2011年12月16日

やはり水の都でしたね。

昨日のニュースで大発見exclamation×2

奈良・橿原で「磐余池堤跡」発見!!
橿原で人工池「磐余池」と、宮殿跡が発見されました。
6世紀のもののようですが、仁徳天皇第一皇子と思われる履中天皇、清寧天皇、継体天皇、用明天皇が首都に置き、宮殿を持ったとされています。

私の大好きな悲劇の皇子・大津皇子もこの池を眺めながら、辞世の歌を詠んだとされています。
ああ、古代のロマンが、紐解かれることになるのでしょうか?

謎の飛鳥時代のさらに前の時代・・・。万葉の奈良の・・・解明の大きな手がかりになるのでしょうね。

ちなみに、磐余の里散策なら、こちら
posted by ちゃーちゃん at 08:09| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

謎の都 飛鳥京発掘〜蘇る水の都〜

BSアーカイブスで、飛鳥京発掘のドキュメンタリーをやっていました。

ゲストは黒鉄ヒロシさんでした。

場所は、奈良の明日香村、1300年前の古代の都です。
先日私も行ってきましたが、のどかな田園風景でした。

昭和30年代、飛鳥板葺宮伝承地(宮殿跡)が発見されました。ここは、古代史の舞台となった場所です。
時代は、6世紀末、聖徳太子の活躍した時代、伝教文化が花開き、政治的には大化の改新があった時代でした。

天皇を中心とした政治体制が確立した、国づくりの出発点です。

長い間、飛鳥京は謎の都とされてきました。
そこには、古代の儀式跡・・・石神遺跡では幅2メートルの水路の跡が発見されました。そんな首都の実態をコンピューターグラフィックで再現してくれました。

奈良盆地の南の端の農村・・・そこには、水路がめぐらされた水の都の姿がありました。

平成11年6月に、池の遺跡が見つかりました。この池の中から、水を噴水のように噴出す石造物も発見されました。宮殿近くで発見された苑池は、当時の中国・朝鮮にあった外国の賓客をもてなす庭であったとされています。

この飛鳥京の発掘は、昭和8年から10年にわたって行われた石舞台古墳の発掘に始まります。
昭和31から32年には、飛鳥寺発掘調査が行われ、昭和34年からは飛鳥京跡の発掘が行われました。
この発掘で、ここには言い伝えどおりの宮殿があったことがわかりました。

平成に入ってからも、どんどん新しい発掘が行われました。工房跡からガラス玉が・・・作りかけの貨幣・富本銭が・・・。それまでは、和同開珎が最古の貨幣とされていましたが、歴史を大きく覆す結果となりました。

大規模な土木工事と、人夫7万人が石垣や石の丘を作りました。これも、日本書紀の記述どおりでした。

古代中国の影響が色濃く残る高松塚古墳、キトラ古墳、それらを通して、倭国としての外交、当時の唐・高句麗・新羅・百済そのほかの東アジアと倭国の貴重な関係がわかります。

この土木工事を行ったのは、大土木工事を好んだとされる斉明天皇で、倭国の威信を海外に知らしめるため、当時の最新の技術をもって行われたと言えます。

この番組では、苑池の発掘が中心になっていました。

中国や朝鮮にもあった苑池。しかし、発掘と同時に日本的思想の中で作られていたことがわかります。
都市の水利用に使われていたのではないか?ということが解ってきます。

この苑池の底から水が湧き出ています。地下水の動きを利用する施設だったのではないかというのです。この地下水脈を利用して、綺麗な水を都市に循環させていたのです。

都全体に張り巡らされた水路。その隅々を潤す水は、都市に住む人々が利用するだけではなく、夏には都市を冷やすクーラーの役割をしていたのです。
そして、都市から流れる水は、苑池を通して排水を行っていたようなのです。

深い苑池の謎は、自然の力をたくみに利用したシステムであり、景色を楽しむためだけではなく、当時の最高の都市計画だったのです。

そうして、その苑池には、豊富な水とともに、薬とされる草花が植えられ植物園のようでもあり、薬に関わる施設があり、処方箋のような木簡も見つかっています。そこで見つかったのは、桃の種、梨の実、棗、栗、などで、当時は薬として重用されていました。

私達の想像をはるかに超えた生活をし、巧みな外交をしていたことがわかります。

今よりも、貪欲に、発展的だったのでしょうか?古代のロマンですね。。。
posted by ちゃーちゃん at 12:16| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月07日

池上彰の現代史講義

やっと見ることができました。池上彰の現代史講義〜第14弾〜

第14回は、9.11そしてイラクとアフガニスタンでした。

ここら辺の事情は、わかっていても、なかなか解り難いものがありますよね。

2001年以降の世界のお話です。

10年を迎えた9.11アメリカ同時多発テロ事件、ニューヨーク・世界貿易センタービルに、飛行機が突っ込んだ、あの事件です。私は、その時、あーこを産むため里帰りをしていました。ちなみにあーこは生後10日で、あーこのお友達の誕生日でした。

この光景に、世界の人々が衝撃を受けました。3000人以上の人が亡くなり、その中には20人を超える日本人が犠牲となりました。世界を震撼させた事件です。

この事件を画策したのが、国際テロ組織、アルカイダで、そのトップが、ウサマ・ビンラディンです。犯行声明が、アルジャジーラによって放送されました。

当時ビンラディンは、アフガニスタンにいました。が、アフガニスタン政府は、受け渡しを拒否し、かくまっていました。これを知ったアメリカは、テロをかくまう者はテロリストと同じとし戦争に突き進むのです。

2001年10月、タリバン政府に対して・・・アフガニスタン・カブールを攻撃し、多くの市民が犠牲となりました。

記憶に新しい、2011年5月2日、パキスタンでビンラディン本人を発見、アメリカの特殊部隊によって殺害されました。

いま、アメリカ軍は撤退しようとしていますが。。。泥沼化。

2011年8月6日、タリバンによりNATO軍ヘリが撃墜、そのヘリには、ビンラディン殺害を実行した特殊部隊が乗っており、隊員は死亡しました。

つまり、今も戦いは続いています。
では、ビンラディンを生み出したのはどこなのでしょうか?

ウサマ・ビンラディン、サウジアラビア出身です。
父は、イエメン出身で、サウジアラビアで建設業を営んでいました。王室に気に入られ、このビンラディン建設を巨大な企業に一代で築き上げた人です。

兄弟は45人〜55人いるといわれています。

この、とてつもないお金持ちが、どうしてアメリカに対してテロを行ったのでしょうか?

それは、東西冷戦時代・・・。
1979年12月24日、ソ連がアフガニスタンに侵攻します。これは、210年にも及ぶ駐留となるのですが・・・。

ソ連は、第二次世界大戦でドイツに侵攻されて以来、周辺に同盟国がないと安心できませんでした。アフガニスタンを自国よりの政権にしようとしたのです。

冷戦当時、西側諸国では、1980年のモスクワオリンピック・ボイコット運動が盛んに行われ、日本の選手も、涙を飲んでボイコットをしました。

政治的にも、カーター大統領の国家安全保障担当補佐官のズビグニュー・ブレンジスキーが、「アフガニスタンをソ連にとってのベトナムにしてやる」と言ったとか・・・。

そうして、アメリカは、アフガニスタンのゲリラを支援するようになるのです。それは、ベトナムの時の、泥沼の戦いの復讐でした。

アフガニスタンは、イスラム教の国です。イスラム教には「ジハード」という考え方があります。これは、教えを守るための努力のことで、聖戦ではありません。が、異教徒の侵入を防ぐこと=聖戦となってしまいました。

「ムジャヒディン」=イスラム聖戦士となり、ソ連軍に抵抗します。アメリカの大援助が始まりました。このアフガニスタン、北はソ連、西はイラク、アフガニスタンのゲリラに援助しようとしても敵だらけ。アメリカは、パキスタン経由で援助をしました。
物資を届けていたのは、パキスタン軍「統合情報部(ISI)]が、陸路で運んでいました。

武器が全くなかったムジャヒディンたちでしたが、簡単に操作のできる、地対空ミサイルが力を発揮し、ソ連は大打撃を受けます。まさに泥沼化でした。

ソ連のゴルバチョフ大統領が、戦争をやめるために。。。

1989年2月アフガニスタンからソ連軍を撤退させます。理由は、ソ連の役割は終わったでした。
と同時に、アメリカもアフガニスタンに興味がなくなり、撤退します。

この戦争での負の遺産としては、戦争の恐怖、誰が敵で誰が見方かわからない泥沼の世界から逃れるため、ソ連兵は麻薬中毒に・・・。ソ連に帰った後も麻薬を。国内に麻薬が広がりました。これは、まさに、アメリカのベトナムと同じでした。

ランボーも、怒りのアフガンではカッコいいヒーローですが、1では、ベトナム帰りの精神的にもきつそうな男ですよね。

結局、アメリカが見捨て、ソ連も見捨て、アフガニスタン国内が崩壊してしまいました。ムジャヒディン同士での内ゲバが横行します。
今までは、対ソ連で仲良くしていましたが・・・パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、言語も全く違う人たちが大混乱に陥ります。

このムジャヒディンに対して、サウジアラビアから多くのボランティアが送り込まれました。その中の一人が、ウサマ・ビンラディンなのです。

もともとアルカイダというのは、そんな「若者の名簿を作る基地」のことで、ゲリラを助けようとしてアフガニスタンに行った若者の名簿を作る基地アル(The)カイダ(Basa)のことです。

ソ連の撤退と共に、サウジアラビアに帰ったビンラディン。内乱状態の中、新勢力が現れます。
1994年、精鋭部隊タリバンが現れます。
このタリバンとは、神学生のことです。

アフガニスタンのパキスタン側の難民キャンプにデオ・バンド派が作った学校で、軍事教育の施された学生達です。

タリバンは、偶像崇拝を禁止し、テレビ・映画・音楽も禁止、女性は保護すべきものとして就職も禁止し、厳しいイスラム教の元で生活をしているのです。

男子学生は、「コーラン」のみを学ぶのです。

どうして精鋭部隊が現れたのでしょう。それは、パキスタンが自国よりの国を作るため最新の武器をタリバンに与えたからでした。

そうして、タリバン政権の下に、ビンラディンが帰ってきます。

そのきっかけは・・・。

1990年8月湾岸危機・イラクのクウェート侵攻でした。冷戦が終わり、クウェートは石油のたくさん出るお金持ちの国となりました。このクウェートとイラク、もともとは同じ国でした。

イラクのフセイン大統領は、「クウェートはイラクの石油を盗んでいる」として、侵攻したのです。

これは、冷戦時代にはなかったことでした。というのも、戦争がひとたび起これば・・・地球が壊滅・・・。というので、「戦争はしない」というのが、暗黙の了解だったのです。

イラクは社会主義国なので、ソ連が止めたはずでした。

1991年1月湾岸戦争勃発。多国籍軍がイラクを攻撃し、イラクはクウェートから撤退します。

が、このときサウジアラビアが、イラクが攻めてくるかも!?と、アメリカに助けを求めていたのです。

サウジアラビアに多くのアメリカ兵が来て・・・。「砂漠の盾作戦」が、行われました。この、サウジアラビアには大切な聖地メッカとメディナがあったのです。

怒ったのはビンラディンでした。もともと反米ではなかったにも関わらず、反米となり、サウジアラビアの国王を非難、追放されアフガニスタンへと逃れます。

タリバンは、客人は篤くもてなします。命を賭けても客人を守るのです。

9.11後も引渡しを拒否します。アメリカ軍の攻撃により、タリバン軍は崩壊、タリバン政権は崩壊したのでアメリカ軍はイラクへ・・・。そうすると、タリバンが勢力を持ち直すのです。

9.11のきっかけのひとつに、ソ連の崩壊があるのは間違いありません。
ビンラディンを育てたのはソ連でありアメリカでした。

9.11には現代史が凝縮されています。同時多発テロは新世紀の始まりでした。。。


ようやく現代史、終わることができました。

本当に、人間とは愚かなもので、戦争しかしていないような気がします。

でも、その中でも、ボーっとしているかもしれないけれど、日本人は生真面目で、人の良さが出ているかなあと、思います。

外国は本当に生き馬の目を抜くような、自分勝手な行動ばかりが目立つのは私だけでしょうか?

和をもって尊しとなす・・・

TPPでも、もう、入らずにはいられないような状況に入ってきています。

日本は、明治維新然り、第二次世界大戦然り、外圧がかかると、本領の発揮できる国だと思うので、頑張って欲しいです。。。

いろいろ勉強になりました。

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posted by ちゃーちゃん at 14:50| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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