内容も濃くって面白いですよね。
確かお正月にやっていたと思うのですが、こんなに寝かせてしまいました。

あなたはナゼ日本語を話すのか?
現在の形に整ったのは、わずか100年前のことでした。
古代の世界には、楔形文字、ヒエログリフ、漢字、様々な文字がありました。
一方日本人は、漢字、ひらがな、カタカナを巧みに操っています。
その日本語は、どのように変化してきたのでしょうか?
その裏には、先人たちの知恵と努力がありました。
君待つと
わが恋ひをれば
わが屋戸の
すだれ動かし
秋の風吹く
これは、「額田王」が詠んだ万葉集のなかの一編です。
万葉集は、8世紀ごろ成立した日本最古の歌集です。
1200年前なのに、なのに、なんとなく意味が解ります。
しかし、これは口語訳されたもので、原文は・・・。
君待跡
吾戀居者
我屋戸乃
簾令動
秋之風吹
これが、原文です。
この違いは何なのでしょうか?
日本語の成立時期については、今でも議論がまとまっていません。
古代には長く文字がなかったので、どのように話をしていたのかは全く分かっていません。
文字のない時代のことは記されていないので解らないのです。
土器に記号や絵を描いたものはありましたが、そのうち日本に漢字を使っている人たちがたくさんやってきました。その人たちが来て、日本で本格的な漢字の使用が始まったのです。
やがて日本人も、5世紀ごろから中国へ渡航するようになり、渡来の人々も盛んに来るようになって、文字を学んでいったのです。
先生は口伝えで歴史を教える→生徒はそれを復唱し記憶していました。
が、文字を書いてノートをとるようになるのです。
文字を使うということは、高度な文化圏に入っていくということで、中国との関係・朝鮮半島の関係からも、文字を使わざるを得ない時期に入ってきていました。
中国の文章を読むことで、文化をどんどん吸収し、政治体制も学び、やがて、十七条の憲法や大宝律令へと実を結んでいくのです。
しかし、当時は日本人が書く文章は中国語、読むのも中国語のまま読んでいました。
法隆寺金堂にある薬師如来坐像の裏側には・・・
用命天皇が
自らの病気平癒のため寺と薬師像を作ろうと発願したが
お亡くなりになったため
その意思を継いだ
推古天皇と聖徳太子が推古15年に完成させた
と、あります。漢字のみで書かれたこの文章。
中国語に見えますが、日本語の文法が使われています。
中国語の文章は、主語・述語・最後に目的語が来るのですが、主語・目的語・述語の順番に並んでいるのです。
中国語の漢文ではなく、日本訛りの漢文が出来て、それが、日本語になっていったのです。
しかし、中国語の発音で書く漢文は、まだまだ日本人には難しかったのです。
そこで、日本人は?
漢文にはとらわれず、漢字が持つ音を利用して、普段会話している日本語を、そのまま表記することにしたのです。
漢字の音だけ使って、全部当て字で書いてしまおう!!
つまり、「夜露死苦」みたいに・・・。
どうすれば効率よく日本語が書けるのか?
そこで編み出したのが、「訓」でした。
訓をもつことによって、日本語のその後の漢字の使用が大きく変わっていくことになります。
「万葉仮名」の発明です。
万葉仮名は、中国の漢字を借りて、フル活用した画期的な日本人の大発明なのです。
それを使って書かれたのが、万葉集・古事記・日本書紀なのです。
だから、耳で聞くと理解できるのです。
この万葉仮名からわかることがあります。
奈良時代の人々は、5母音ではなく、8母音で話していたといわれています。
今とはかなり違う発音でした。
ひらがなの誕生は・・・。
奈良時代に誕生した万葉仮名は、一文字の画数が多く、とても効率の悪いものでした。
そこで、文字を崩したり、端折ったりして書く草仮名が誕生し・・・それがもっと簡略化され「ひらがな」日本独自の文字が誕生します。
9世紀にはすでに誕生していたようです。日本語を発音通りに話し言葉に近い形で書き表すことが出来るようになりました。
しかし、貴族の中でも頭の固いおじさんたちには今一つ・・・。
このひらがなに飛びついたのは、女子。昔から女子は新しくて便利なものには敏感でした。
「ひらがな」の普及によって、女性文化としての和歌が盛り上がりました。
この時代の貴族は、一日に何度も手紙のやり取りをしていました。現代におけるメールと同じです。
ひらがなの普及と、女性文学の発達・・・
すらすらと想いのままにかけるひらがな「源氏物語」にはうってつけでした。
「カタカナ」も「ひらがな」と同時期に生まれました。
もともとカタカナは、仏門の僧侶の中で素早く文字を書くため、勉強効率化のために生まれたのです。
現代まで使われるひらがな・カタカナ・漢字は、この頃から使われていたのです。
鎌倉時代以降に、日本語に大きな変化が出ます。
その陰には、源頼朝、平清盛をはじめとする武士たちの存在がありました。
さらに、信長、秀吉、家康が大きな影響を与えます。
1180年平清盛を討つべく伊豆国で兵を挙げた頼朝、そこにはせ参じたのは、奥州平泉で暮らしていた弟・義経。京都で育ったエリートの頼朝に対して、弟は今の岩手県、東北訛りが強かった?
鎌倉で武士による政権を樹立した頼朝・・・。地方の武士たちは、それぞれのお国訛りをもっていました。木曽義仲も、京都の貴族たちから訛っていると馬鹿にされていました。
そこで、武士たちは、独自の日本語を作り始めたのです。
「かへりごと」=「返事」などと、漢字を使い始めました。漢字がシャープで力強い、男らしいと憧れていたのです。
代表的なのは「火事」「武骨」「大切」など。
ゆったりとした日本語の中に、素早く強く、コンパクトに表現できる言葉を入れ込んでいきました。
しかし、京都の公家を中心に話されていた公家言葉もありました。
この二つが融合されたのが、室町時代です。
1338年京都に室町幕府が足利尊氏によって開かれます。
田舎者の武士たちが、京都にやってきました。
公家たちは、自分たちが持っていた荘園を武士にとられて貢物が上がってこなくなりました。生活が困窮し、武士たちに、自分たちの知的財産・都言葉や立ち居振る舞いを教えることによって生計を立てていました。
これによって、都言葉が武士の間にも浸透していくことになります。
伝統芸能の狂言は、この時代の言葉です。
続くは、群雄割拠の戦国時代です。
織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の時代です。
都の言葉はさらに重要性を増します。
信長も秀吉も、終わりから身を起こした新興大名。訛りはなかなか抜けきらなかったのですが・・・。
京都出身の光秀の言葉はとても綺麗でした。光秀を重用していたのは、最上級の室町言葉を話せたからだといいます。
その一方で・・・。
いま聞いている方言が熟成されたのは、
江戸時代のことです。
1603年徳川家康が江戸幕府を開いて天下統一。
藩政をしいて、日本は関所によって人の行き来が出来なくなります。政治的にも経済的にも、各藩が独立して生活をするようになって、他の藩との交流を持たなくなってしまった結果、260年の間に方言が熟成されていったのです。
江戸でも独特の江戸言葉が出来上がります。
武士は「山の手言葉」を使っていました。武家屋敷で話されていた上品な言葉です。
戦国時代に浸透した京都の都言葉が伝統的に武士の間で使われたものです。
時代劇で聞くことが出来ます。
庶民たちの間に生まれてきたのがべらんめえ口調で、早口の「下町言葉」落語などで聞くことが出来ます。
徳川家康が田舎町に幕府を開いたことで、あらゆる地方の人間が移り住むことになった江戸。
1719年には、人口100万人を突破しました。
そこで、新しい文化、新しい言葉が出来上がったのです。
どうやって浸透していったのでしょうか?
それは「マンガ」。寺子屋で使われていた「往来物」という教科書です。
身分に合わせて農民用「百姓往来」、商人用「商売往来」など、職業や生活風習によって分かれていました。その数7000種類ありました。
その結果、70%を超える識字率となりました。
多くの江戸っ子が江戸言葉を話していました。
日本に変化や改革をもたらした明治維新。
国語が生まれるきっかけも明治維新でした。
明治維新に関わった多くは下級武士、方言のためにコミュニケーションが取れませんでした。
地方出身者の言葉が通じず意思疎通に苦労します。
近代国家としてやっていくことが出来ません。
日本語を作ろうということになりました。
教育も軍隊も作っていかなくては!!統一した言葉が必要になってきました。
明治5年学制発布、全国で小学校制度が開始されます。
地方出身者は、洗練されたインテリな山の手言葉に惹かれて、山の手言葉を日本語の標準語としました。
日本人が近代化を早く成功させた大きな原因の一つは、西洋の思想、科学技術の言葉を日本語として理解できる形で翻訳できたからです。
日本人が作った和製漢語は、漢字の元祖・中国にも逆輸入されています。
「電話」「人民」「共和」と、次々と取り入れていったのです。
日本人は今でも新しい造語をたくさん作っています。
日本語の大革命が・・・言文一致運動です。これまで、書き言葉と話し言葉が一緒ではなかった日本・・・。
英語では、話し言葉をそのまま同じ発音で書く、そのことに文明開化で気づきます。
日本語はとっても変わっていたのです。
反対に、外国人は、日本の書き言葉にびっくりしていました。
中国から文字がやってきて2000年、日本語の表記も変化してきましたが・・・ようやくその2つが一つになる時が・・・。
挑戦の始まりは、二葉亭四迷。明治20年に小説「浮雲」を発表。落語を参考にしているといわれています。現代でも違和感のない、落語調は大成功。
しかし、カジュアルすぎ?とまったをかけたのが、森鴎外。「舞姫」では・・・。優美な言葉を披露したが・・・。
そこに尾崎紅葉が「である」を小説に取り入れた革命を起こし、客観的な説明を可能にしました。
それを使って出来たのが明治37年夏目漱石の名作「吾輩は猫である」なのです。
はじめは反発にあった言文一致も、とっつきやすさから定着しました。
明治33年小学校令が改正、読書・作文・習字の三教科を統一、国語が新設されました。
ひらがなも一音一字・48文字に統一されました。変体仮名は、200文字もあったのです。
しかし、小学校で習うのはカタカナから始まっていました。公文書はカタカナと漢字このヒエラルキーは、第二次世界大戦まで続きます。
昭和21年の日本国憲法は、口語体で、漢字とひらがなを使って書かれています。
国語の教科書も、ひらがなが優先に書かれるようになり、戦後は法律文なども、ひらがなが使われるようになりました。
国語が出来ました。しかし、正しいイントネーションはよく解っていませんでした。
そこに画期的なものが登場します。大正末期、ラジオ放送の開始です。
昭和10年学校放送の開始。子供だけではなく、先生のために・・・。
努力の結果、日本語は画一化されていきます。
「前畑ガンバレ」この時には、現在と変わらない標準語の放送が日本中に流れていました。
私たちは、全国どこでも通用する日本語を手に入れたのです。

やっとここまで来ました。
とりあえずはここまで。

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ラベル:日本人の謎