2012年02月16日

たけしの教科書に載らない日本人の謎

毎年楽しみにしています。

内容も濃くって面白いですよね。

確かお正月にやっていたと思うのですが、こんなに寝かせてしまいました。あせあせ(飛び散る汗)

あなたはナゼ日本語を話すのか?

現在の形に整ったのは、わずか100年前のことでした。

古代の世界には、楔形文字、ヒエログリフ、漢字、様々な文字がありました。
一方日本人は、漢字、ひらがな、カタカナを巧みに操っています。

その日本語は、どのように変化してきたのでしょうか?
その裏には、先人たちの知恵と努力がありました。


君待つと
わが恋ひをれば
わが屋戸の
すだれ動かし
秋の風吹く

これは、「額田王」が詠んだ万葉集のなかの一編です。
万葉集は、8世紀ごろ成立した日本最古の歌集です。
1200年前なのに、なのに、なんとなく意味が解ります。
しかし、これは口語訳されたもので、原文は・・・。

君待跡
吾戀居者
我屋戸乃
簾令動
秋之風吹

これが、原文です。

この違いは何なのでしょうか?


日本語の成立時期については、今でも議論がまとまっていません。
古代には長く文字がなかったので、どのように話をしていたのかは全く分かっていません。
文字のない時代のことは記されていないので解らないのです。

土器に記号や絵を描いたものはありましたが、そのうち日本に漢字を使っている人たちがたくさんやってきました。その人たちが来て、日本で本格的な漢字の使用が始まったのです。

やがて日本人も、5世紀ごろから中国へ渡航するようになり、渡来の人々も盛んに来るようになって、文字を学んでいったのです。

先生は口伝えで歴史を教える→生徒はそれを復唱し記憶していました。
が、文字を書いてノートをとるようになるのです。

文字を使うということは、高度な文化圏に入っていくということで、中国との関係・朝鮮半島の関係からも、文字を使わざるを得ない時期に入ってきていました。

中国の文章を読むことで、文化をどんどん吸収し、政治体制も学び、やがて、十七条の憲法や大宝律令へと実を結んでいくのです。

しかし、当時は日本人が書く文章は中国語、読むのも中国語のまま読んでいました。

法隆寺金堂にある薬師如来坐像の裏側には・・・
用命天皇が
自らの病気平癒のため寺と薬師像を作ろうと発願したが
お亡くなりになったため
その意思を継いだ
推古天皇と聖徳太子が推古15年に完成させた

と、あります。漢字のみで書かれたこの文章。
中国語に見えますが、日本語の文法が使われています。

中国語の文章は、主語・述語・最後に目的語が来るのですが、主語・目的語・述語の順番に並んでいるのです。

中国語の漢文ではなく、日本訛りの漢文が出来て、それが、日本語になっていったのです。
しかし、中国語の発音で書く漢文は、まだまだ日本人には難しかったのです。

そこで、日本人は?
漢文にはとらわれず、漢字が持つ音を利用して、普段会話している日本語を、そのまま表記することにしたのです。

漢字の音だけ使って、全部当て字で書いてしまおう!!
つまり、「夜露死苦」みたいに・・・。

どうすれば効率よく日本語が書けるのか?
そこで編み出したのが、「訓」でした。

訓をもつことによって、日本語のその後の漢字の使用が大きく変わっていくことになります。
「万葉仮名」の発明です。
万葉仮名は、中国の漢字を借りて、フル活用した画期的な日本人の大発明なのです。

それを使って書かれたのが、万葉集・古事記・日本書紀なのです。
だから、耳で聞くと理解できるのです。

この万葉仮名からわかることがあります。
奈良時代の人々は、5母音ではなく、8母音で話していたといわれています。
今とはかなり違う発音でした。


ひらがなの誕生は・・・。

奈良時代に誕生した万葉仮名は、一文字の画数が多く、とても効率の悪いものでした。
そこで、文字を崩したり、端折ったりして書く草仮名が誕生し・・・それがもっと簡略化され「ひらがな」日本独自の文字が誕生します。

9世紀にはすでに誕生していたようです。日本語を発音通りに話し言葉に近い形で書き表すことが出来るようになりました。

しかし、貴族の中でも頭の固いおじさんたちには今一つ・・・。
このひらがなに飛びついたのは、女子。昔から女子は新しくて便利なものには敏感でした。
「ひらがな」の普及によって、女性文化としての和歌が盛り上がりました。

この時代の貴族は、一日に何度も手紙のやり取りをしていました。現代におけるメールと同じです。
ひらがなの普及と、女性文学の発達・・・
すらすらと想いのままにかけるひらがな「源氏物語」にはうってつけでした。

「カタカナ」も「ひらがな」と同時期に生まれました。
もともとカタカナは、仏門の僧侶の中で素早く文字を書くため、勉強効率化のために生まれたのです。

現代まで使われるひらがな・カタカナ・漢字は、この頃から使われていたのです。

鎌倉時代以降に、日本語に大きな変化が出ます。
その陰には、源頼朝、平清盛をはじめとする武士たちの存在がありました。
さらに、信長、秀吉、家康が大きな影響を与えます。

1180年平清盛を討つべく伊豆国で兵を挙げた頼朝、そこにはせ参じたのは、奥州平泉で暮らしていた弟・義経。京都で育ったエリートの頼朝に対して、弟は今の岩手県、東北訛りが強かった?

鎌倉で武士による政権を樹立した頼朝・・・。地方の武士たちは、それぞれのお国訛りをもっていました。木曽義仲も、京都の貴族たちから訛っていると馬鹿にされていました。

そこで、武士たちは、独自の日本語を作り始めたのです。
「かへりごと」=「返事」などと、漢字を使い始めました。漢字がシャープで力強い、男らしいと憧れていたのです。
代表的なのは「火事」「武骨」「大切」など。

ゆったりとした日本語の中に、素早く強く、コンパクトに表現できる言葉を入れ込んでいきました。
しかし、京都の公家を中心に話されていた公家言葉もありました。

この二つが融合されたのが、室町時代です。
1338年京都に室町幕府が足利尊氏によって開かれます。
田舎者の武士たちが、京都にやってきました。

公家たちは、自分たちが持っていた荘園を武士にとられて貢物が上がってこなくなりました。生活が困窮し、武士たちに、自分たちの知的財産・都言葉や立ち居振る舞いを教えることによって生計を立てていました。
これによって、都言葉が武士の間にも浸透していくことになります。
伝統芸能の狂言は、この時代の言葉です。

続くは、群雄割拠の戦国時代です。
織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の時代です。

都の言葉はさらに重要性を増します。
信長も秀吉も、終わりから身を起こした新興大名。訛りはなかなか抜けきらなかったのですが・・・。
京都出身の光秀の言葉はとても綺麗でした。光秀を重用していたのは、最上級の室町言葉を話せたからだといいます。

その一方で・・・。
いま聞いている方言が熟成されたのは、
江戸時代のことです。

1603年徳川家康が江戸幕府を開いて天下統一。
藩政をしいて、日本は関所によって人の行き来が出来なくなります。政治的にも経済的にも、各藩が独立して生活をするようになって、他の藩との交流を持たなくなってしまった結果、260年の間に方言が熟成されていったのです。

江戸でも独特の江戸言葉が出来上がります。
武士は「山の手言葉」を使っていました。武家屋敷で話されていた上品な言葉です。
戦国時代に浸透した京都の都言葉が伝統的に武士の間で使われたものです。
時代劇で聞くことが出来ます。

庶民たちの間に生まれてきたのがべらんめえ口調で、早口の「下町言葉」落語などで聞くことが出来ます。
徳川家康が田舎町に幕府を開いたことで、あらゆる地方の人間が移り住むことになった江戸。
1719年には、人口100万人を突破しました。
そこで、新しい文化、新しい言葉が出来上がったのです。
どうやって浸透していったのでしょうか?

それは「マンガ」。寺子屋で使われていた「往来物」という教科書です。
身分に合わせて農民用「百姓往来」、商人用「商売往来」など、職業や生活風習によって分かれていました。その数7000種類ありました。
その結果、70%を超える識字率となりました。
多くの江戸っ子が江戸言葉を話していました。

日本に変化や改革をもたらした明治維新。
国語が生まれるきっかけも明治維新でした。

明治維新に関わった多くは下級武士、方言のためにコミュニケーションが取れませんでした。
地方出身者の言葉が通じず意思疎通に苦労します。
近代国家としてやっていくことが出来ません。

日本語を作ろうということになりました。
教育も軍隊も作っていかなくては!!統一した言葉が必要になってきました。
明治5年学制発布、全国で小学校制度が開始されます。
地方出身者は、洗練されたインテリな山の手言葉に惹かれて、山の手言葉を日本語の標準語としました。

日本人が近代化を早く成功させた大きな原因の一つは、西洋の思想、科学技術の言葉を日本語として理解できる形で翻訳できたからです。

日本人が作った和製漢語は、漢字の元祖・中国にも逆輸入されています。
「電話」「人民」「共和」と、次々と取り入れていったのです。

日本人は今でも新しい造語をたくさん作っています。

日本語の大革命が・・・言文一致運動です。これまで、書き言葉と話し言葉が一緒ではなかった日本・・・。
英語では、話し言葉をそのまま同じ発音で書く、そのことに文明開化で気づきます。
日本語はとっても変わっていたのです。
反対に、外国人は、日本の書き言葉にびっくりしていました。

中国から文字がやってきて2000年、日本語の表記も変化してきましたが・・・ようやくその2つが一つになる時が・・・。

挑戦の始まりは、二葉亭四迷。明治20年に小説「浮雲」を発表。落語を参考にしているといわれています。現代でも違和感のない、落語調は大成功。

しかし、カジュアルすぎ?とまったをかけたのが、森鴎外。「舞姫」では・・・。優美な言葉を披露したが・・・。
そこに尾崎紅葉が「である」を小説に取り入れた革命を起こし、客観的な説明を可能にしました。

それを使って出来たのが明治37年夏目漱石の名作「吾輩は猫である」なのです。
はじめは反発にあった言文一致も、とっつきやすさから定着しました。

明治33年小学校令が改正、読書・作文・習字の三教科を統一、国語が新設されました。
ひらがなも一音一字・48文字に統一されました。変体仮名は、200文字もあったのです。

しかし、小学校で習うのはカタカナから始まっていました。公文書はカタカナと漢字このヒエラルキーは、第二次世界大戦まで続きます。
昭和21年の日本国憲法は、口語体で、漢字とひらがなを使って書かれています。
国語の教科書も、ひらがなが優先に書かれるようになり、戦後は法律文なども、ひらがなが使われるようになりました。

国語が出来ました。しかし、正しいイントネーションはよく解っていませんでした。
そこに画期的なものが登場します。大正末期、ラジオ放送の開始です。
昭和10年学校放送の開始。子供だけではなく、先生のために・・・。

努力の結果、日本語は画一化されていきます。
「前畑ガンバレ」この時には、現在と変わらない標準語の放送が日本中に流れていました。

私たちは、全国どこでも通用する日本語を手に入れたのです。揺れるハート

やっとここまで来ました。
とりあえずはここまで。るんるん

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ラベル:日本人の謎
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2012年02月15日

完全再現!!川中島の戦い。

BS歴史館。「完全再現!!川中島の戦い」です。

主役はもちろんこの二人!!

越後の竜。上杉謙信。戦では、戦国随一、43勝2敗25引き分け、負け知らずの天才。戦の神の毘沙門天の化身と言われています。

対するは、甲斐の虎、武田信玄。風林火山を旗印に、次々と領土を拡大、織田信長が最も恐れた猛将です。

最強と言われたこの二人が会いまみえたのが、川中島の戦いです。
それは、都合5回、12年に及ぶ対決でした。

なかでも人気なのが第4回川中島の戦いです。
その魅力は、両雄、知力を尽くした戦術にありました。

信玄が繰り出すのは、天才軍師・山本勘助の必勝戦術「キツツキ戦法」対する謙信は、見るものが目を疑った「車懸かりの陣」

理詰めの信玄 VS ひらめきの謙信

その勝負の行方は?
両雄が相まみえる一騎打ちの真実とは?

戦国最大のライバルと、川中島の魅力を調べます。

天下分け目の戦いでもないのに、人々を魅了する川中島の戦い。それは、信長が一目を置いた二人の戦いでした。

今から460年前、信長がうつけと呼ばれていたころ・・・
信濃の国でライバル対決が始まりました。

先に攻め込んだのは信玄。優れた戦略で領地を拡大していきます。
この領土拡大は、甲斐の国にとって、死活問題でした。というのも、武田は内部の力が強く、常に新しい領地を与え続けないと家臣は武田家を離れてしまうのです。

当時、東は北条、西は今川、信濃に北上するしかありませんでした。

川中島まで領土を拡大したとき、それを迎え討ったのは越後からの援軍、謙信でした。
戦の神・毘沙門天の生まれ変わりというカリスマを引っ提げて登場。

1553年第一次川中島の戦い(謙信24歳・信玄33歳)
謙信は、噂通りの強さで、小競り合いの末、信玄は甲斐に撤退します。これは、二人の小手調べ・・・まずは謙信の1勝でした。

しかし、謙信は、占領した土地を地元の武将に返し、越後に引き上げます。
謙信が持っていたのは、あくまでも人を助ける「義」の心でした。

家臣のために領地を広げようとする信玄、人を助けようとする謙信の戦い、正反対の個性のぶつかり合いでした。

1555年第二次川中島の戦い(謙信26歳・信玄35歳)
信玄が、再び信濃の制圧に動きます。

今回は、巧みな外交戦略を行います。目を付けたのは善光寺。善光寺を取り込むことで、地元の武将を味方に引き込みます。戦わずして勢力拡大。

それに対し、北信濃を奪還すべく、謙信が出陣。犀川を挟んで睨み合います。
しかし、一向に戦いません。

戦わないのにも、切実な理由があります。
戦国大名は、戦いばっかりしているイメージがありますが、実際はなかなか戦いません。それは、信長が兵農分離をするまでは、武士も百姓だったということ、と、熟練な兵士の補充は簡単ではありません。

戦いを繰り返す→兵士がいなくなる=弱くなる=(百姓だから)生産性が落ちるという悪循環に陥るので、よっぽどのことがないと戦わないのです。

200日間睨み合いが続き・・・疲弊しきって休戦協定を結び、双方撤退します。
引き分けでした。

1557年第三次川中島の戦い(謙信28歳・信玄37歳)
先手は信玄。1月、謙信が雪のため出陣できないことを狙って、北信濃を占領。謙信は、休戦協定を破ったと激怒。
「武略をめぐらし 信玄を引き出し 一戦を遂げる覚悟」をします。

4月雪解けと同時に、川中島に出陣。
策士信玄は、はぐらかすように戦いを避けること、5か月。

謙信は信玄に手を出せないまま越後へ撤退。
信玄は領地拡大に成功します。
今回は、信玄の優勢、作戦勝ちでした。

両雄互角のまま・・・運命の第四次川中島の戦いへ・・・。

この5回、12年にも及ぶ川中島の戦い。普通は和平交渉をして、時間と労力を温存します。しかし、信玄は、どうしても海が欲しかったのです。当時日本海は、日本の表。中国への道が欲しかったのです。

甲陽軍鑑(武田家の戦略、戦術を記した軍学書。江戸時代に出版され、庶民にも人気となる。)は、資料としては信ぴょう性には乏しいですが、この戦いを魅力的に書いています。

始まりは以外にも・・・謙信でした。
四回目にして初めて先に仕掛けます。

第四次川中島の戦い(謙信32歳・信玄41歳)
舞台となったのは千曲川と犀川の中州一帯でした。
ここには武田の前線基地、海津城がありました。そこには、武田軍3000人が常時駐屯。

1万3000の上杉軍が進んできます。信玄はいない!!絶好の城攻めのチャンスにも、海津城を素通りし、武田のど真ん中、妻女山に陣取ります。

信玄8日遅れで到着。妻女山の麓に2万の軍、定石通りに補給路を断ちます。

しかし、謙信は動きません。不気味です。。。
有利であるはずの武田軍が苛立ち始めました。
「このまま越後を攻めに行きましょう」と言う家臣も出始めました。

信玄は、
「謙信は川の向こうに兵を置いているに違いない。そうなると、甲府に攻めに行かれるかも!!」

天才のすることはさっぱり解りません。。。

意図の解らない信玄は、しびれを切らし、海津城に兵を引きました。

戦は仕切り直しです。

第四次川中島の戦い、謙信はなぜ海津城を攻めなかったのでしょうか?
城を攻めるには、守り手の10倍の戦力が必要です。
しかし、なぜ妻女山に布陣したのでしょう?補給路を断たれると、兵糧も入ってこない・・・。兵法的にもおかしいのです。

信玄をおびき出すための?
「上策には下策をもってする」ここが、常識人が考え付かないカリスマ性があるところなのです。

武田軍本隊としては、退路と補給路を断った今、「勝てる!!」と、思ったはずです。
しかし、謙信は動かない。。。
形成的には有利な武田軍が、精神的に参ってくるのです。

どうにも説明のつかない謙信の行動・・・謙信は、本当は武田に占領された信濃の武士たちの決起を待っていたのかもしれません。

本隊が海津城にあるまま、10日間膠着状態が続きます。
妻女山から出てこない謙信・・・。

ここで、伝説の天才軍師山本勘助の登場です。微動だにしない謙信を山から追い出す「キツツキ戦法」です。

武田軍の別動隊で1万2000で妻女山の背後からつつきました。そうすれば越後に向かうに違いない。下山してきたところを一網打尽に!!

4月9日深夜、1万2000が海津城を出発山へ・・・。

しかし、山で目にしたものは、もぬけの殻の上杉陣営でした。
1万3000の兵はどこへ・・・。

勘助の「キツツキ戦法」は見破られていた?

この時信玄側が大きなミスをしていたといいます。陣営でいつもより多くの煙が立ち上る・・・それに気づいた謙信は・・・「あれは兵に持たせる飯を準備しているに違いない!!」と、奇襲作戦を察知したというのです。

25日間の沈黙していた謙信でしたが・・・。
武田軍が近づく前に上杉軍は山をおりはじめました。

1万3000の兵は、息をひそめて川の中へ・・・
1561年9月10日、濃い霧が立ち上っていました。
山から逃げてくる上杉軍を待ち構えていた武田軍、霧が明けると信玄はその眼を疑いました。
目の前に、整然と上杉軍が並んでいたのです。

武田軍8000。「キツツキ戦法」破れたり!!

このキツツキ戦法は、孫子の兵法に「半進半退の術」として載っています。字の通り、兵を二つに分けて誘い出す作戦です。

しかし、本当に謙信はこんなにカッコよかったの?

実際には、謙信もどうしていいのか解らなくなっていた節があります。おまけに、戦っていたのは農民たち。。。そろそろ田畑の出来が気になる季節です。勝手に山を下りて、どんどんと帰って行ったという話もあります。

「炊飯の煙」の謎・その信ぴょう性は?
BC341年中国の戦国時代・馬陵の戦いで、龐涓VS孫臏に同じような話があります。なので、こちらは江戸時代の人が盛り込んだ・・・というほうが正しいかもしれません。


霧が晴れた時に目前に出現した上杉軍、武田は「鶴翼の陣」を敷いていました。もちろん、逃げてくるところを一網打尽にするために。。。

謙信の軍は、謎めいた動きをします。
「一隊が、我が方に押し寄せてきては通り過ぎ、また次の隊が寄せては通り過ぎながら、越後の方へ動いております!!」と、報告が入ります。

これに対し、危険を察知する信玄。
「上杉軍は、撤退するのではない!その動きは「車懸かり」と言って、回転しながら本陣が自らぶつかってくる、決戦のための戦術じゃ!!」

謙信は、今日、勝負をつけるに違いない!!

この「車懸かり」、実は、甲陽軍鑑にのみ記されています。もしかすると、非現実的な架空の戦法?その可能性はあるのでしょうか?

「車懸かり」は、周囲が見えない中での移動の陣形です。霧の中や夜に、全部隊に行きわたる命令は単純でなければなりません。その形は、本陣を守って動く「円陣しかない!!」

敵に出会った時こそ生かせる、天才・謙信ならではの陣形です。
しかし、これは守りの陣。攻めに転じて使えるのでしょうか?

そうして、謙信は、戦国時代の中で自ら斬り込んでいく数少ない武将でもありました。あとは、織田信長とか・・・。

この予想外の上杉軍、敵が信玄でなければ逃げていたでしょう。

信玄VS謙信のクライマックス・・・

上杉軍1万3000に対して、武田軍8000.次々と襲ってくる上杉軍に、武田軍の陣形が崩れます。
そんな時、ようやく別動隊が川中島へ・・・。

川を渡らせまいと立ちはだかる上杉軍、別動隊は本隊と合流できません。

武田方は、負傷者続出、この戦いで、軍師・山本勘助、信玄の弟・武田信繁も戦死します。

敵味方入り乱れ
  突きつ突かれつ
    斬りつ斬られつ

ある者が
  首をとって
    立ち上がれば

その首は
  我が主なりと名乗って
    槍で突き伏せる者あり

またそれを見て
  その者を
    切り伏せる者あり

両軍入り乱れた血みどろの戦い。。。
その時、異形の武者ひとり

萌黄色の胴肩衣を着た武者が
白手拭で頭を包み
月毛の馬に乗って
三尺ほどの刀を抜身に持ち
信玄公のもとへ
真一文字に乗り寄せて
三太刀斬りかかったが
その切っ先ははずれ
信玄公は軍配団扇で
これを受け止めた
後で聞けば この武者こそ
謙信であったという

クライマックスの一騎打ち、名場面として物語としても、絵としてもたくさん描かれています。これはありうるのでしょうか?

友人が謙信に書いた手紙には・・・

謙信殿は、この度の戦いで
自ら太刀打ちに及ばれたとのこと
天下の誉です

とあります。

大将として、自ら刀をとったのは事実でしょう。
伝説の一騎討ち、あってもおかしくはないのですが、上杉側の資料には、家臣・荒川伊豆守が斬りかかったという資料もあります。もし、謙信が斬りかかっていたならば、そう資料に書いてあるはずですが・・・。

甲陽軍鑑に書かれています。相手が謙信であった方が、信玄の格も上がる。のかも知れません。

本陣にまで攻められて、敗北寸前の武田軍。
午前10時に別動隊が到着したのを機に形勢逆転。
上杉軍になだれ込みます。退却を余儀なくされる謙信、4時間の戦いでした。

両軍死傷者  27,000人
戦闘参加者  33,000人

8割が負傷するという日本史上例を見ない戦いです。

第5次川中島の戦いは、この凄惨な戦いの後だけに、睨み合いに終始しました。

川中島がなかったら、どちらかが天下を取っていたかもしれません。しかし、二人は手を組むことが出来ませんでした。

ひらめく天才型の謙信、バランス感覚の良いリーダーの信玄、二人は日本人の理想のタイプなのです。

これから後は、鉄砲が出てきます。

謙信が信玄に、「敵に塩を送る」
いまわの際の信玄をして、「これより先は謙信を父と思って頼れ」と息子に言うところ・・・

正々堂々の戦い、美しさ、負けじ魂・・・。日本人の好きな戦いは、これで最後だったのかもしれません。

書いてて本当に楽しかった。揺れるハートすごい二人です。揺れるハート
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加藤清正〜虎と呼ばれた忠義の男〜

THEナンバー2、加藤清正です。揺れるハート

貧しい農家の倅から天下人へ・・・。破竹の勢いで戦乱を制した秀吉。その日本史上No,1の出世男の小姓となり、大名にまで登りつけた男です。

彼は、武勇で名をはせ、日本三大名城の熊本城を築城。

さらに地方行政の能力にも長け、今日でも清正公(せいしょうこう)さんと崇められています。
黒南風(くろはえ)の海 加藤清正「文禄・慶長の役」異聞 [単行本] / 伊東 潤 (著); PHP研究所 (刊)
黒南風(くろはえ)の海 加藤清正「文禄・慶長の役」異聞 [単行本] / 伊東 潤 (著); P...

秀吉の遠縁の清正が、小姓となったのは11歳の頃。
21歳で迎えた「賤ヶ岳の戦い」では、「賤ヶ岳の七本槍」として名を馳せます。

26歳で肥後北半国を治める大名へとなります。

幼名は虎之助・・・。その名の通り、朝鮮出兵では虎退治伝説まで。。。

宿命のライバルは、堺の商人の子として育てられたキリシタン大名・小西行長。

武功派の清正 VS 頭脳派の行長。 どちらが真実のNO,2なのでしょうか?

江戸時代の学者、荻生徂徠に、
「近世にて人の手本となるべきは、加藤清正を超えたるはなし」
と言わしめた男です。

子供のいなかった秀吉にとっては、清正は大切に育てたNo,2の一人でした。

1537年秀吉誕生。その25年後
1562年清正誕生。清正の母「いと」は、おねのいとこでした。
子供の頃の清正は夜叉丸と言われたほどの暴れん坊でした。

そのうわさを聞いて、隣の村からケンカをしにやってきた力士と才八。コテンパンにやられてしまいます。
この二人、後の加藤家の三傑のうちの二人、森本義太夫と飯田角兵衛でした。

1573年浅井家滅亡。領地を手に入れた秀吉は、長浜城を築城します。
もともと農民上がりの秀吉。譜代の臣などいるはずもなく、人材集めに奔走します。

秀吉の人材登用法
@敵の家来だったもの・・・藤堂高虎

A地元近江や利害関係者の息子・・・石田三成

B親戚や縁者の若者・・・加藤清正・福島正則・浅野行長・・・

清正は、11歳で秀吉の小姓となります。日本一の男、秀吉を誰よりも近くで見て育ちました。

1583年賤ケ岳の戦い
21歳で、敵の鉄砲大将・戸波隼人を討ち取り賤ヶ岳の七本槍となります。

これが、勝利伝説の始まりでした。

秀吉は、戦術には長けていましたが、実践では強くはなかったので、自分の武断派の部分を補うために清正を使いました。

武断派・・・清正・・・尾張閥
文治派・・・三成・・・近江閥

そうして、この関係は、関ヶ原まで続くこととなります。

戦国時代も後半、島津久光が九州で勢力を拡大。大友宗麟は、秀吉に助けを求めます。
1587年九州の役、20万の大軍で押し寄せて、島津を南部に押し込めることに成功します。

その戦後処理で、佐々成政に肥後を与えますが、肥後の統治に失敗。その責任をとって、成政は切腹します。

1588年その後釜に、北半国の大名になったのが清正26歳でした。
これを見事に統治した清正。行政の手腕も優れていました。
秀吉ゆずりの細かい行政、河川の氾濫を鎮める土木技術も持っています。その人気は高まります。
本人も、秀吉の期待に応えたい!!

同じく1588年、南半国の大名となったのが小西行長でした。
堺の商人の子でキリシタン、26歳で家臣となり、船奉行をしていました。水軍や水運で活躍します。
秀吉の交渉人―キリシタン大名小西行長 (メディアワークス文庫 な 1-5) [文庫] / 永田 ガラ (著); アスキー・メディアワークス (刊)
秀吉の交渉人―キリシタン大名小西行長 (メディアワークス文庫 な 1-5) [文庫] / 永田...
この二人の配置、朝鮮・中国という、西を見据えてのものでした。
お互いのライバル心は燃え上がります。
しかし、秀吉は、キリスト教について・・・
ヨーロッパ列強は、キリスト教の布教を最初に、植民地化してきたことを知っていて、キリスト教に対しては必要以上に警戒心を持っていました。

キリシタンの行長。天草はキリスト教が盛んでしたが・・・

1587年7月24日 バテレン追放令発令。

天草一揆がおこります。武力で抑え込みたい清正、話し合いで解決したい行長。
しかし、秀吉は、あくまでも二人で解決するように・・・。
これは、清正が力でねじ伏せるという結果で終わります。
水と油の二人。。。そのピークは朝鮮征伐で!!

1592年文禄の役が始まります。
一番隊隊長 小西行長 釜山に上陸し、漢城を目指して北上します。
二番隊隊長 加藤清正 5日遅れで釜山に上陸。強行突破で忠州で小西隊に追いつきます。

そして、自分を待たずに進撃した行長に対して怒ります。

しかし、行長には急ぐ理由がありました。それは、和平交渉をして、早く勝利したいということでした。

それに引き替え清正は、あくまでも軍事強硬派。秀吉の考え通り、戦って勝ちたかったのです。

つまり、どちらも一番乗りしたかったのです。

そんな中、朝鮮王は平壌に逃亡、これは行長が追い、清正は方向違いの「オランカイ」征伐に向かいます。
なぜなら、清正を主力から外すことは大都督石田三成も了解の事だったのです。

しかし、思いもよらぬことが・・・。清正が、朝鮮の二皇子を捕縛するのです。別ルートで交渉を始めてしまいます。

朝鮮出兵は、「朝鮮の南半分を手に入れて、中国とは戦わない」と、清正のいないところで方向転換していました。その交渉役が小西だったのでたまりません。。。。TOPシークレットのことで、現場の大名たちは知りませんでした。

この平和交渉工作の主要人物は小西行長と石田三成。もう、国内に土地がなかったので、暴発するエネルギーを止められず朝鮮征伐に向かったものの、突っ込んだけれどもどこかで手を引かなければ・・・
政権に傷のつく前に帰ってこなければ、政治が空中分解してしまう!!

行長には最前線に行く必要があったのです。

1596年4月清正に、日本への召還命令が来ました。
1596年9月5日、慶長伏見地震がありました。謹慎していた清正が、真っ先に秀吉の下に駆けつけます。
申し開きをして誤解を解くことのできた清正は、再び前線へ・・・。


しかし、行長との確執は悪化の一途を辿っていました。
1598年秀吉没。人々は、朝鮮征伐の責任を三成になすりつけます。
土地をとることが出来なければ部下に恩賞を与えることもできません。やりくりのできない三成・・・。

この体制のまま関ヶ原へ・・・。

関ヶ原直前に使い出した加藤清正の書状の刻印には、「履道応乾」とあります。自分の信じる道を進んで天命に応える」というものです。

1600年関ヶ原の戦い。で、石田三成・小西行長は打ち首に・・・。
清正は肥後52万石の大名になります。

1607年熊本城完成。
武者返しという石垣、実戦配備の城でした。
この熊本城は、豊臣の最後の砦と言われています。
というのも、本丸御殿・照君の間(将軍の間の隠語か?)には、万が一の時に秀頼を迎えるための部屋が用意されていたのです。

1611年3月26日 京都二条城で・・・
秀頼は、清正に支えられながら家康と会見します。
しかし、この時、秀頼は思っていたバカボンではなく、背の高い聡明な若者であることが家康の癪に障ります。
きっと、名君になる!!

当時はまだ、「天下はまわりもの」という時代。一番強いものが一番強い!!
徳川政権になっても、盤石なものにしなければ!!

秀頼はつぶしておかなければ!!!

この会見を引き金に、大坂の陣へと突き進んでいくのです。

1611年6月24日、加藤清正は、肥後に帰る船の中で死去してしまいます。
自分の使命は、秀頼の生を全うすることだったのに。。。

時は明治時代・・・。
西南戦争でも落ちなかった熊本城。

軍国主義の朝鮮出兵。そんな時、加藤清正に白羽の矢が立ち、再び伝説化するのです。


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posted by ちゃーちゃん at 13:48| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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