2012年02月24日

近代ニッポンを造った男たち。

日曜日から始まりました。「田原総一朗の仰天歴史塾。ニッポンリーダー列伝」です。

第1回は、「近代ニッポンを造った男たち」です。

2012年、混迷の時代、ふと気が付くと、近代制度は疲労を起こしていました。明治・大正・昭和・平成、日本という国は、どのような道のりを経て今のような形になったのでしょうか?
政治経済を担ってきたこの国のリーダーたちは、どんな決断を下してきたのでしょうか?

これにメスを入れるのが、ジャーナリスト・田原総一朗さんです。
田原総一朗さんが、独自の観点から歴史を解説してくれます。
田原総一朗/田原総一朗の遺言〜一線を越えたジャーナリスト達〜
田原総一朗/田原総一朗の遺言〜一線を越えたジャーナリスト達〜
日本は、ペリーによって無理やり開国させられました。植民地になるはずが・・・。列強と張り合うまでに成長します。

今回は、その近代ニッポンを造った男たちにスポットを当てます。

江戸時代を終わらせた男たち・・・
西郷隆盛・・・討幕運動の指導者となり、江戸城を無血開城させました。人望厚く、正義感にあふれ、自らの道徳観に基づいて行動しました。

大久保利通・・・強靭な意志と権力に執着し、全てを用意周到に画策し、くじけることなくやり遂げた男。心に決めたことには手段を選ばない男でした。

明治維新の立役者であるこの二人、鹿児島の同じ下級武士で、同じ町に生まれ、クーデターによってニッポンを変えた男たちです。

当時島津藩主・斉彬は、封建政治を倒すために・・・ニッポンが世界に打って出るために、富国強兵、殖産興業に力を入れていました。その斉彬のお気に入りが西郷でした。

島津斉彬と西郷隆盛・・・。
2人は、世界と日本が渡り合うために・・・。

ペリーが来た時の斉彬の考えは、「開国は仕方がないが、まずは幕府改革」でした。
一方、西郷隆盛は、開国か鎖国かは「棚上げ」にしようという考えでした。先送りです。

島津斉彬が亡くなって、島津久光が後を継ぎます。大久保利通は久光に取り入るために、久光の碁仲間の僧侶と仲良くなって取り入ることに成功します。2年もかかるのですが・・・。慎重・現実主義・やり遂げるという性格を十分に見ることが出来ます。

久光に取り入ると同時に、斉彬の遺志を継ぐ目的で結成された薩摩藩内の組織・精忠組を組織、過激派を養成するのです。この人たちの一部が、後に桜田門外で井伊直弼を暗殺するのです。

斉彬の死後、井伊直弼によって、安政の大獄が始まりました。斉彬の幕府改革に関わっていた西郷にも追っ手が迫りました。
薩摩藩は、逃れさせるために、西郷に奄美大島行を命じます。その暮らしは3年間続きます。

大久保は、久光に取り入っていましたが。。。「西郷は、普段は目障りだが、有事には必要だ」と、思っていました。ということで、奄美大島から呼び寄せるのですが、今度は西郷が久光と喧嘩。その後、沖永良部島に2年半遠島になりました。

「ダメなものは、お殿様でもダメ!!」この西郷の性格からも、「明治維新は、大久保が西郷を上手に使ってやり遂げた。」ということが出来ます。
舞台裏が好きな大久保、舞台上で号令をかけるのが好きな西郷と言えるでしょう。

1860年代、世の中には尊王攘夷の嵐が吹き荒れていました。当時朝廷での主導権を握っていたのが長州藩でした。
ライバルの薩摩藩は、会津藩と共に、長州藩の朝廷独占を阻止しようと事を起こし、長州藩を京から追い出します。これが、八月十八日の政変です。

1864年長州藩は挙兵、京都に攻め込み、薩摩藩と幕府側と武力衝突になります。これが、禁門の変です。その時、薩摩藩・軍司令官として活躍したのが、沖永良部島から帰ってきた男・西郷隆盛でした。

西郷は島流しだったのに、征長軍の参謀長・・・。平穏な時には目障りでしたが、やはり、有事には、西郷が必要なのです。
西郷は情の人。大久保は理の人でした。

1865年大久保の朝廷工作が始まります。
佐幕派だった岩倉具視を口説き始めました。最後には、佐幕から討幕へと口説き落とすのです。
もう一つ、孝明天皇が亡くなった時に、14歳だった少年・明治天皇を味方につけることに成功します。
つまり、岩倉具視を討幕派に引き入れ、後を継いだ明治天皇を手中にしたのです。

1866年薩長同盟成立。
はじめは、公武合体とも思っていたけれども・・・。
そんな中、西郷は・・・合従連衡、幕府に頼らず、各藩の武士たちが組んで改革しようとします。
西郷は、東京にも人脈があり、人望がどんどん高まっていきます。
2人が政治の中心人物になっていきます。

1867年幕府が慶喜が大政奉還したにもかかわらず、岩倉具視と大久保は、明治天皇から討幕の密勅(あったかどうかは疑わしいそうですが・・・)を手に入れて、京都御所を包囲、王政復古の大号令を発して、徳川抜きの政権を作ろうとします。

1868年対立する旧幕府軍1万5000人と新政府軍4000人が鳥羽伏見で戦端を開く。。。鳥羽伏見の戦いです。勝ったのは、新政府軍でした。
戦いの火ぶたが切られたのは鳥羽。。。
しかし、鳥羽は街道が狭く戦うのに人数は関係なかったこと、薩長軍は最新の武器を持っていたこと。
もう一つは大久保が作らせた10本の「錦の御旗」でした。これによって、旧幕府軍が賊軍?と戦意を喪失した。このことが勝因だと思われます。
この錦の御旗は、大久保が勝手に作ったものです。先に幕府軍が作っていれば、幕府軍が勝っていたかもしれません。策謀家の大久保利通。情報戦争に勝利したのです。

薩摩・長州軍と終戦交渉にあたったのは、勝海舟と西郷隆盛。
江戸城は無血開城になったものの、勝海舟の意見を大幅に飲むことになってしまいます。

この交渉をしている間に、幕府軍は武器を会津へ運び入れていました。しかし、これは西郷の戦略だったのでは?わざと逃がして会津に拠点を作らせて、まとめて叩かないと、中央政府は作れないということです。
幕府軍を反乱へと追い詰めたのではないか?それが、全国制覇への道のりだったというのです。

西郷は、本当に馬鹿なのか?天才なのか?
朝廷にお金がないので、薩摩・長州・土佐の藩兵は、藩のお金で戦っていました。江戸につくころには兵糧が底をつきます。そこで、大久保は、薩摩に戻って藩財政を急遽立て直し、西郷は兵を再組織して会津へと向かったのです。
お金も時間もなかったので、無血開城を受け入れるしかあなかったのでは?ということです。
西郷も、大久保と同じようなしたたかさを持っていたのかもしれません。

では、世界はどのような状況だったのでしょうか?

帝国主義の時代・・・。
@侵略戦争をして、植民地を作り、現地人を「ただ同然」でこき使い、
A自国の製品を植民地に売りつける、
B石油や鉄などの資源を奪う。。。。
だから、マルクスの言う革命は先進国では起きませんでした。


1858年インドを直接統治、中国では1840〜42年アヘン戦争、薩摩はこの状況に、危機感を抱いていました。
アメリカでは1861年〜65年南北戦争終結、武器が大量に余っていました。
武器は、グラバーたちによって持ち込まれ、坂本龍馬の仲立ちで長州藩へ流れ込みます。
その大量の武器によって勝利を治め、1868年新政府明治時代が始まりました。

アジアで植民地にならなかったのは、タイと日本だけでした。
植民地にされるか、植民地にするか、二者択一の時代だったのです。

そんな時代の開国でした。
徳川幕府がなくなりました。
版籍奉還によって、ほとんどの武士が失業しました。
廃藩置県によって県知事(県令)が置かれましたが、県令は、中央政府が決め、派遣される、まさに中央集権体制です。
徴兵制があり、国民が全て兵役にとられました。
これをしたのは大村益次郎で、国民皆兵・・・国民全部を兵隊にしないと、世界の中で生きてはいけない。と思ったからなのです。

版籍奉還によって失業してしまった武士の身を案じる西郷と、日本が今後、豊かで植民地にされない国づくりをしようとする大久保との間に溝が出てきてしまいます。

明治4年、岩倉使節団を海外に派遣します。政府の要人100人以上が1年間も視察旅行に・・・。その中には、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文がいました。

アメリカの民主主義を目の当たりにし、イギリスでは産業革命の最先端技術に驚き、ドイツでは宰相ビスマルクの政治体制に驚愕します。

アメリカでみんな平等である!ということ、イギリスで殖産興業が重要だということ、ドイツで富国強兵を学んで帰ってくるのです。

明治初期、鎖国体制をとっていた朝鮮に対して開国を迫った日本。政府の中枢にいた西郷が、本当に征韓論を唱えていたのでしょうか?

なぜ、朝鮮との国交交渉を武力を用いようとしたのでしょうか?

薩長土の3藩の兵で作られた政府直属の軍隊・近衛師団、近衛都督となったのは、西郷隆盛でした。
官軍が初めてできた瞬間でした。幕府との戦いに勝ったもののその後どうすればいい?
戦争もない、仕事もない、侍の地位もなくなってしまいました。
しかし、近衛7000人の兵は確かにあるのです。
西郷は、部下の兵士たちの仕事場を朝鮮に求めようとしたのです。

西郷隆盛に挑戦と戦うつもりはあったのでしょうか?

西郷は軍艦で脅かすだけで、砲撃はしませんでした。
挑戦に条約を結ばせようとしたのです。
武力行使したい近衛師団を抑え、自分が使節として朝鮮へ渡ろうという考えでした。
西郷は、やっつけに行ったのではなかったのです。
自分が国交交渉に行って、殺されたなら仕方がないと思っていました。江藤新平たち日本に残っていたものは賛成します。

世界を見て帰ってきた大久保たちは、殖産興業・民主主義の確立を優先しようとします。経済が第一で外交は二の次です。

ここで、二人が袂を分かつのです。


外遊組と留守政府(西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平)との間で衝突が・・・これに板挟みにあっていたのが三条実美でした。三条はノイローゼとなり、大久保は内務卿となって殖産興業を推進、西郷は軍隊を連れて薩摩へ帰郷してしまいます。明治6年の政変です。

西郷は、なぜ軍隊を引き連れて薩摩に帰ったのでしょうか?

近衛師団の最大勢力である薩摩人が、西郷の下野に怒り、反乱を起こす危険があったからです。
もし、陸軍(鎮台兵)と、戊辰戦争を潜り抜けてきた近衛師団と戦ったら、近衛師団の方が強いのは間違いないことでしょう。

反乱を避け、薩摩に引き上げた西郷。しかし、薩摩以外から反乱が起きてしまいます。

1876年廃刀令が出され、秩禄処分(俸給の支給制度を廃止)がされます。
プライドを傷つけられた士族は、佐賀の乱・萩の乱。各地で反乱を起こします。新政府軍は、これを鎮圧、江藤新平、前原一誠はみな、処刑されます。
大久保は、下野した士族たちを警察に堂々と内偵させて挑発していたようです。
士族たちが同盟を組んで強くなる前に、一つ一つ潰していったのです。

しかし、西郷は、国家のためという観念のもと、自分が大久保を倒して天下を取ろうとも思わないし、挑発にも乗りません。西郷は、大久保とは戦争はしたくはなかったのです。
しかし、挑発に乗った部下たちを見て西郷もやむなく戦いを決意したのが西南戦争なのです。
西郷たちは負けて、最後は自刃して果てるのです。

これからは、大久保の独裁政権になります。
内務省を作ります。これは、内政全般に及ぶ権限を有した中央官庁で、1947年に廃止されるまで、日本の中枢にありました。全国の知事は内務省が決定して、警察の管理もしていました。

太平洋戦争後、GHQは、この強大な力を持つ内務省だけを廃止することになります。
つまり、全ての官僚の中心は内務省だということなのです。
そこを、大久保卿は握ったということです。

中央集権になってしまった日本。その日本を地方から変えていこう!!いま、廃藩置県を止めて、廃県置藩になろうとしている人がいます。それをしようとしているのは橋本徹、河村たかし、そして、石原慎太郎かもしれません。

どうして薩長土肥の人たちだけが、国の中枢になりえたのでしょう?

それは、薩摩藩が幕府から一番遠かったということ、島津藩は、関ヶ原で石田三成についていました。幕府に忠誠を誓っていないのです。

長州は、吉田松陰の存在が大きく、才能のある武士が沢山いました。やはり日本という国は、天皇が支配するべきであるということ、開国が大切だということ。活躍したのはみな、松下村塾の生徒でした。


今の日本に必要なのは、西郷か、大久保か?
田原総一朗は、大久保が必要だと思っています。

明治維新の時はヨーロッパ、太平洋戦争の時はアメリカをお手本に出来ましたが、今、日本のお手本となる国がありません。

今の政治家は力がないというわけではなくて、手本がないので難しいのです。

だからこそ、理の大久保利通が良いのではないか。ということでした。

東京都千代田区紀尾井町、今から134年前、この坂の途中で内務卿大久保利通は暗殺されます。
犯人は、明治政府に不満を持つ6人の不平士族でした。
明治天皇に謁見するため、馬車で皇居に向かっていた大久保は、士族の持つ日本刀によって殺害されました。その懐には、前の年に政敵となった西郷の手紙が忍ばせてあったといいます。
大久保は・・・本当は2人の連携で国を造ったという気持ちが強かったのです。


他の人たちは、お金や地位に執着したといいますが、大久保がなくなった時、残っていたのは個人名義の借金だけだったといいます。

幼馴染の西郷さんを見殺しにしてしまったということで、大久保人気は皆無に等しいようですが。。。
皆さんは、どうでしょうか?
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posted by ちゃーちゃん at 13:57| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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