BS歴史館です。あなたの知らない忠臣蔵〜常識逆転・武士道の真実〜です。
今からおよそ300年前、元禄15年12月14日(15日未明)赤穂浪士の討ち入りがありました。2時間の激闘の末、仇・吉良上野介を討ち取ります。これが、元禄赤穂事件です。
この事件は、江戸庶民はすがすがしい義挙と喝采。泉岳寺には、四十七士が祭られています。
当時でも、討ち入りの評価は分かれていました。
「忠義」を果たした武士の鑑
「法」では討ち入りは犯罪
彼らは武士道を解っていないなど・・・。
それは赤穂浪士内でも同じでした。
堀部安兵衛の「忠義」=主君・個人に対して。
大石内蔵助の「忠義」=御家。
主君浅野内匠頭長矩が切腹したその時大石は・・・。
城の明け渡しには同意せず、切腹覚悟でしたが、本家・浅野家が大石の切腹を許しませんでした。
4月19日赤穂城を明け渡し、領地も取り上げられます。家臣も食い扶持がなくなり各国ちりぢりに・・・。
大石自身も京都・山科に移り住みます。大石には、家老としてやるべきことが残っていました。
ちりぢりになった家臣たちに安定した生活を送らせること、そして、浅野家の再興でした。大石の責務、それは、弟の大学とともに、浅野家の復活をさせることでした。
しかし、江戸留守居役の堀部安兵衛は応じません。浅野家の復活には不満を持っていました。「我々は、あくまで亡き内匠頭様に忠義を尽くすことが本意、主君の仇、吉良を見逃し、分家の大学様を大切に思うこと、大学様にことよせ命を惜しむようである。討ち入りは武士の道にかなう行為であり、奉公すべきは内匠頭様ただ一人。その怨念を晴らすことが何よりの忠義である。」と。
これに対し、大石は戒めます。
今、討ち入りをすれば、お家再興の道は絶たれてしまう・・・。
「亡君の忠義尽くすといって、御家根も葉も打ち枯らしては、忠義とばかりは言えない。」
この忠義の違いは、二人の経歴や社会的地位の違いによるものです。
大石は、代々浅野家の家老を務めてた譜代でした。
だから、大名家の存続、浅野家の再興が重要だったのです。
しかし、安兵衛は、新潟・新発田藩出身、江戸で堀部弥兵衛の養子となります。そうして、内匠頭により、江戸留守居役に抜擢されるのです。自分を取り立ててくれた内匠頭が人生であり、たった一人の主君でした。
組織全体を尊重するのか?それとも大切な一人の為に尽くすのか?現代に通じる問題です。
いろいろな忠義のあり方があり、それぞれの武士の立場の違いがそこにはありました。
また、新しい資料が発見されるたびに、私たちの知らない忠臣蔵が発見されます。
討ち入りは、元禄の天下泰平に、古き勇ましい武士道の復活を思わせたわけですが、赤穂浪士は「お坊ちゃまの武士道」という批判の声もありました。
では、武士道とは?
元禄14年夏、京都の山科で・・・。
大石は、この地から幕府に、お家再興を訴えていました。ところが、1年後、衝撃的な知らせが大石の元へ・・・。大学の謹慎はとけたものの、広島にある浅野本家のお預かりとなります。このことは、もはや大名にいはなりえないことを意味していました。
大石の望みは潰えます。
元禄15年7月京都円山で、本格的な討ち入りを決意します。すでに松の廊下から1年4か月たっていました。
江戸に入り、吉良邸を4か月かけて入念に準備します。
佐賀県の鍋島藩には、この大石の緩慢な行動を批判した書が残っています。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」あの有名な「葉隠」です。「赤穂義士の敵討ちは、延びに延び、ケンカ打ち返しをせぬ故」=恥、と、大石を非難しています。本来の武士とはやられたらやり返すものだ!!というのです。
赤穂の義士を、上方風の打ちあがりたる武士道と非難します。これは、上品・軟弱・優等生という皮肉を込めた言い方です。
別の角度から見ると、大石は新しい武士でした。計画性と合理性を兼ね備えていました。
具体的には・・・
@徹底的な予算管理
神奈川県箱根神社には、金銭出納帳が残っています。
大石は、藩の財務整理をしたうえで、691両の仇討資金を用意します。その使い道はすべて記入。
そこには、同志たちの江戸滞在費、武器代など、書かれていました。そして、7両の不足分を自ら補てんしていました。
なぜ、こんな経済センスがあったのでしょうか?上方は、天下の台所でした。赤穂は大阪に近く、良質の
潮が取れるので、繁栄していました。豊かな藩財政を担ううちに出来たものだと思われます。
A合理性
徹底した情報収集を行います。
武士でありながら町人になりすまします。米屋、茶人に弟子入りし、吉良邸を調べ上げます。町人になりすますこと・・・。それは、本来は恥ずべきことでしたが、体面やプライドは二の次でした。
近代的な経済合理性を持っているのが、上方武士道の姿でした。
上方武士道・本来の武士道・・・地域によって武士道は違いました。それは、幕末の武士でも同じことでした。薩摩武士などは、古い考え方で、仇討ちは行き当たり次第に討ち取るようなところがありました。
大石は、将棋や碁のように、戦略的だったので、理解できなかった武士もたくさんいたようです。
ちなみに武士道の始まりは万葉から。鎌倉期には弓矢の道となり、戦国では戦場での勇猛果敢な働きのことで、江戸時代になると、強いばかりではなく「忠義」が入ってきました。内面性に重視を置くようになってきたのです。これは、平和な世になったので武士の官僚化が進んだといえるでしょう。
つまり、武士道は地域・時代・立場によって、全く変わってくるのです。
元禄15年12月14日討ち入り
2時間の戦闘の末、吉良の首を討ち取ります。
では、この討ち入りの真実とは?
新潟県新発田市で資料が発見されました。
これは、佐藤條右衛門という安兵衛のいとこが書いたものです。
元禄の武士は呑気で、吉良邸の周りでは町人たちが普通に歩いていて、かなりの数の支援者や見物人がいたというのです。また、討ち入りに遅れてきた浪士もいました。
12月15日朝、吉良を討ち取り・・・。泉岳寺の内匠頭の墓前に首を備えました。江戸庶民は、武士の鑑として喝采しました。
武士の間では、幕末まで義士か否かという論争がありました。
私たちは誰の為に生きるのか?忠義とは何か?
林大学頭信篤(儒学者)は、「復讐論」の中で、義士としてたたえています。
「命を惜しんで仇敵を見逃すことは、士の道に外れるものである。46人は、当然褒められるべきである。」
しかし、」否定的な意見も出ます。荻生徂徠です。
「幕府の仇討の許可もないのに騒動を企てたことは、法律においては許されざることである。従って厳罰に処すべきである。」と、
仇討ちは忠義
法律に背き忠義ではない・・・・では、誰のための忠義か???
松の廊下から47年後「仮名手本忠臣蔵」が、上演されます。夫婦の絆、親子の別れ、忠義、何もかもロマンチックで人気が出ます。
同じころ、弘前藩では乳井貢が批判します。
この乳井貢、家督わずか50石の武士でしたが、勘定奉行にまで上り詰めた人物です。
武士道に独自の考えがあって・・・。
「治めるべき国も民もなくなった赤穂の家臣たち。武士として職分はなくなった。しかし、人間としての職分はなくなったわけではない。妻子を養い、家族を維持していく責務が残っていたはずだ。」として、過去の義士論争とは全く違う観点から批判をしています。
「主君に仕えることのみが大輪の道ではない。赤穂浪士たちは、名を惜しむあまりに、親に対する子供としての、妻に対する夫としての、家族に対する職分を放棄し、果たさなかったことこそ批判されるべきである。」主君以外の四つの守るべき大切なもの、それは、親・子供・兄弟・友人。
明治時代には、世界に・・・。斉藤修一郎の「忠義浪人」です。これに大きな感銘を受けたのが、第26代大統領セオドア=ルーズベルトです。「忠義という麗しい神は、もっとアメリカにも欲しいものです。」
忠義をどう考えるのか?我々は、一体誰の為に生きるのか?それは、多面的なのです。
新渡戸稲造が、1899年に「武士道」を外国人に向けて発表。そこで・・・。
「赤穂四十七士の主君は、切腹を命じられた。彼は控訴する上級裁判所を持たなかった。彼の忠義な家来たちは、当時存在した唯一の最高裁判所である復讐に訴えた。そして、彼らは法によって罪の宣告を受けた。しかし、民衆の本能は、違う判決を下した」と、紹介しています。
当時の日本人は、法などなくても生きて行けたのです。義を見てせざるは勇亡きなり=自発的に正しいと思ったら自分でやるべきことはやる!!
戦国の残虐な中からコロコロと転がって、武士の心の強さがみんなの為に・・・。というところに落ちていったのでしょう。
みんなの目的「美しく生きる」ことに。

NHK想い出倶楽部II〜黎明期の大河ドラマ編〜(2)赤穂浪士
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