2011年12月22日

暴れん坊将軍を支えた男〜大岡越前守忠相〜

大岡忠相が活躍した時代、徳川幕府成立から100年、ひずみが生じてきていた江戸中期でした。

質素倹約、目安箱の設置、小石川養生所・・・そんな吉宗のそばにいた超有名なNo,2。大岡越前がいなければ、吉宗は名将軍たりえませんでした。

しかし、大岡裁きとして伝えられているものは、殆どが創作です。では、本当の大岡忠相とはどんな人だったのでしょうか?

吉宗の時代、奉行所は3つありました。北・南・中町です。

当時は月番制で、訴訟や裁判業務を、北と南、月ごとに交替で行っていました。月番でない時は、その準備をしていました。

吉宗は、それまで政治の対象になかった市民の存在を政治の対象にした人でした。その行政サービスをやっていたのが越前でした。

大岡忠相は、1677年に代々旗本の家に生まれます。
当時優秀と認められた旗本は、地方政治に携わるのが通例でした。忠相も、三重県伊勢市山田奉行となります。旗本の仕事は、いわば中級官僚。事務能力のあるものでなければなりませんでした。

行政改革に迫られた幕府は、享保の改革を行います。大奥の大胆なリストラ、質素倹約、硬派な社会へ。しかし、伊勢だけは違いました。お伊勢参りで潤い、贅沢三昧。越前はこれを許さず、綱紀粛正させたのです。

このことにほれ込んだ吉宗により、南町奉行に抜擢されます。

江戸町奉行の仕事とは・・・。都知事と警視総監、消防総監、地方裁判所の裁判長をあわせたようなものです。

裁判については・・・大岡裁きは、江戸時代盛んになった機知ととんちに富んだ講談から来ています。他にも、京都所司代の裁判記録も使われていたりします。

青砥左衛門尉藤綱をはじめとする京都所司代の名裁判が、全て大岡裁きとして知られています。
また、三方一両損は、京都所司代在職35年、厳正な裁判で知られた板倉重宗のことで、他にも有名な大岡裁きとして言われているものには、天一坊事件、縛り地蔵などがあります。

そこで出た言葉・・・

「黄門は光圀にとられ
   内蔵助は大石にとられ
     名奉行は大岡にとられ。」と言われています。

殆どの大岡裁きは関係ないのですが、それ程の人気があったということです。
この人気・・・吉宗が改革の広告塔として選んだ大岡をスターとして前に出したのです。
吉宗は、演出家でした。一番怖いのは世論だ・・・。と。そうして、享保の改革を行いました。

改革に乗り出した吉宗・・・。その一つには少子化政策がありました。食糧不足で子供が増えないのです。そこで、食料の増産をするべく忠相に特命下ります。米が主な税金だったこの頃は、新田開発でした。

当時、国民生活は贅沢なものになっていました。元禄バブルで幕府財政は赤字、武士が国民の模範となろうとし、質素倹約に励みました。家康の頃の質実剛健に戻したかったのです。

殆どが大岡裁きでないなら、忠相は何をしていたのでしょうか?

当時、「火事とけんかは江戸の華」といわれるほどとにかく火事が多かったのです。

その頃は、大名火消しと、旗本火消し(武士)しかなく、市民自身も火消しぐらいは自分達で・・・と、思っていました。

そこで、いろは48組、本所深川16組、江戸町火消しを作りました。消化担当区域を明確にしました。これによって、消化実績は向上し、江戸中で評判になります。

江戸の三大モテ男、与力、相撲取り、火消しの頭。と言われ、江戸っ子の男気の象徴となり、消防隊の元祖となりました。

また、目安箱に貧しいものが病気・・・。とあると、小石川養生所を作りました。無料で治療するこの養生所は、幕末まで続きました。

では、なぜ2人は人を惹きつける行政が出来るのか・・・。

吉宗は、奇襲藩主の頃、幕府に10万両の借金がありました。吉宗は常に木綿の着物を着、食事も質素、給与のベースダウン、新田開発、目安箱を和歌山城に置きました。吉宗の土台はこの頃にありました。

忠相も、山田奉行時代に苦労をしていました。

2人とも、不遇の時代があったのです。民の暮らしを身近に感じ、救ってあげなければ。という気持ちが強かったのです。

しかし、享保の改革も、全てが上手くいったわけではありません。吉宗は、赤字財政を立て直し、米将軍と言われるほどでした。それほど、稲作を重視し、米の増産を図って、財政難を乗り切ろうとしました。

が、過剰生産による米の価格低下を招きます。それによって、かえって幕府財政が緊迫してしまいました。
そこで、慶長小判にそっくりの享保小判を造ります。幕府の威厳を復活させようとしたのです。

しかし、小判の質は、財政が苦しくなるにつれ下がってしまいます。少ない生産量が、小判の流通不足による激しいデフレを招きます。江戸経済はさらに冷え込みます。

そこで、小判の質を落とし、天文小判を作りました。この小判、金の含有量は享保小判の半分でした。これは、大岡忠相の進言でした。

これによって、デフレは解消。幕府経済は安定します。
当時は両替商の進出も著しく、その両替商とも渡り合うのが町奉行の大きな仕事でした。

吉宗は、幕府中興の祖と言われていますが、その影には忠相の進言があったのです。

その後、忠相は寺社奉行へ。

この時代、価値は全て、石高、お米に換算していました。米の生産が増えると、米価が下がり、そうすると武士の給料も下がる。それは、幕府も市民も困ります。貨幣経済はもうそこまで来ていました。

世間ではこんな歌が・・・

「多く(大岡)は食わねえ。 たった一膳(越前)」

皮肉られたものです。

そんな中、1732年、享保の大飢饉が起きます。97万人の餓死者が出ました。その時、青木昆陽が、さつまいもを作ることを進めます。
これを命じたのは、大岡越前忠相でした。

大岡越前忠相、かれは、実学に基づいた、庶民にも基づいた政治家でした。

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華麗なる独眼流・伊達政宗

久しぶりのBS歴史館・シリーズ激論!戦国の真実「華麗なる独眼流・伊達政宗」です。

独眼流・伊達政宗は、戦国乱世を駆け抜けた英雄で、人気も高く圧倒的、天下も取れなかった地方の一武将にもかかわらず、どうしてこんなに人気が高いのでしょうか?

伊達政宗といえば・・・一匹狼・肉食系・勇猛果敢な武勇がある一方で、料理を振舞ったり、筆まめであったり、書も書くといったような粋で教養と華麗なセンスも持ち合わせていたようです。

マルチな才能で、戦国時代の逆境を生き抜いた人でした。

1567年出羽国、米沢に伊達輝宗の長男として生まれます。当時は、30歳以上離れた信玄が活躍していた時代でした。

5歳の時、天然痘に罹り右の目の視力を失います。このハンディキャップが、己をどう見せるかというこだわりになったのではないかと思われます。

輝宗の跡取りとして鍛え上げられ、1581年、15歳で初陣を飾ります。

1582年、本能寺の変が起こり、絶え間ない天下取りの攻防戦が繰り広げられます。当時の鎧は、華美な装束が流行っていました。桃山時代という華やかで華美な時代・・・金箔が発明され、甲冑にも利用されます。

が、政宗は月の前立てと黒一色という異形でした。きらびやかに権威を示す武将の中で、政宗は実用的なもの、あえてシンプルなものにしたのです。胸は分厚い厚さ4mmの鉄板を使用、これは、火縄銃に対抗するためでした。が、現在の22口径の銃弾でも貫通しないのどの強靭なものでした。

流行に迎合せず、黒漆で塗り上げた甲冑。。。それは、逆に政宗の存在を際立たせることになりました。

家督をついで5年、1589年、23歳で南奥州制覇。その名を東北に轟かせることになりました。

その政宗の強大な敵、豊臣秀吉。秀吉は、西日本をほぼ手中に収めていました。そうして、関東に向いて来るのです。

1590年、関東の北条攻め・・・北条が5万のところ、秀吉は20万の軍勢で攻めます。それは、圧倒的な、天下統一のパフォーマンスでした。

この北条攻めの際に、秀吉から北条攻めに参加するように、参陣の命が下っていました。服従するか?挑むのか?命の危機に晒されていました。

迷った末の決断で、遅ればせながらやってきた政宗は、死に装束をまとっていました。そこには、秀吉との演出合戦があったのです。

この死に装束の意味は?北条の次は、伊達に攻め込まれるのはわかっていました。秀吉を研究していた政宗は、秀吉に直接合わせてもらうために、命を懸けて・・・という意味をこめて白装束にしたのです。

直接会ってしまった秀吉にしてみれば、殺してしまうと面子に関わるのです。そういうところを見越しての白装束でした。

政宗は、追い詰められても帰ってくる男でした。

書も一流で、歌も一流、その内容は、繊細で慎重しかもしたたかでした。現存する手紙は1300通以上。当時は右筆、という側近に書かせていましたが、自らが書きました。戦国一の筆まめだったのです。

天正13年、19歳の時に伯父最上義光に宛てた手紙では、あえてやってもいないような残虐な内容を書いています。

また、母との確執でも有名ですが、7通残っている母の手紙には母に対する愛情が溢れています。とても、母が政宗に毒を盛ったというような事件があったとは思えないような内容でした。が、史実としてそれは残っています。

政宗は、誰か。。。つまり敵が手紙を読むことを見越して書いていたようです。手紙=プロパガンダと思っていたのです。宣伝と情報操作に手紙を利用したのです。



乱世が終わり、天下泰平になった後は・・・

戦国一のグルメとなりました。美食家ではなく、実用的な・・・。発酵食品を好み、兵糧として長持ちする味噌の製造を目指します。藩直轄の製造所を作り、研究を始めました。これが、今の仙台味噌です。1年から2年かけて熟成させるので、長持ちします。

そうして、この料理を戦略として利用するのです。

1603年、家康が江戸に幕府を開きます。
徳川家三代で全国でお家断絶になった大名は100以上。謀反の噂の絶えない正宗は、贈り物攻勢にでました。

仙台の特産「子ごもり鮭」「オットセイのたたき」などの珍味、高級食材を献上しました。政宗の、生き残りをかけたグルメ戦略です。

また、様々な家臣と、コミュニケーションをとるために食事をしました。殿自ら料理を作る「おもてなしの心」これが、信頼の絆となりました。

「料理の心得がないものは、心が貧しいものである。
  一品でも自ら盛るならば、それが最高の馳走である。」

実はこの頃、茶道の発達により、会席で温かい物が食べられるようになってきました。今の日本の食事の素は、この頃にありました。

そんなおもてなしの心で、接待をして生き残ったのです。
その逸話として・・・
秀忠に自ら膳をだす機会がありました。”自ら”となると、当時は”毒を盛る?”というような疑いもありました。

そう指摘された政宗は・・・「10年前ならいざ知らず、今は上様のお命を狙うつもりなど毛頭ないわ。その10年前でさえ、毒という姑息な手段など使わず、合戦で挑む。」と、さらっと言ったといいます。
戦の世も平和の世も、楽しんでいる人でした。

国許での政宗。。。

関ヶ原の翌年、仙台を本拠地とします。
杜の都仙台・・・。東北最大の都市の原型を、400年前に造ったのは政宗でした。
晩年は、日本一の国づくりを目指します。未来を見つめるグローバルな眼を持っていました。


荒地だった仙台。。。海が近く、交通の便もよく、しかし、三方の山が要塞となり、広瀬川が堀の役割をし、堅固な城となりました。首都になってもおかしくないような設計になっていましたが、当時流行っていた天守閣は作りませんでした。

政宗は、広瀬川上流から取水し、用水路を造り、人口増加による建築材の不足に備え、成長の早い杉の木の植樹を奨励しました。

1611年10月28日、慶長三陸地震が起こります。

領内の田畑は壊滅。大津波で5000人以上が亡くなりました。政宗45歳の時に起こった大天災でした。

これに対して政宗は、津波の被害にあった地域を復興し、新田開発をしました。

そうして、起死回生の壮大な事業に挑みます。それは、太平洋航路を利用した海外貿易でした。南蛮貿易は、当時は西国大名や、堺が中心でした。仙台からスペインとの新しい貿易ルートを開拓しようとしたのです。

そこには、復旧だけでは危うい・・・。という危機感がありました。家臣や商人に夢を与えるために、慶長遣欧使節団の実現に取り組みました。

そうして、地震から1ヵ月後、江戸屋敷にスペイン人を招き、仙台藩での布教容認を条件に貿易交渉をしました。

現在、石巻港には、サン・ファン・バウティスタ号が復元されています。

この船は、1613年9月に出航。スペインやイタリアを回りました。しかし、幕府のキリシタン弾圧で交渉が決裂してしまいました。

このときに新田開発した土地は、江戸の米の三分の一を供給することになり、石高は100万石へ。
政治家としても一流の政宗でした。

政宗の句
「入りそめて 国豊かなる みぎりとや
  千代とかぎらじ 仙台の松」

「この地に来たからには、千年以上続く 豊かな国にしてみせよう」

仙人のつどう理想郷という意味をこめた「仙台」

その地は400年たった今も、杜の都として魅力的ですが、それは、伊達政宗が造ったからでしょう。



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ラベル:政宗 伊達 独眼流
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2011年12月20日

源氏物語〜千年の旅・2500枚の源氏絵の謎〜

東レ トレシー 『源氏物語と花宴』 「源氏物語図 花の宴(はなのえん)」

源氏物語は、作者が紫式部、今から千年前の作品で、宮廷文化が花開いた平安時代に宮中で読まれ、大ベストセラーとなった作品です。全54帖あり、登場人物は400人を超え、主人公の光源氏を中心に、愛と嫉妬、栄光と挫折が織り成す世界です。

この源氏物語は、日本で一番「絵」にされている物語で、その「絵」のことを「源氏絵」といいます。一番有名なのは、「源氏物語絵巻」

1.jpg

で、これは、きらびやかな国宝ですが、ニューヨークにあるパブリック・ライブラリーには日本から渡ってきた謎の絵巻があります。それは、フランスにも・・・。

謎の源氏絵の数々が、世界中に散らばっているのです。その数、2500枚。

1000年たっても私達を魅了する源氏物語。

光源氏は、亡き母の姿を求めて色々な女性と逢瀬を重ねていきます。また、権力闘争に関わって、挫折し、その中からまた上り詰めていく・・・。

当時の人々の心を掴んだ理由は、作り物ではなく、生活に密着していたこと。それまでも、竹取物語などがありましたが、御伽噺のようで・・・。当時の人々も、光源氏と同じように、人を愛し、苦悩していた・・・。源氏物語は、そんなリアリティのある作品だったのです。

現時絵は、源氏物語から100年後ぐらいに現われます。

徳川美術館に収められている絵・・・。今も多くの人を魅了して止まないその絵は、あえて表情を抑えて、見る人の感情のままに見せています。当時の最高級の顔料を使用しています。

作るように命を下したのは、白河上皇でした。この人は、天皇→上皇→法皇となった人で、40年以上も権力を握ったその人です。

白河上皇は、光源氏と重なる一面がありました。

早くに母親を亡くしていること。
数多くの愛人がいたこと。


そうして、この白河上皇が源氏絵を書かせたことが・・・源氏物語の舞を舞ったことが・・・、今まで個人で読むという楽しみから、大々的な祭りに仕立て上げ、権力を誇示する政治的なものへと変化したのです。
単なる物語でなくなってしまった瞬間でした。

ここに、世界的なプロジェクトが始まります。
フランスのパリで、8万円近くもするという源氏絵の豪華本が発売されることになったのです。

ヨーロッパでも人気の高い源氏物語。個人が持っている新しい絵が次々と見つかり、その数は19カ国にわたり2500枚にもなりました。そのうちの520枚が、この豪華本に掲載されています。

この2500枚、年代別に分けてみると・・・。
16c~17cに集中していることがわかりました。

誰が何のために書いたのでしょうか?

ボストンにあるハーバード大学に、16cはじめに作られた源氏物語画帖があります。これは珍しいことに、巻物ではなく本に綴じられた源氏絵でした。平安の優美さとはかなり違う画風で、荒々しく、その画帖には、数多くの荒ぶる者が書かれていました。



絵の裏紙をはがすと、6人の名前が書かれていました。そのひとりは、三条西実隆・・・源氏物語の研究者でした。そのパトロンは、陶三郎、ひいては大内左京大夫義興・・・つまり、武士だったのです。大内義興は、当時、山口を本拠地とする西国の勇とされ、都への強烈な憧れを持っていました。都の公家と強いつながりを持っていました。

中国などと貿易をし、お金を作り、公家達と親交を深めていたのです。1508年、都に上洛しており、その翌年に、この源氏物語画帖が発注されています。

須磨に流されるも、帰ってくるとライバルを蹴落とし太政大臣にまでなった光源氏・・・。その姿に自分を照らし合わせていたのです。つまり、武士というパトロンが、天皇に認められる武士としての自らを、源氏絵に投影した画風になっているのです。

この時・・・源氏絵が武士のものになった瞬間でした。

2500枚の時代の振り分けは、平安時代が20枚、鎌倉・室町時代が300枚、安土桃山・江戸時代が2200枚・・・と、9割が武士が書かせたものでした。

信長が、謙信に送り、秀吉は源氏物語で勉強し、家康も講義を受けています。

そうして、源氏物語は江戸時代に入ると徳川家の権威を象徴するものとなります。調度品の蒔絵には、絵として、金銀とともに施され、将軍家の嫁入りの時は、これを必ず持って行ったとされています。将軍家が、王朝文化の正当な系統者となった瞬間でした。

こうして源氏絵は、天皇や公家から、武家のものとなり、徳川家のものとなりました。


また、2500枚の絵の中には、源氏絵の伝統に逆らった絵も存在します。

逆境に立たされた光源氏、烏帽子も装束もとったあからさまな姿、藤壺の出家の瞬間などが書かれている絵です。これは、日本でも議論されているのですが、この絵は、京狩野に良く似ています。京狩野は、もともとは豊臣のお抱えの絵師でしたが、徳川時代に敬遠され、公家のお抱えになっていました。

この絵は、天皇や院、摂関家などの光源氏を超える身分の人でないと、描くことはできません。高貴な身分の人が描かせたと思われるのです。

@絵師は、朝廷とつながりのある京狩野
A光源氏を赤裸々に描かせることのできる位の高い人
Bかつてない大規模の壮大な絵巻を作る力がある

ということから、一介の公家とは考えにくいのです。

そこから、後水尾を中心とするような宮中勢力が考えられます。

この後水尾天皇は、徳川幕府に翻弄された一生でした。禁中並公家諸法度の発布により、天皇の権力が幕府によって統制され、制限されました。天皇にとっては大きな屈辱でした。

圧倒的に強い国家権力・・・。後水尾天皇は、徳川家の一大イベントに参加するため二条城に行幸します。最大の屈辱は、そこで舞ったのは源氏物語の「青海波」だったということ。主催したのは、徳川秀忠でした。

そんな中書かれたこの源氏絵には、上皇となって徳川家に対峙した、上皇の反逆性が表されているのでしょう。

江戸時代には、町人文化として花開きます。
文化文政時代、数多く出版され、「偐紫田舎源氏」が発売、40万部の江戸時代最大のベストセラーとなりました。

また、活劇に仕立て直され、女性の多くは将軍の側室や奥女中に置き換えられ、着物から髪形まで流行となりました。これは、華やかな将軍家への憧れでしょう。

また、前代未聞の「艶柴娯拾余帖」は、偐紫田舎源氏を基にした春画でした。当時の最高水準の絵で、空摺り、金銀も沢山施されていました。

幕末にかけて庶民に浸透しましたが、明治天皇を中心とする近代国家が誕生。源氏絵の排斥運動が始まります。内村鑑三に言わせると、「源氏物語」が、日本の士気を鼓舞するために何をしたか。我々を女らしき意気地なしにした。」のだそうです。

紫式部は罪人である。とまで言われ、海外に流出する源氏絵。

大英博物館にある源氏絵たちは、多くは明治時代、外交官によって持ち帰られたもので、全部で70枚あります。

1925年、アーサー・ウェーリーによって、10年をかけ「英訳源氏物語」が完成します。このお陰で、世界12大小説の一つとして絶賛されます。

20世紀文学にありそうなことは、すでに900年前にあったと、言われ、特に「若菜」の帖が絶賛されています。わが手に抱く子が、自分の子供ではない?という心にさいなまれるという、因果応報を表した帖です。

このことで、日本でも息を吹き返し、昭和13年国語の教科書に載ったのです。

日本語の現代語訳は、谷崎潤一郎によって行われますが、その途中、日中戦争が勃発。天皇家の不義密通をどう訳せばいいのか?そのため重要な部分は割愛し、「骨抜き源氏」と言われることになります。

谷崎自身も本意ではなかったので、1945年太平洋戦争終結後、割愛していた部分を書きたいと出版社に申し入れ、完全なるものとして出版。戦後ブームのきっかけを作ります。

潤一郎訳 源氏物語 (巻1) (中公文庫) [文庫] / 紫式部 (著); 谷崎 潤一郎 (翻訳); 中央公論新社 (刊)

昭和26年には、映画「源氏物語」が、長谷川一夫、音羽信子によって作られました。初めて映画に天皇が登場した映画です。

源氏物語(1951) [DVD] / 長谷川一夫, 木暮実千代, 京マチ子, 乙羽信子 (出演); 吉村公三郎 (監督)

現代の源氏絵・・・マンガにもなります。誰もが知っていますね。

「あさきゆめみし」です。
あさきゆめみし [完全版] (1-10巻 全巻)大和源氏「あさきゆめみし絵巻」 (上下巻 全巻)

これは、1700万部の脅威の売り上げとなっています。

天皇、武士、庶民、時代によって違った形で人々がこの魅力に取り付かれています。


それは、今も昔も人を思う心に変わりはないということなのでしょうね。

そうして今年も、生田斗真主演で映画化されます。

源氏物語 オリジナル・サウンドトラック / 住友紀人 (CD - 2011)源氏物語 千年の謎(生田斗真 主演) [DVD]

色鉛筆で描く大人のぬりえ塾―源氏物語画帖〈1〉 (色鉛筆で描くぬりゑ塾) [大型本] / 中野 幸一 (著); 美術出版社 (刊)色鉛筆で描く大人のぬりえ塾―源氏物語画帖〈2〉 (色鉛筆で描くぬりゑ塾) [大型本] / 中野 幸一 (著); 美術出版社 (刊)

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