2012年01月25日

天下布武を目指した男たち〜織田信長スペシャル〜

長いことTHEナンバー2を見てきて思っていたこと。

いっぱいナンバー2おるやんか!!誰がナンバー2なんや!!と、思っていました。

で、今回、そのナンバー2のナンバー1を決めてくれます。黒ハートなるほどexclamationって感じです。

で、今回は、織田信長スペシャルです。黒ハート

1534年、戦乱の世に一人の革命児が生を受けました。後に中世の全てを覆し、近世の扉を開いた織田信長です。織田信長の野望は、天下布武をスローガンに、武力を使った独裁国家、中央集権国家を作ることでした。

そんな信長に仕えたのが、沢元・柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・松永久秀・明智光秀・豊臣秀吉、個性豊かな男たちです。魔王信長の強烈な個性を支えた男たち、信長のナンバー2の中のナンバー1は誰だ?!

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沢元は、信長という名前を授け、天下統一の思想を与えた僧侶です。つまり、信長の仕掛け人にして信長を作った男でした。

信長の父の葬儀での、有名な抹香投げつけ事件は、沢元の支持だったとも言われています。うつけと思われていた古参の武士たちに、父から自分に代わったのだという強烈なイメージをつけるパフォーマンスだったのでは?といわれています。

天下布武の印も、沢元が中国の「春秋左氏伝」から引用して与えたものです。信長のブレーンとして、信長が大名として天下にどう接していくか・・・そのスローガンを作ったのです。

信長は、軍人には恵まれていましたが、政治家として自分の構想をまとめてくれる人がいませんでした。そこで、沢元が桶狭間の時、徳川との折衝にも参加、信長の思想であり、外交官だったのです。

A柴田勝家
勝家は、 かつて信長を殺そうとしたナンバー2です。

弟の信勝を担いで、1556年暗殺計画を実行しますが、信長は、簡単に打ち破ります。
このことで、「信長はうつけを装った天才だ!!」と感じた勝家は、頭を丸め、信長に心酔します。

次の年、信長は、弟を自らの手で斬り殺します。謀反の疑いがあったからです。その時信長は、「病気になったので見舞いに来るように」と、手紙を書いておびき出したのですが、その手紙を持って行き、暗殺の手引きをしたのは勝家でした。

この瞬間が、勝家が信長のNo,2を選んだターニングポイントでした。
信長には恩義を感じ、忠犬とまで呼ばれた忠実な家臣、最強の猛将でした。

が、信長の死後、先祖代々古参、性格も真っ正直でまさに軍人の勝家と新参者で裏技や謀略の秀吉、二人の間で争いが起こるのでした。

B滝川一益
一説によると、秀吉よりも評価の高かった男です。

滝川一益が信長のお気に入りとなったのは、射撃の名手だったからです。小さな的に、50m離れた先から鉄砲を当てることが出来ました。その確率72/100。それがきっかけで召し抱えられるようになります。

一益が存在を示したのは、あの有名な長篠の戦いです。当時最強と謳われていた東の勇、武田軍を追い払ったのです。それで、信長は、一益の有能さを思い知ります。

なぜ、武田の騎馬隊は最強だったのか?それは、機動力、突進力と破壊力でした。それは、誰にも止められないと思われました。

が、一益は、馬防柵を作ります。そこで馬を止め、鉄砲で三段撃ちをしたのです。これによって、戦国最強の騎馬軍団を撃破。

それでは、この時点で秀吉とどちらが有能?
天象10年、武田勝頼を滅ぼし、一番の手柄となった一益。信長は、一益に、関東を任せると、関東管領に任じたといわれています。一国ではなく、関東全体を治めるのです。その時点では、秀吉はまだ毛利と戦っていました。

本能寺の直前では、一益のほうが上だったかもしれません。

C丹羽長秀
安土城を作った男です。そうして、人間的にも調整役として重宝され、長秀がいなければ個性豊かな織田軍は、空中分解していたといわれます。

普請奉行という城づくりの最高責任者となり、天守閣のある前代未聞の城、安土城を作った貴重な人材です。この城は、大阪城・江戸城など、後の全ての城のモデルとなりました。

信長は、絶大な信頼を寄せ、長秀には全てを任せていたといわれています。

D松永久秀
極悪非道で、信長を2度も裏切った男です。

1570年4月朝倉攻め・金ヶ崎城攻略後、義弟・浅井長政が朝倉に寝返って、信長を挟み撃ちにしようとします。この、絶対説明のピンチを救ったのが、松永久秀です。

早期の撤退をすすめ、近江朽木谷領主朽木元綱を説得・命を懸けて朽木谷を占領し、京まで道案内をしたといわれています。

その1年後、足利義昭が武田・朝倉・浅井と信長包囲網を作りますが、なんと、これに参加、しかし、震源の持病が悪化し、義昭は京を追われます。
それを見るや否や、信長に謝罪し、降伏したのです。
そして、魔王は裏切り者を受け入れました。

4年後の石山本願寺攻めを放棄し、信貴山城に立てこもり、上杉軍と信長を討とうとしますが、謙信は上洛することなく越後に帰ってしまいました。

2度目の裏切りに久秀は、申し開きすることなく、東大寺を燃やし、大仏も燃やし、切腹します。
古いものを壊して、新しいものを作る、自由気ままな裏切りの人生でした。

E明智光秀
信長より6歳上といわれています。
丹波平定後は、戦には参加していません。自分の歳を感じ、織田軍団に自分の居場所がなくなってきていることがわかってきていました。

1582年武田を滅ぼした時も、光秀には参加の機会すらありませんでした。

1582年3月、武田の先勝祝いの席で、「これでわれらも長年骨を折った甲斐があった」と、自己アピールしてしまいます・これが、信長の逆鱗に触れ。。。「お前に何の骨折りがあった?!」と、欄干に何回も頭を打ちつけられます。

5月信長は、光秀が友好を築いていた長曽我部元親の征伐を決意。
5月12日には自らの神格化宣言をします。「神を拝まず、信長を拝め」と。
5月15日光秀は家康の饗応接待役をするも、その任は6日でとかれ、
5月21日秀吉の援軍を命じられます。そして、丹波・志賀を取り上げ、まだ手に入れてもいない出雲・石見を与えるとしたのです。
そして、運命の6月1日。1万3000の兵は、毛利ではなく本能寺へ・・・。

どうして光秀は信長を討ったのか?
それにはいろいろな説があります。
T光秀犯人説
U光秀以外の犯人説
V光秀が主犯という説
W光秀以外の黒幕がいるという説

光秀が実行犯であることには間違いないと思われますが、家臣として、信長の狂気を止めたかったのかもしれません。

F羽柴秀吉
天正10年本能寺の変、その後安土城も崩壊。
清州城では清州会議が行われました。

そこには、山崎の合戦で明智を討ち、主君の仇を討った羽柴秀吉がいました。
本来なら、この会議への参加者は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益でしたが、一益は、北条氏と戦っていて、身動きが取れずに不参加、その代わりが池田恒興でした。

柴田勝家は、織田信長の三男・信孝を支持、秀吉は、原則は長男が継ぐのだという考えで信長の直系の孫である三法師をたてます。

秀吉は、人の良い丹羽長秀を騙し、池田恒興を買収、謀略を以て、秀吉が勝ち、あとは三法師が継ぐのです。
秀吉が、他のメンバーと違っていたのは、自分が乗っ取ろうとしていたという点でした。


では、誰が真のナンバー2なのでしょうか?

普通は、ナンバー2とは、あくまでもナンバー1をたてるのが基本です。信長亡き後も、織田家を盛り立てていく・・・そういう人物です。そうなると、丹羽長秀か柴田勝家です。

が、信長のしようとしていたこと、大局的に、歴史的に見て、天下統一をし世の中を平和にする。その事業を受け継いだのは秀吉でしょう。

つまり、秀吉がナンバー2でしょうか?黒ハート

野蛮で残酷といわれた織田信長、しかし、人を苦しめていた旧体制をぶち壊し、新しい世界の扉を開きました。そのぶち壊し方は酷かったかもしれませんが、力づくでやるのは止むおえなかったのかもしれません。

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posted by ちゃーちゃん at 12:07| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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