陸軍士官候補生が首相官邸に乱入、武装した将校たちに慌てるそぶりも見せず、「ゆっくりはなそう。」と、応接室に招き入れた犬養毅を将校たちは、「問答無用」と、拳銃で射殺しました。

「昭和維新」を掲げ、国民前衛隊と名乗って決起したのは、古賀清志中尉、三上卓中尉達。
首相官邸、警視庁、内大臣邸を襲撃し、混乱に乗じて軍閥内閣を樹立、国家改造を行う計画でした。

しかし、あまりにもずさんな計画に、当初の目的はほとんど果たせず、憲兵隊に自首しました。

軍法会議では、厳しい処罰が予想されましたが、世間の政党政治に対する反感から減刑嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いもの・・・最も重い刑を科された古賀・三上中尉でさえも、禁固15年となりました。「国家のためにやったのだ!!」

昭和史の分水嶺と言われる5.15事件・・・。
こののち、政治家たちはテロの恐怖から、軍部への意見を差し控えるようになりました。

犬養毅、この当時77歳。
犬養は、軍部の味方だったし、対中融和路線を変更し結果的に関東軍の拡大戦略を容認していたのに、なぜ?という疑問が残ります。

それは、政党政治の一番の問題で・・・
犬養毅は明治のころから立憲会議・自由民権運動・政党政治にかかわってきました。
しかし、その政策は「党利党略」。自分の党が勝つために使うというものでした。
それが軍人には、政党の腐敗に見えたのです。
それが殺害の一番の理由でした。



5.15事件を起こした将校を思想的に支えたのが、大川周明です。
戦後、民間人唯一のA級戦犯として極東国際軍事裁判に出廷しています。

アルバイトで天皇の本の出版をすることになり、天皇に傾倒していった大川周明。
「万世一系の天皇」天皇という王朝は、永久に一つの系統によって続くという考えに傾倒していきます。

天皇支配下での社会主義を望むようになります。・・・「一君万民」です。
そして、金銭と縁のない軍人が中心となって政治を行うべきだと考えたのです。

昭和6年3月、10月の二回にわたり、大川周明は、陸軍中佐橋本欣五郎と共に軍隊を出動させ軍事政権を樹立するクーデターを計画するも、実行前に計画が漏れたり、軍首脳部が躊躇し未遂に終わります。

が、これに触発された人々がクーデターを起こすのです。
それが、5.15事件でした。
事件の1か月後逮捕され、禁固5年。獄中の人となりました。


昭和6年9月18日。中華民国奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が関東軍によって爆破されました。柳条湖事件です。

事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎と作戦参謀石原莞爾による謀略でした。
関東軍はこれを中国東北軍の仕業とし、東北地方に侵攻し侵略を始めます。満州事変です。

若槻内閣は、中国に対して不拡大方針をとっていましたが、陸軍大臣南次郎は局地解決を望みますが、これを無視し満州占領計画を進行させ、翌年2月に満州全土を制圧します。

昭和7年3月満州国建国。

清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を擁立し、傀儡政権を樹立します。
この結果、中国では抗日運動が一段と盛んになり、欧米列強も日本への非難を高めます。

その一方で、国民の間では、戦争を支持する動きが高まっていきます。

「贅沢は敵だ!!」

軍国主義は、ますます進展していきました。

こんな中、軍部でも混乱がありました。陸軍士官学校事件が起きました。

軍部には皇道派と統制派があり、皇道派(荒木貞夫・真崎甚三郎)は軍部の隊付青年将校中心で、直接行動による軍事政権を作ることを目的とし、天皇親権の実現を求めていましたが、統制派は、陸軍参謀本部の中堅官僚(永田鉄山・東条英機)が中心となり、政財界と提携し、軍部が国家権力を握り、総力戦体制を作ろうとしたものです。

この二つが内ゲバを始めたのです。


皇道派はクーデターを起こし、真崎甚三郎を総理大臣にしたかったのですが、真崎は昭和10年統制派の策略により、教育総監を罷免されることになります。

皇道派の相沢中佐が、統制の永田鉄山を殺害する事件が起きます。裁判で不利になった相沢・・・。不利になっていく皇道派の青年将校たちは、2.26事件へと進んでいくのです。

これに強い影響を与えたのが、思想家・北一輝です。

北一輝は40歳の時1923年に、青年将校たちのバイブルと言える「日本改造法案大網」を書きます。
そして2.26事件の思想へ導いていくのです。

日本改造法案大網とは・・・。
憲法を3年間停止。
衆議院・貴族院の廃止。
現役を離れた軍人たちが、国家を運営する。
私有財産、天皇の財産を制限し、企業を国営化するという、社会主義的なものです。

5.25事件・大川周明との違いは、クーデターを起こした後の、具体的な構想があったということです。多くの青年将校が、北一輝に心酔します。

1936年2.26事件が勃発。
早朝、30年ぶりの大雪となった東京で事件は起こります。政府の要人を含む9人が殺されます。東京市に戒厳令が敷かれました。

2.26事件の二年前、昭和9年に起きた陸軍士官学校事件、事件の芽を摘むという目的での陸軍歩兵大尉・村中と一等主計の磯部の逮捕は、青年将校たちに上官への不信感を植え付けました。
この村中と磯部は、後にクーデターを起こすことになります。

青年将校たちは、相沢事件で実力行使の決意を刺激されます。
さらに翌年の春、自分達の所属する隊が満州に派遣されることが決まると、時期尚早と言う北一輝の言葉に耳を貸さず、派遣前の決起を決断します。

そして、2.26事件。。。
連隊長のいない深夜零時から早朝4時にかけて、麻布赤坂地区にある3つの連隊で非常呼集がかけられました。政府要人を暗殺し、警視庁や陸軍省を占拠し、軍部主導の理想国家を作る。

襲撃開始は午前5時。

「尊王討奸」を掲げた青年将校たち。。。殆どが、皇道派に属する20代後半から30代前半の少尉・中尉・大尉でした。彼らは、およそ1500名の兵士を率いて隊列を進めます。
そこには、「天皇親権の国家にしなければ!!」という意思が軍隊を動かしていました。

反政府クーデターが始まりました。


部隊を指揮して

蹶起直後の半蔵門 岡田啓介(内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤實(内大臣)
高橋是清(大蔵大臣)
渡辺錠太郎(陸軍教育総監)
牧野伸顕(前内大臣)

の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害。
また岡田総理も殺害と発表されました(但し誤認)。

鈴木貫太郎を襲ったことが、天皇の耳にはいり、天皇の怒りをかった決起部隊は、反乱部隊とされました。

この時の兵隊は、「天皇の為を思って」戦っていました。
天皇は、自分たちの決起を全面的に認めてくださると、思っていました。
なのに、反乱軍とされてしまったのです。

真っ青になる青年将校たち・・・。

未曽有のクーデター発生から2日後の2月28日、青年将校率いる決起部隊には、前日東京市一帯に発令された戒厳令により、治安維持任務が課されていました。

が、予想もしなかった事態が。。。
この日の朝、天皇の絶対命令「奉勅命令」が下ります。

決起隊は反乱軍となり、2万人以上の鎮圧軍が出動します。
2月29日、決起部隊が敗北し、逮捕されます。
青年将校2人が自決し、北一輝ら民間人をふくむ19人が死刑判決を受け銃殺されました。

この事件ののち、陸軍統制派が皇道派を一掃。
統制派は、東条英機を中心として、太平洋戦争の道を進むことになります。

大川周明と北一輝の天皇に対する考え方の違い・・・。

大川周明は、天皇の万世一系、天皇が中心で一君万民の社会主義国家。

北一輝は、天皇も国民も進化している。歴史が始まって以来、みんな天皇をバカにしていて、天皇を利用している。天皇、玉を手に入れたものが勝つ!!=天皇を利用した社会主義国家。だったのです。
それは、西郷大久保も、GHQも同じ考え方だったと言えます。

しかし、将校たちには、同じように映っていたようです。


そんな将校たちと北一輝、同じ考えだったのでしょうか?

北一輝の理想は、国民革命をおこし、国民国家を作ること。そのためには、軍隊を使っても構わないというものです。彼にとっては、天皇のための軍隊ではなく、国民を救うための軍隊でした。

しかし、青年将校たちは、天皇の周囲には「君側の奸」がいて、これを殺せばいいと思っていました。
つまり、クーデター後の具体的な方策は全くなく、ただ破壊だけをしたのです。

天皇に対する考え方が違っていました。将校たちにとっては、天皇は絶対だったのです。

もし、北一輝の思惑通りに事が運んでいたら、決起部隊は皇居に向かっていたはずです。。。。。
おまけに、青年将校たちが慕ってきた皇道派の幹部は、味方にはなってくれなかったのです。



この時、天皇が青年将校たちを応援したら、真崎たちが新政権を作ったはずです。

しかし天皇も、クーデターではなく合議制を望んでいました。

この二つの事件で、政治家たちは暗殺に怯え、命を張ることが殺されるというリアリティが植え付けられてしまうのです。

これがきっかけとなって、戦争へと進んでいきます。


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2012年03月22日

古代ポンペイの真実〜新発見!54体の人骨の謎〜

「狩りをし
 
 風呂に入り

   ゲームをして笑う

      それが人生だ」

人類が、最も幸福だったと言われる古代ローマ時代。
ローマ帝国 第二集 一万人が残した落書き ?ポンペイ 帝国繁栄の光と影?
ローマ帝国 第二集 一万人が残した落書き ?ポンペイ 帝国繁栄の光と影?
人々が享受していた豊かな暮らし、その息吹をそのままに残す遺跡が、イタリア南部にあるポンペイです。

ポンペイは、西暦79年、ベズビオ山の噴火によって、突然灰に包まれました。
そのためタイムカプセルのように、2000年前の遺跡が今に残っています。

そんなポンペイで、近年大発見がありました。
発掘された建物の地下から、様々な年齢の54体の人骨が発見されたのです。
分析の結果、いろいろな事実がわかってきました。

2000年前の驚くほどに進んだ暮らしぶり。
そこで人々は何を大切にして生きてきたのか?
古代ローマの反映とその秘密に迫ります。

それは、人類の理想の世界か?
それとも究極の快楽の世界なのでしょうか?


古代ローマ帝国、紀元前8世紀に建国し、紀元5世紀までその後広大な領地を支配しました。
ポンペイがあったのは、最盛期紀元前後の頃。
ポンペイを襲った悲劇はベズビオ山から始まりました。
その「ポンペイの悲劇」


およそ2000年前、栄えていたポンペイをはじめローマの都市のいくつかがベズビオ山の噴火の直撃を受けました。その火山灰の量は、20mをこえるものでした。町は灰の下に埋もれ、1500年以上もの間存在を忘れられていました。

西暦79年春、午後1時ごろ異変が起こりました。
山頂から巨大な噴煙が・・・。初めて見る光景でした。

火口から3万m上空まで真っ黒な柱が上りました。人々はパニックに・・・!!
町にはがれきが降ってきます。降り注ぐ量も急に増加・・・。


深夜零時過ぎ、火砕流が町を襲います。行く手にあるものすべてを飲み込み・・・町は永遠に時を止めました。
そんな大惨事の中、生き残った人たちがいました。
地下室から54体もの人骨が発見されました。

なぜ彼らはここにいたのでしょうか?
遺体の中には、エメラルドの装飾品や、100を超える金貨に囲まれたものも・・・。

装飾品が化学反応を起こして、骨が緑色に変化している骨がありました。
「グリーン・レディ」
「グリーン・マン」と呼ばれています。

このグリーン・マンは、遺体の近くに印鑑がありました。名前は「ルキウス・クラッシウス・テルティウス」
この建物では商いが行われていました。イチジク・ザクロ・ワイン・オリーブオイル。
グリーン・マンは、この建物の主人で、市場を経営し、莫大な財産を持っていました。地位と名誉、財産があり、町を離れることが出来なかったのです。

「グリーン・レディ」は、妊娠していました。
だから、ポンペイにとどまる決心をしたのです。

クラッシウスは町の人と共に地下室へ・・・。その人たちは、多種多様の54人でした。

火砕流が町を飲み込みます。が、一時的にでも、奇跡的に助かった人たちでした。

古代ローマは、近代ヨーロッパの原型と言われています。古代ローマ帝国崩壊から見える現代社会のもらいはどんなものなのでしょう?

その豊かな暮らしぶり・・・。

町には400件もの商店街が軒を連ねていました。
古代ローマ人が最も愛したものは?

@風呂
冷たい・熱い・蒸し風呂・日光浴といろいろあり、仕事は午前中で終わり昼からは風呂へ。そこは皇帝も、貧しい人も皆行く町の社交場でした。

水か豊富にあって、水汲み場は町に40か所以上、水道の技術が発達していて水道弁も今と同じ形でした。

Aグルメ
今とは食事形態が違い、寝そべって食べるため、食事をするためのベッドがありました。
お腹がふくれて苦しくなったらはいてまた食べる。。。そんな食生活でした。
夢中になって食べていたのは豊富な魚・魚介類・・・自然の恵みをたくさん享受していました。

B娯楽
円形闘技場でのショーが大好き。猛獣と死闘を演じるグラディエーターは一番人気でした。地下には舞台装置があって地下から猛獣がせりあがる。。。そんな興奮が大好きでした。


働くのは少し。@ABで気楽に過ごす。今日を楽しめの精神でした。
このローマの豊かな生活は、産業革命がくるまで人類は凌駕することは出来ませんでした。


古代ローマは何故豊かな社会を実現できたのでしょうか?古代ギリシャのような、天才はいないのに数倍の生活を維持できています。

それは、統治の仕方が良かったのです。近代の理想の社会でした。

ギリシャのようなポリス(都市国家)ではなく、地中海の国々を領域国家にする・・・足りない食料を補い合う・・・という統治の仕方でした。そうすると、全体で食料を巡る戦争がなくなり豊かになるのです。

54体の骨の中にはアフリカ系の男性もいます。奴隷ではなく、骨がグリーンに変色していることから裕福な暮らしをしていたのが解ります。

では、ローマの社会システム「奴隷制」とは?

帝政時代のローマの位は・・・

皇帝⇒元老院⇒騎士階級⇒市民⇒奴隷

となっていました。

イタリアの小国にすぎなかったローマが、次々に支配地を増やし、戦争捕虜や征服地からの移住者を奴隷としたのです。

ローマの奴隷には、様々な人種がいました。仕事も才能に応じてバラエティに富んでいました。

家庭教師奴隷・・・教養の高いギリシャ人などです。
名告げ奴隷、演奏奴隷・・・ほとんどが、命を脅かされるものではなく、最低限の生活保障がありました。

その最大の特徴は、お金を払うなどして自由の身(解放奴隷)になれるということです。

ポンペイと同じように埋まってしまったヘルクラネウムという町は、4分の3は解放奴隷でした。

解放奴隷には、市民の権利、金を稼ぐ権利があって、尊厳が守られていました。

基本的に裕福でも貧しくても食生活は同じようなものを食べていたようです。
分け隔てなく、健康的な生活を送っていました。

今の奴隷のイメージとは全く違うのです。
奴隷であるという身分を隠している人もいました。

現代でいうと、働いてお金を稼ぐサラリーマンのようなものです。

ジェネラリストであるということを重視するローマでは、奴隷の仕事は一芸に秀でたエキスパートだったのです。
お金を扱う仕事が卑しいとされ・・・
解放奴隷でも、財務大臣がいたそうです。だから、案外お金持ちだったのかもしれません。

ローマの政策に・・・「パンとサーカス」と言うのがあります。
パンは、ローマ市民に小麦を無償配給する福祉制度の事です。恵まれない子は、皇帝が養育しました。
サーカスは、戦車競技のことで、これを市民に提供しました。

皇帝は地位や名誉、お金もありますが、国民の人気者でなければなりません。でないと・・・親衛隊に暗殺されるかもしれない・・・そんな生活を送っていました。


イギリスのハドリアヌスの長城は、全長118q、ローマ時代の国境線は、遠く果てまで来ていました。
最盛期の2世紀、国土はヨーロッパからアフリカ北部まであり、世界の4分の1を占めました。

新しい都市に、街道を網の目のように巡らして、流通が活発化。

アルジェリアの「ティムカット」には劇場・14の公衆浴場が残っています。ローマと同じように、生活を楽しんでいたのです。

それは、スペインの「タラゴナ」、イギリスの「セント・オールバンズ」、トルコの「エフェス」、チュニジアの「エルジエム」・・・支配地には最先端の都市が作られたのです。
ローマの傘下に入ると快適で幸せな生活。。。
それは、ローマン・スタンダード、円滑な統治であり”あこがれ”の輸出と言われました。

200年にわたって、戦争のない
「人類が最も幸福だった時代」だったのです。

しかし、永遠ではありませんでした。
繁栄を支えていたのは、「領土拡大政策」。これには、限界がありました。

その維持費と軍事費は、いつの間にか国家予算の半分を占めるようになっていました。

軍事費、福祉、それらが財政を圧迫、大量の硬貨の発行、硬貨の質が落ち、経済が不安定になりました。

国は荒れ、内乱が起こります。帝国は混乱を極め、ゲルマン人も侵入。。。
国境の維持に努める政策転換をしました。

その時以後、ローマがかつての輝きを取り戻すことはありませんでした。
繁栄の問題点は、野蛮なものがなくなるということ。みんなが豊かになってしまって、リラックスしてしまって、野蛮でハングリーなところがなくなってしまうということ。。。

歴史を動かす原動力は、人々の心理状態によってるということ。このコントロールは難しい。。。
戦いが増えてきたことで、兵士たちに「キリスト教」思想が流行ります。ここから世界宗教になっていくのです。

395年、あまりにも膨れ上がった帝国は、東西に分裂、終焉の道を辿ることになります。

ここからわかるのは、「繁栄」の理由が「衰亡」の理由になる、多様性が「活力」から「混乱」になるということです。

歴史は繰り返す。。。



ポンペイの遺跡は、1748年発見。

ここに立つと、古代世界に運ばれたような気になる・・・・スタンダール

世界には、これまでいろいろな災禍が起こったが、後世の人々にこれほど多くの喜びを与えたものはない・・・ゲーテ

新古典主義という一大ブームを巻き起こします。建築、絵画・・・あらゆる分野で強い影響を受けます。

この時代は、フランス革命・産業革命という大革命、アメリカ独立戦争が起こった時代、豊かだった古代ローマ時代に目を向けました。幸せの時代、理想の社会を求めたのです。


ローマは世界を3回征服したと言われています。
「ローマ帝国・ローマンカトリック・ローマ法」

ローマは文明の完成形と言われています。
ローマの”自信”が今のECを作りました。

毎日を等身大でENJOYする。それが、ローマの精神なのです。黒ハート

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