2012年02月16日

平重盛〜平家滅亡のキーパーソン〜

平安時代末期、平家一門が敗れ滅亡していく姿を書いた平家物語。
この無常感は、日本人の美の原点となり、時代を超えて愛されてきました。

平家物語の英雄と言えば義経、最大の悪役が清盛でした。
非道な独裁政治を行い、その報いで一族を破滅へと導いた者として、物語の中で徹底的に非難されました。しかし、平家の人間すべてが悪人として書かれたわけではありません。

ここに、清盛をたびたび諌める平家の良心が登場します。それが、清盛の長男にしてNo,2の平重盛です。重森が棟梁として一門を引き連れていれば、滅びなかったのかもしれません。

後世、万里小路藤房、楠正成と共に日本三忠臣と呼ばれた人物です。誰よりも国家を思い、平家を憂いだ男でした。

忠ならんと欲すれば 孝ならず
孝ならんと欲すれば 忠ならず
父をとるべきか、法皇をとるべきか?
2人の偉大な権力者の間で揺れ動いた平家のハムレット、重盛。
奢り高ぶる平家にあって、唯一平家の良心と言われた男の苦悩の物語です。

平家物語では、No,1の清盛は悪人、重盛は善人として書かれています。
これは、琵琶法師の音曲として聞かれていたものです。
奢れるものも久しからず・・・で始まるドラマ仕立てのこの歌。良いならなぜ滅亡したのか?ということで、後世の人間が、悪人として傲慢に書いたものです。


時代は平安末期。開拓農民として武士が登場しました。奈良や平安初期は、貴族や僧侶しか土地を持っていませんでした。しかし、大和朝廷の拡大に伴って開墾した土地を、自分たちで守ろうとする独立集団が出てきました。これが武士なのです。つまり、「一所懸命」土地を守ったのです。

これは、織田信長が兵農分離をするまで、兵農一致は続きました。

平安時代軍事を放棄してしまっていた貴族たち。後期になると、治安が滅茶苦茶になっていました。
そして、国の治安、管理を私的な武士に任せていたのです。

平忠盛は、日宋貿易に尽力し、農力、有り余る財力を持つようになります。貴族たちも武士の力を見過ごせなくなってきました。この平忠盛を公家にして、政治の一翼を担わせようとしました。

保元元年(1156)、朝廷内で「崇徳上皇」と「後白河天皇」、どちらも自分の息子を天皇にしたいと対立します。そうして、保元の乱が始まりました。

<崇徳側>           <後白河側>
清盛の叔父  平忠正      平清盛
義朝の弟   源為朝      源義朝

平氏と源氏が入り乱れ、親戚同士で戦うことになります。
清盛は若干20歳に満たない重盛を連れて参戦。すでに重盛は片腕となっていました。

源義朝の活躍により、後白河陣営の圧勝。
清盛は播磨守に、重盛は従5位になりました。

しかし、義朝は納得の見返りをもらえないまま・・・。

2年後後白河は二条天皇に譲位します。
狙いは院政を行うこと。
後白河法皇 平家を滅亡させた黒幕
後白河法皇 平家を滅亡させた黒幕
平治元年(1159)、清盛・重盛が熊野参詣をしに・・・二人が留守で京が空いている時に後白河上皇と二条天皇が拉致されます。平治の乱の勃発でした。首謀者の一人は見返りの少なかった義朝でした。

今回は、平氏源氏の全面対決です。
清盛は兵を集めて京に戻るも、天皇たちが敵方にある以上自分たちは賊軍です。。。官軍となる必要がありました。

清盛は降伏したと見せかけて、二条天皇・後白河上皇を奪還します。
重盛は、義朝の息子・義平と激戦を繰り広げます。大活躍を見せます。
戦略の清盛、戦闘力の重盛、親子がうまくかみ合って、劇的勝利を勝ち取り、源氏を圧倒します。

そうして始まった後白河上皇と平家による同盟の政治。
源氏の棟梁義朝は戦犯となり、一族郎党斬首となりました。
その中に、子供が・・・
「13歳の子供を殺すのは忍びない。」と、継母・池禅尼に懇願され、清盛はおれてしまいます。結局島流しに・・・。弟は、その母で絶世の美女・常盤御前に泣きつかれて鞍馬寺に・・・。

これが、平家最大の失敗でした。この兄弟、後に平家を滅ぼす源頼朝と義経なのです。

ではなぜ殺さなかったのでしょうか?
まず、貴族は殺しません。今まで子供を殺すような、そんな酷い歴史はありません。島流しが出来る限りでした。
清盛は、女性に泣かれると弱く、情のある人だったのです。
重盛もまさか、自分たちが滅ぶことになろうとは思ってもみませんでした。
これ以降は、皆殺しが行われることになります。「この轍は踏むな」歴史の教訓となったのです。

清盛がタッグを組んだ後白河上皇は腹黒い人でした。
もともと天皇になれる人ではありませんでした。近衛天皇急死後、皇位を守仁天皇に継がせようとする動きがあり、その父後白河が中継ぎとして即位していたのです。つまり、地位に執着している人でした。

後白河が実権を握ると、平家にもチャンスが訪れます・・・が、重盛には悲劇が・・・。

1167年50歳の清盛、太政大臣に就任します。日本史上、初めて武士が政治のNo,1になったのです。このことは、後白河との間に新たな要因を作ります。

清盛は、京を重盛に任せて、出家して福原へ。更なる野望を抱いて。。。
大輪田泊では、忠盛の時代から日宋貿易で巨万の富を得ていました。貿易をさらに拡大しようとします。巨大化する平家。

後白河も出家し、法皇となりますが、あまりにも大きくなっていく平家に危機感を持っていました。
政権維持のためには平家の力が必要ですが、あまりにも強くなりすぎて。。。このままでは自分の力が弱まってしまう・・・。

30人の公家のうち、16人が平家一門という異常な状態になり、しかし、その勢いは止まりません。
清盛と後白河の関係は、利害関係のみ。重盛が調整役でした。
当時の政治は、院政でした。院政とは、実権を握った上皇や法皇が、天皇に代わって政治を行うことです。これは、藤原氏の摂関政治を抑えるために始まったものでした。
政府組織の外から政治を動かすというものです。

しかし、今、平家が勢力を持ってきている・・・。平家を抑え込んでおきたい・・・。
第二の藤原氏になりたかった清盛と、ならせたくなかった後白河との、綱渡りのような関係だったのです。
そんな時、重盛が不祥事を起こします。
1170年殿下乗合事件
重盛の二男・資盛が、鷹狩に向かう車と、摂政・藤原の基房の車が路上で出会います。基房の家人が、資盛の家人に無礼があったと資盛の車を壊します。
それを聞いた重盛は、許さずに、家人の髷を切り落としてしまったのです。
当時は、髷を他人に見られることもダメだったのに・・・。です。

平家物語では、清盛がやったことになっていますが、重盛ともあろうものが、なぜ?
ストレスからブチ切れたのかもしれません。

政治的に力を持ちすぎた清盛と後白河法皇、理想も政治も一致しなくなって・・・。時代が引き裂きます。

1176年、重盛が後白河から右近衛大将に任命されます。これは、平家打倒を画策している後白河の作戦でした。
後白河は、東山鹿ケ谷の山荘で、平氏を快く思っていないものと、謀策を図ります。これが、多田行綱の密告によって清盛にばれてしまいます。

清盛は、一斉検挙、後白河さえも幽閉しようとします。

苦しい立場の重盛。どちらも両立できないまま、父の信用を失い、そのことが重盛の政治的力も、求心力も失うことになります。

平家は分離、後白河寄りと平家寄りに分かれてしまいます。
まさに、一触即発!!平家の運命はどうなってしまうのでしょう?
法皇を敵に回す。。。天皇は神様という時代、常識的にも清盛の方がおかしいのですが、それは、時代を切り開く人の常と言えるでしょう。

本当は、後白河法皇は、平家を滅ぼすつもりはなかったと思われます。というのも、源氏ではまだまだ不十分、清盛の後ろ盾が必要だったからです。

1179年3月、重盛は熊野に参詣し、平家の安泰を祈ります。帰京すぐに病に倒れてしまいます。
後白河は直々に見舞いに行き、清盛は宋の名医を送ります。

しかし、その甲斐もなく、42歳で死去。二人の権力者に振り回された悲運の一生でした。

その後すぐ、重盛の所領越前は、後白河法皇に没収されます。

これでは、後白河をかばい続けた重盛が哀れだ!!と、清盛の怒りは頂点に達します。もう、誰も止められませんでした。
後白河法皇を幽閉し、完全独裁、暴走する清盛。福原遷都に東大寺の焼き討ち・・・。
全国の嫌われ者になっていきます。

一族滅亡の序曲でした。

後白河は何故清盛を怒らせるようなことをしたのでしょうか?
もしかすると、平家を滅ぼすという方向性を持たせる、高等戦術だったのかもしれません。

重盛が生きていて、普通にNo,2になっていたら、平家があっけなく滅ぶことはなかったかもしれません。例えば、東は源氏、西は平家、二大勢力の分裂時代だったかもしれません。

そうして、奢り高ぶった平家に立ち上がったのが、あの兄弟。。。

1180年、反平氏を集めて挙兵したのは、頼朝でした。頼朝は、20年かけて、着々と力をつけていました。

熱病に倒れる清盛。「自分が死んだ後は、仏塔や堂をたてて仏事供養してはならない。ただちに討手を差し向け、頼朝の首を刎ねて仏前に供えよ」

享年64歳、重盛の死から2年後のことでした。
絶対的なNo,1を失った平家。重盛が亡くなった今、総大将は宗盛。
しかし、宗盛は大将の器ではありませんでした。

義経に連戦連敗、そして、壇ノ浦で滅亡の憂き目にあうのです。。。


今年の大河ドラマは「平清盛」です。
あんまり知りませんでしたが、楽しみになってきました。黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 19:21| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

たけしの教科書に載らない日本人の謎

毎年楽しみにしています。

内容も濃くって面白いですよね。

確かお正月にやっていたと思うのですが、こんなに寝かせてしまいました。あせあせ(飛び散る汗)

あなたはナゼ日本語を話すのか?

現在の形に整ったのは、わずか100年前のことでした。

古代の世界には、楔形文字、ヒエログリフ、漢字、様々な文字がありました。
一方日本人は、漢字、ひらがな、カタカナを巧みに操っています。

その日本語は、どのように変化してきたのでしょうか?
その裏には、先人たちの知恵と努力がありました。


君待つと
わが恋ひをれば
わが屋戸の
すだれ動かし
秋の風吹く

これは、「額田王」が詠んだ万葉集のなかの一編です。
万葉集は、8世紀ごろ成立した日本最古の歌集です。
1200年前なのに、なのに、なんとなく意味が解ります。
しかし、これは口語訳されたもので、原文は・・・。

君待跡
吾戀居者
我屋戸乃
簾令動
秋之風吹

これが、原文です。

この違いは何なのでしょうか?


日本語の成立時期については、今でも議論がまとまっていません。
古代には長く文字がなかったので、どのように話をしていたのかは全く分かっていません。
文字のない時代のことは記されていないので解らないのです。

土器に記号や絵を描いたものはありましたが、そのうち日本に漢字を使っている人たちがたくさんやってきました。その人たちが来て、日本で本格的な漢字の使用が始まったのです。

やがて日本人も、5世紀ごろから中国へ渡航するようになり、渡来の人々も盛んに来るようになって、文字を学んでいったのです。

先生は口伝えで歴史を教える→生徒はそれを復唱し記憶していました。
が、文字を書いてノートをとるようになるのです。

文字を使うということは、高度な文化圏に入っていくということで、中国との関係・朝鮮半島の関係からも、文字を使わざるを得ない時期に入ってきていました。

中国の文章を読むことで、文化をどんどん吸収し、政治体制も学び、やがて、十七条の憲法や大宝律令へと実を結んでいくのです。

しかし、当時は日本人が書く文章は中国語、読むのも中国語のまま読んでいました。

法隆寺金堂にある薬師如来坐像の裏側には・・・
用命天皇が
自らの病気平癒のため寺と薬師像を作ろうと発願したが
お亡くなりになったため
その意思を継いだ
推古天皇と聖徳太子が推古15年に完成させた

と、あります。漢字のみで書かれたこの文章。
中国語に見えますが、日本語の文法が使われています。

中国語の文章は、主語・述語・最後に目的語が来るのですが、主語・目的語・述語の順番に並んでいるのです。

中国語の漢文ではなく、日本訛りの漢文が出来て、それが、日本語になっていったのです。
しかし、中国語の発音で書く漢文は、まだまだ日本人には難しかったのです。

そこで、日本人は?
漢文にはとらわれず、漢字が持つ音を利用して、普段会話している日本語を、そのまま表記することにしたのです。

漢字の音だけ使って、全部当て字で書いてしまおう!!
つまり、「夜露死苦」みたいに・・・。

どうすれば効率よく日本語が書けるのか?
そこで編み出したのが、「訓」でした。

訓をもつことによって、日本語のその後の漢字の使用が大きく変わっていくことになります。
「万葉仮名」の発明です。
万葉仮名は、中国の漢字を借りて、フル活用した画期的な日本人の大発明なのです。

それを使って書かれたのが、万葉集・古事記・日本書紀なのです。
だから、耳で聞くと理解できるのです。

この万葉仮名からわかることがあります。
奈良時代の人々は、5母音ではなく、8母音で話していたといわれています。
今とはかなり違う発音でした。


ひらがなの誕生は・・・。

奈良時代に誕生した万葉仮名は、一文字の画数が多く、とても効率の悪いものでした。
そこで、文字を崩したり、端折ったりして書く草仮名が誕生し・・・それがもっと簡略化され「ひらがな」日本独自の文字が誕生します。

9世紀にはすでに誕生していたようです。日本語を発音通りに話し言葉に近い形で書き表すことが出来るようになりました。

しかし、貴族の中でも頭の固いおじさんたちには今一つ・・・。
このひらがなに飛びついたのは、女子。昔から女子は新しくて便利なものには敏感でした。
「ひらがな」の普及によって、女性文化としての和歌が盛り上がりました。

この時代の貴族は、一日に何度も手紙のやり取りをしていました。現代におけるメールと同じです。
ひらがなの普及と、女性文学の発達・・・
すらすらと想いのままにかけるひらがな「源氏物語」にはうってつけでした。

「カタカナ」も「ひらがな」と同時期に生まれました。
もともとカタカナは、仏門の僧侶の中で素早く文字を書くため、勉強効率化のために生まれたのです。

現代まで使われるひらがな・カタカナ・漢字は、この頃から使われていたのです。

鎌倉時代以降に、日本語に大きな変化が出ます。
その陰には、源頼朝、平清盛をはじめとする武士たちの存在がありました。
さらに、信長、秀吉、家康が大きな影響を与えます。

1180年平清盛を討つべく伊豆国で兵を挙げた頼朝、そこにはせ参じたのは、奥州平泉で暮らしていた弟・義経。京都で育ったエリートの頼朝に対して、弟は今の岩手県、東北訛りが強かった?

鎌倉で武士による政権を樹立した頼朝・・・。地方の武士たちは、それぞれのお国訛りをもっていました。木曽義仲も、京都の貴族たちから訛っていると馬鹿にされていました。

そこで、武士たちは、独自の日本語を作り始めたのです。
「かへりごと」=「返事」などと、漢字を使い始めました。漢字がシャープで力強い、男らしいと憧れていたのです。
代表的なのは「火事」「武骨」「大切」など。

ゆったりとした日本語の中に、素早く強く、コンパクトに表現できる言葉を入れ込んでいきました。
しかし、京都の公家を中心に話されていた公家言葉もありました。

この二つが融合されたのが、室町時代です。
1338年京都に室町幕府が足利尊氏によって開かれます。
田舎者の武士たちが、京都にやってきました。

公家たちは、自分たちが持っていた荘園を武士にとられて貢物が上がってこなくなりました。生活が困窮し、武士たちに、自分たちの知的財産・都言葉や立ち居振る舞いを教えることによって生計を立てていました。
これによって、都言葉が武士の間にも浸透していくことになります。
伝統芸能の狂言は、この時代の言葉です。

続くは、群雄割拠の戦国時代です。
織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の時代です。

都の言葉はさらに重要性を増します。
信長も秀吉も、終わりから身を起こした新興大名。訛りはなかなか抜けきらなかったのですが・・・。
京都出身の光秀の言葉はとても綺麗でした。光秀を重用していたのは、最上級の室町言葉を話せたからだといいます。

その一方で・・・。
いま聞いている方言が熟成されたのは、
江戸時代のことです。

1603年徳川家康が江戸幕府を開いて天下統一。
藩政をしいて、日本は関所によって人の行き来が出来なくなります。政治的にも経済的にも、各藩が独立して生活をするようになって、他の藩との交流を持たなくなってしまった結果、260年の間に方言が熟成されていったのです。

江戸でも独特の江戸言葉が出来上がります。
武士は「山の手言葉」を使っていました。武家屋敷で話されていた上品な言葉です。
戦国時代に浸透した京都の都言葉が伝統的に武士の間で使われたものです。
時代劇で聞くことが出来ます。

庶民たちの間に生まれてきたのがべらんめえ口調で、早口の「下町言葉」落語などで聞くことが出来ます。
徳川家康が田舎町に幕府を開いたことで、あらゆる地方の人間が移り住むことになった江戸。
1719年には、人口100万人を突破しました。
そこで、新しい文化、新しい言葉が出来上がったのです。
どうやって浸透していったのでしょうか?

それは「マンガ」。寺子屋で使われていた「往来物」という教科書です。
身分に合わせて農民用「百姓往来」、商人用「商売往来」など、職業や生活風習によって分かれていました。その数7000種類ありました。
その結果、70%を超える識字率となりました。
多くの江戸っ子が江戸言葉を話していました。

日本に変化や改革をもたらした明治維新。
国語が生まれるきっかけも明治維新でした。

明治維新に関わった多くは下級武士、方言のためにコミュニケーションが取れませんでした。
地方出身者の言葉が通じず意思疎通に苦労します。
近代国家としてやっていくことが出来ません。

日本語を作ろうということになりました。
教育も軍隊も作っていかなくては!!統一した言葉が必要になってきました。
明治5年学制発布、全国で小学校制度が開始されます。
地方出身者は、洗練されたインテリな山の手言葉に惹かれて、山の手言葉を日本語の標準語としました。

日本人が近代化を早く成功させた大きな原因の一つは、西洋の思想、科学技術の言葉を日本語として理解できる形で翻訳できたからです。

日本人が作った和製漢語は、漢字の元祖・中国にも逆輸入されています。
「電話」「人民」「共和」と、次々と取り入れていったのです。

日本人は今でも新しい造語をたくさん作っています。

日本語の大革命が・・・言文一致運動です。これまで、書き言葉と話し言葉が一緒ではなかった日本・・・。
英語では、話し言葉をそのまま同じ発音で書く、そのことに文明開化で気づきます。
日本語はとっても変わっていたのです。
反対に、外国人は、日本の書き言葉にびっくりしていました。

中国から文字がやってきて2000年、日本語の表記も変化してきましたが・・・ようやくその2つが一つになる時が・・・。

挑戦の始まりは、二葉亭四迷。明治20年に小説「浮雲」を発表。落語を参考にしているといわれています。現代でも違和感のない、落語調は大成功。

しかし、カジュアルすぎ?とまったをかけたのが、森鴎外。「舞姫」では・・・。優美な言葉を披露したが・・・。
そこに尾崎紅葉が「である」を小説に取り入れた革命を起こし、客観的な説明を可能にしました。

それを使って出来たのが明治37年夏目漱石の名作「吾輩は猫である」なのです。
はじめは反発にあった言文一致も、とっつきやすさから定着しました。

明治33年小学校令が改正、読書・作文・習字の三教科を統一、国語が新設されました。
ひらがなも一音一字・48文字に統一されました。変体仮名は、200文字もあったのです。

しかし、小学校で習うのはカタカナから始まっていました。公文書はカタカナと漢字このヒエラルキーは、第二次世界大戦まで続きます。
昭和21年の日本国憲法は、口語体で、漢字とひらがなを使って書かれています。
国語の教科書も、ひらがなが優先に書かれるようになり、戦後は法律文なども、ひらがなが使われるようになりました。

国語が出来ました。しかし、正しいイントネーションはよく解っていませんでした。
そこに画期的なものが登場します。大正末期、ラジオ放送の開始です。
昭和10年学校放送の開始。子供だけではなく、先生のために・・・。

努力の結果、日本語は画一化されていきます。
「前畑ガンバレ」この時には、現在と変わらない標準語の放送が日本中に流れていました。

私たちは、全国どこでも通用する日本語を手に入れたのです。揺れるハート

やっとここまで来ました。
とりあえずはここまで。るんるん

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ラベル:日本人の謎
posted by ちゃーちゃん at 14:39| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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