BS歴史館、皆様大人気の「源義経」です。

時は平安時代末期、栄華を極めた平家一門と一族の復興を掲げた源氏が戦っていた源平争乱の時代でした。
未曽有の乱世に、彗星のように現れ、数々の伝説を残した「源義経」、貴族社会から武家社会に移ろうとしていた時代、稀代の英雄が生まれました。しかし、歴史の表舞台に出てきたのはわずか6年・・・。
牛若丸、そのイメージは、美少年、天才剣士、弁慶との一騎討ち・・・。
これは、後世の人の作り話。八艘とびや、鵯越の逆落とし、その超人的な武勇伝はなぜ必要だったのでしょうか?
兄との確執、判官びいきには黒幕が・・・。
義経伝説を作ったのはいったい誰なのでしょう?なぜ人は、義経を必要としたのでしょうか?
「第1の伝説」
牛若丸の物語、スーパーヒーローの誕生です。
京都の鞍馬で幼い日々を過ごした牛若丸。天狗に猛特訓を受け、超人的な強さを身に着けます。
名場面は、五条の大橋。弁慶との一騎打ちです。
ひらひらと弁慶をかわし、牛若丸の圧勝。これを機に、弁慶とは主従の固い絆で結ばれます。
華奢な美少年が、荒くれ者を退治する。これは、江戸時代後期に、錦絵・版画・読み本によって人々に浸透しました。
一番初めに書かれたのは、室町時代、伝奇物語「義経記」です。ここに、弁慶との出会いが書かれています。出会ったのは、五條の天神、ここで完敗した弁慶は、二度目の決闘を。
清水寺の大観衆の中、またもや牛若丸が圧勝します。
どうして、大橋ではないのでしょう?
五条大橋は、秀吉の時代になってから作られたものです。当時はありませんでした。
ではなぜ橋なのでしょうか?橋こそ、伝説に相応しい。
橋は、「鬼」や「魔物」が住む「異界」への入り口なのです。
不思議な異世界への誘いです。義経の神秘性が、人々の想像力を掻き立てます。
牛若丸はどんな人だったのでしょうか?
「義経記」から美少年になったと思われます。弁慶はいたのでしょうか?居なかったのでしょうか?
弁慶は、義経をヒーロー化するためには必須アイテムです。日本人は、主従の美しさが大好きなのです。光と影、庶民の憧れから来ました。
伝説は、化政文化時代に出来ました。
橋は、「聖なるもの」と「卑しいもの」が出会う場所とされていました。また、絵を描く上でも、便利だったのです。
基本的に義経は「庶民のヒーロー」自分たちと同じ人間が世界を変えた。そう完成されたのは江戸時代でした。
「第2の伝説」
鵯越の逆落とし。これは、超人的な武勇伝です。これを世に広めたのは「平家物語」でした。
平清盛が政権を欲しいままにしていた平家一門、打倒平家を掲げる源頼朝が兵を揚げます。ここに、源平争乱の幕が上がりました。
「平家物語」が、義経を稀代の英雄にしたのが、「一の谷の合戦」です。
現在の神戸の須磨、前を瀬戸内海、後ろを六甲と、天然の要塞でした。
そこで、10万の平氏軍を、源は東から範頼が5万6000で攻めます。
義経は2万の兵で山側を迂回し、西から挟み撃ちのはずでしたが、思わぬ行動をとります。
わずか70騎で山を越え、奇襲攻撃をします。
「鹿が通れるのであれば、馬でも行ける。われを手本とせよ。」と・・・。
前代未聞の奇襲攻撃、鵯越・・・。
背後から不意を突かれ、平氏は大敗、これを皮切りに、1年で平家は滅亡するのです。
平家戦没の立役者とされました。
この鵯越、たくさん議論されています。
疑問@
馬で駆け降りることは可能か?
日常の狩りでも逆落としをしており、駆け降りることは可能だったようです。
可能だが、戦略として必要だったのでしょうか?
当時は、武士は「やあやあわれこそは・・・。」と、名乗りをあげて戦い始める時代。不意打ちは、当時の戦いのルールではないことです。だから、平家は本当に驚いたでしょう。
これは、山賊や海賊のやり方・・・。寺に預けられていた義経は、武士としての教育を受けていませんでした。
疑問A
義経の奇襲は決定打?
これについては、平家物語を覆す資料が存在します。
九条兼実の日記、「玉葉」には・・・。
一の谷の合戦によりもたらされた源氏側の報告に、
「まず、義経が一の谷を攻め落とし、源範頼の軍勢が福原を攻めた。その山側から攻め落としたのは、多田行綱の軍である。」と。
一の谷ではなく福原?
源の勝利を決定づけたのは、義経ではなかった?
合戦は、2時間もかからずに終わります。それは、多田行綱の中央突破が勝利して導いたからだったようです。
なぜ平家物語では義経が活躍しているのでしょう?
「平家物語」とは、”平家の滅び”を書いた物語です。
平家滅亡のために作られた強調された超人的武将・義経は、必要だったのでしょうか?
奇襲というのが問題で、屋島の戦いでは台風の中漕ぎ出したり、壇ノ浦では水夫を射るという禁じ手を使いました。これは、平家や正当な源氏には受け入れられません。
強いけど、勝ったとしても卑怯だ!!
でも、平家物語が作った 英雄「義経像」=平家滅亡の「象徴的人物」とされています。庶民から見れば、「痛快」な出来事だったのでしょう。
この栄光の直後非業の死を遂げるのです。
疑問B判官びいき
冷酷な兄によって、殺される可哀想な弟。これは、後世に作られたものです。
「吾妻鏡」には、2人の確執が書かれています。
この吾妻鏡、これは2人の死から100年後、鎌倉幕府によって作られた公式歴史書です。
これによると、一の谷の直後、義経は
1184年8月6日後白河法皇から検非違使に任官されます。
これが、頼朝の逆鱗に触れます。
頼朝の許可を受けずに引き受けたからです。
後白河法皇の寵愛を受ける義経。法皇に利用され、源氏の対抗馬に利用される可能性がありました。
1185年4月21日、梶原景時が、義経の悪行を頼朝に密告します。
頼朝は義経の何を恐れていたのでしょう?
封建制度を知らない義経、武家社会の秩序が解りません。
頼朝は弟ではなく家来。。。
日本が二人によって分裂?
この結果、義経は命を奪われる憂き目にあうのです。
満福寺には、兄に宛てた手紙、腰越状が残っています。
「私は兄上に代わり、朝敵平氏を倒し、亡き父上の恥辱を晴らしたいのです。」
「決して野心はございません」
「兄上にお会いできないとなれば、兄弟の間柄もむなしいものでしかありません。兄上との関係は、もう終わりなのでしょうか?」
これが、後に判官びいきと言われる所以です。
本当は、法皇との関係が原因ではないのでは?と言われています。もしそうならば、頼朝はなぜ義経を京都に置いたままにしたのでしょうか?
義経にも疑われる理由がありました。京都の公家、平家の残党と会い、平時忠の娘と結婚これが原因ではないかというのです。
「吾妻鏡」は、公式歴史書だから信じられてきました。
しかし、吾妻鏡に目立つのは、頼朝の冷酷さだけです。頼朝の家族関係の失敗が、源氏滅亡の理由と言いたいのです。
そうして、この吾妻鏡は北条氏が編纂したのです。北条の正当性を説くために、意図的にこの物語を仕立てたのでは・・・?
腰越状が作った悲劇の英雄。。。これは、北条氏にとっては計算外のことでした。
「第三の伝説」
義経北上伝説。
義経は、生き抜いて北へ、北へ・・・。の足跡が、伝説として残っています。
頼朝が京都の義経を襲撃。
山伏となって北へ、北へ・・・。
ここで有名なのが「勧進帳」です。
栄光から流浪の道へ・・・。この件は庶民に大人気。逃亡の末、平泉・奥州藤原氏の元へ・・・。
秀衡の元に身を寄せる義経。この秀衡は、後白河法皇と昵懇、頼朝は、警戒よりも危機感を持ちます。
吾妻鏡によると、藤原泰衡に義経を討てと命令、義経は非業の死を遂げます。
その首は、死後400日以上経ってから鎌倉へ。本当は死んでいないのではないか?
生き延びて、東北で再起を図ったとされる場所は、50か所にも上ります。義経北上伝説のゆかりの場所は、本当にたくさんあります。
東北に来た「貴種」は、東北にいる人たちを高めるためにヒーローとなりました。
東北は、今まで京から虐げられてきているので、自分たちを重ねてヒーロー化。
そのスケールは次第に増して・・・三頭の空飛ぶ龍馬にまたがって、蝦夷に渡ったと・・・。
義経蝦夷渡り伝説です。
さらに、海を越え、金に渡ったと。。。
当時の日本からすると、未開の地へと向かっていく義経、さらに、満州、モンゴルのジンギス・カン。
義経が生き続けなければならなかった理由は。
菅原道真のように祭ってもらえない。武士だから、義経は慰霊してもらえなかったのです。
寺をたててもらえないということは、怨霊化する可能性がある・・・成仏できない。
義経は、夢と希望の心をくすぐるロマンとして、語り継がれています。
伝説の中で、不死鳥として生き続ける永遠のヒーロー。
それは、判官びいきにつきます。
戦う相手が国家権力者だから、庶民はいつも虐げられてきました。英雄に立ち向かって欲しかったという気持ちと、切なさと、滅びの美学。
永遠の若さと、未熟さが寿がれる・・・。
庶民に好まれるすべてを持っている義経。
江戸時代に出来上がった英雄像は、日本人の心、憧れでした。

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