応仁の乱から100年続く戦乱の世にピリオドを打った男、徳川家康。
江戸幕府初代征夷大将軍として260年にわたる太平の世を築きました。
信長と同盟を結び、秀吉に従い、最後に天下をわがものにした家康には、重き荷を担いでともに遠き道を歩んだ7人のNo,2がいました。
一体誰が一番の功労者なのでしょうか?
@幼き頃の竹千代の命を救い、兵法の極意を説いた戦国最強の僧侶・太原雪斎。
桶狭間で討ち死にした今川義元。しかし、織田信秀の時代、織田軍を2度打ち破っています。その時、指揮をしていたのは軍師・太原雪斎でした。
武士ではなく、臨済宗の僧侶でした。
1546年、信秀は、竹千代を略奪し、松平に織田側につくように脅迫します。その時、今川軍を指揮して岡崎城に入った雪斎は、これまで通り、今川は松平を支援し、松平の家臣に竹千代奪還の秘策を与えます。
織田信秀の長男・信広が治める安祥城を攻略します。ただし、絶対信広を殺してはいけない、生け捕りにするのだ!!と、命じます。
そうして、「竹千代と信広を交換」します。このことで、信広は後継者争いから没落、信長に道を譲ります。
竹千代は駿府に送られ臨済寺で人質となり、今川家の保護を受けます。教育係は雪斎。
雪斎は、漢学・論語・兵法・古典・史書・和歌・能など、教養人としての基礎を教えます。
この臨済寺には、450年以上たった今も、竹千代が学んだ部屋が残されています。
なぜ竹千代に教育を施したのか・・・。聡明な竹千代、家康の才能を見抜き、様々な教育をしたのは、今川家を盛り立てていくため、中でも力を入れたのは、兵法でした。
A戦わずにして勝つ。家康の頭脳となった名補佐役・本田正信。
鷹匠として仕えた本田正信。若いころ、敵側として一揆に参加、この一揆は家康が治めましたが、四国を転々として帰ってきたのは19年後のことでした。
こに時代は、秀吉VS勝家の時代でした。
今こそ天下を!!という家臣が多い中、正信は時期尚早である。と、空白となった武田領を手に入れようとします。
「戦わずして勝つ」が信条の正信は、甲斐奉行となります。
甲斐信濃計略、そのまま所領安堵城を示し、武田の家臣900人をそのまま抱えました。この武田の治水・土木技術ごと手に入れたのです。今でいえばまさに、M&A、合併や買収を得意としました。
天下人となった秀吉。家康の元にやってきた織田信雄は、兵をあげることを依頼します。
これに対し正信は、天下を乗っ取ろうとしている秀吉、家康には織田信長に対する恩義・正義の戦いとしての大義名分がある!!と、戦うことを勧めます。
「大恩を忘却して 公の没後 ついて君位の略奪を企つのみか」
榊原康政が秀吉を賊軍とする高札を立てましたが、この工作に関わりました。
しかし秀吉は謀略の天才、信雄と単独講和してしまいます。
小牧長久手の戦いでは惨敗でしたが、ここは講和して、兵を退く、しかも、あっさり無欲に・・・。
そうなると、家康の株が上がります。損して得をとる冷静な判断でした。
B豊臣方の兵を味方につけた名参謀・藤堂高虎。
1584年、小牧長久手の戦いで、家康に惚れ込んだ藤堂高虎、「いつの日にか天下を取る仕事に関わりたい!!」と、思っていました。
また、家康は、朝鮮戦争の際の藤堂高虎の戦いっぷりに目をつけていました。
1598年秀吉死去。
高虎は、福島正則や黒田長政の帰国に成功、このことが、家康と結びつける原因になりました。
1600年7月24日 東へ向かう家康の元へ・・・。
石田が挙兵したと伝えます。
ここで有名な小山評定。
各武将が家康に従うことを誓約し、関ヶ原の合戦に臨むことを決めた軍議です。
家康が恐れていたのは、福島や黒田の秀吉古参、一人が石田につかれると全員が石田につく可能性が高かったのですが・・・。
そんな時高虎が、
「家康殿の元を離れ、三成に味方するのであれば、なぜこの地まで参りましょう。我々の中に二心を持つようなものはござらん。」と声高高にいうのです。
周囲は一気に石田三成打倒へと傾きます。
高虎は、小早川が裏切るように裏工作もして、勝利に導くのです。
C徳川軍最強部隊、赤備えの軍団を率いた・井伊直正。
この関ヶ原、勝利に導いたもう一人の男がいました。
1575年家康が鷹狩りの最中、道端にひざまずく子供。
「面魂 尋常にあらず 如何なる者の子にしてやあらず。」
その名は井伊直正15歳。
井伊家は、今川を支えていましたが、父が殺され母と流浪の身でした。
清州城でこの身の上を聞いた家康は、300万石で召し抱えることにします。
直正は、小田原・北条との交渉に成功し、本田正信と共にこの北条氏をも「戦かわずして家臣」としました。
また旧武田軍を手に入れ、「最強の赤備えの軍団」へと仕上げます。この赤備えの軍団は、全ての武具を赤色にした軍勢で、もともとは、甲州武田氏に仕えた飯富虎昌とされます。
1600年関ヶ原の戦いで、東軍の先頭は福島正則。対するは宇喜多秀家700人。膠着状態でした。
そこに、わずか30機で参加した直正、「打て〜」の声と共に、戦いは直正の鉄砲の音で始まり、撃たれ負傷しながらも最後まで戦います。
8時間後、家康の勝利で幕を閉じます。
自分を見出してくれた家康のために!!忠実な家臣でした。
その生い立ちは、石田三成と重なるところがありますが、三成は、経済的に優れていて国を治めることにたけていましたが戦は苦手。直正は、軍人として、「赤備え」を率いた徳川四天王の筆頭でした。
戦で負傷し、その傷がもとで肺血症でなくなります。
家康はその能力を見込んでいただけに号泣したといわれています。
しかし、井伊家はこのあとも幕末の井伊直弼まで、徳川家を支えるNo,2となるのです。
D剣をとらない剣豪、兵法指南役・柳生宗矩。
京で関ヶ原合戦さかのぼること5年、柳生新陰流・柳生宗矩と出会います。
天下分け目の関ヶ原での宗矩の使命は、伊賀者・甲賀者を使って、敵の情報網をかく乱工作すること。それは、忍者との深いつながりがあったからでした。
そうして家康の兵法指南役となった宗矩。江戸幕府の初代CIA長官となります。
各大名が家康に習って指南役を置くようになると、自分の弟子を指南役として各藩に派遣します。
ここに、大名を監視する柳生ネットワークが誕生したのです。
柳生は活人剣。戦わずして勝つ。
「切らず・(命を)取らず・勝たず・負けざる」剣。
いろんな手を使って抑え込む、殺さない剣なのです。
E幕府を盤石なものにした・徳川秀忠。
違う言葉でいえば・・・関ヶ原に間に合わなかった&大阪に陣でも父のほうが大活躍のNo,2です。
初代と三代の間に挟まれた秀忠。その守勢はもっとも大事だったかもしれません。
1605年秀忠に将軍を譲り、駿府に大御所として隠居する家康。秀忠は、江戸城に住むことになります。
豊臣家は滅び、「元和」に改名されました。戦の世が終わった瞬間でした。
秀忠は、京都・伏見城に諸大名を集め、武家諸法度を発布。
元和5年、福島正則が災害で崩れてしまった城の石垣を無断で改修。これを許さずに、50万石を没収し、4万5000石の川中島へ転封し・・・とりつぶし・・・。
江戸時代の改易160人のうち、1/3の49人は秀忠がやったものです。家康にはできなかった戦国時代の悪しき遺産を整理したのです。
家康は秀忠に何を期待していたのでしょうか?
それは、自分の引いた線の上を歩いて、自分にはできなかったことをしてほしい。
秀忠は、豊臣勢力の破壊という、私情にとらわれていては絶対に出来ない、お江の姉・淀殿また、千の夫である秀頼との戦いを日本国のために成し遂げたのです。
F死後も天下を支配する家康のブレーン・南光坊天海。
駿府で院政を行っていた家康。出会ったころの南光法天海、すでに72歳。
長寿の秘訣は「粗食と正直、日湯、お経、時折のご下風(屁)にございますな。」と、川越の納豆を献上。
「天海僧正は人中の仏なり」と惚れ込み、宗教的な顧問としました。
信長の比叡山焼き討ちを快く思っていなかった家康は、「比叡山を再興すべきだ」と、天海を抜擢。
1616年1月家康は倒れます。死期を悟った家康は、
「わが遺骸は久能山に納め、一周忌が済んだら日光山に小さな堂を建立し、わが霊を招き寄せよ」=関東の守りとしたい・・・。
この時、天海は日光山の住職でした。
日々、日光の重要性をとく天海。
江戸に対して、また、関八州に対して、守護力を持つ地域となる!!
天海は天台宗でしたが、この頃の僧侶は、風水や医学にも精通していました。おまけに天海は仏教でも大僧正。
この時代は神仏混交時代。日本の固有の神の信仰と、外来の仏教の信仰とを融合・調和するために唱えられた教説でした。
その中でも、展開は山王一実神道、これが、徳川に浸透し、世に広まります。
神の名は、大明神では縁起が悪い(豊国大明神)と、東照証大権現に決定しました。
家康は、神になりたい!!神となって国を守っていたいと、思っていました。
で、真のNo,2は、やはり秀忠。
家康の敷いた道を、乗り越えようなどとは思わずに、家康の思い通りに徳川を盤石なものにしました。
やっぱり。。。


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