2011年11月11日

本能寺の変の謎

BS歴史館。シリーズ激論!戦国の真実。「織田信長・本能寺の変の謎〜常識を揺さぶるミステリー〜」でした。

今から400年前、天下統一を目前にしていた信長が、家臣・明智光秀の謀反によって、壮絶な最期を遂げた事件の真相追及です。

が、資料は乏しく、何故、忠臣光秀は信長を裏切ったのか?未だに様々な解釈がなされています。

日本史最大のミステリーです。

天正10年(1582年)、宿敵甲斐の武田を倒した信長・・・目下の敵は、長宗我部元親・毛利輝元・上杉景勝でした。

5月29日、長宗我部元親制圧のため、京都・本能寺に到着。

最近の発掘調査で、本能寺は寺とはいえ、外堀、強固な石垣があったことがわかりました。が、何故、本能寺に身近な家臣のみで・・・。

光秀はこの時、1万3千の軍隊を率いて、西に向かっているはずでした。
6月2日未明、運命の時が銃声と共に始まります。

信長「これは謀反か!!いかなる者の企てぞ!!」
近習「明智が者と見え申し候」


光秀は、信長最高のエリートであり、最も信頼をしていた男でした。
その明智軍に、取り囲まれ、信長は自らの手によって、本能寺に火を放ちました。49歳の壮絶な生涯でした。

突然の事件であっただけに、何故???という思いが強いのですが・・・

@怨恨説
A野望説
B黒幕説

資料が乏しいため、多くの仮説が生まれています。
上杉・毛利・一向宗・雑賀一族・朝廷・室町幕府・家康・秀吉・・・。
に、疑惑の目が向けられています。

単独犯行説をとるならば、怨恨・野望・恐怖・ノイローゼなどが上げられます。

黒幕関与説ならば、朝廷説・義昭説・本願寺説・イエズス会説・家康説・秀吉説があるでしょう。

暴君である信長、そんな信長に仕えた光秀。

信長が再評価されるのは、明治時代以降、改革者として人気が出ます。が、それ以前は人気はなかったのです。
1990年ぐらいから、いろんな説が出始めます。

朝廷説・・・吉田兼見(京都の公家・神官であり、光秀と親交が会った)が、天正10年に2つ、日記を残しています。このうちのひとつが、本能寺の変以降書かれていないのです。ミステリーの始まりでした。

では、光秀の動機は?死人にくちなし・・・。で、核心を語る人がいなくなってしまいました。
何故、信長を殺したのか・・・。

絶大な信頼を寄せられていた光秀は、新参者でした。「信長公記」には、「丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候」と、光秀の活躍が褒められています。

光秀の人間像は・・・。家中軍法によると、

「自分が瓦礫沈りんの中から、信長に召しだされ、多くの軍勢を与えられたので、粉骨砕身忠節に勤める」と、書かれてあります。

取り立ててくれた信長に、感謝していたのです。

この日付は、天正9年6月2日。本能寺の変は、10年6月2日。
この1年のうちに何があったのでしょうか?

ルイス・フロイスによると、
「好みの合わぬ要件で、信長は怒りをこめ、明智を足蹴にした」と記しています。これは、本能寺の1カ月前、家康の接待時のことです。
この頃の光秀は・・・秀吉との確執が出てきていました。
秀吉の助けに、対毛利の援軍として出陣の命が下っていました。これは、秀吉の傘下に格下げも同然のことでした。

戦果を上げる秀吉。領地を召し上げられた光秀。
光秀は、ノルマを課せられた営業マンのようでした。
天正8年には、佐久間信盛・林道通勝などの信長古参の銃身が粛清され、光秀自身にも、明日はわが身の焦りが生じてきていました。
信長は、天下統一に向けての人事配置、つまり、若返りを始めたのです。
素浪人にされるかもしれない。。。

決定的なことは・・・外交問題でした。
長宗我部元親との間を取り持っていたのが光秀だったのに、信長が元親に対し城の明け渡しを要求。この2人の間で苦しんだ光秀。
本能寺の変の当日は、四国征圧の出兵の直前だったので、2人の間で苦しんだ光秀が下した判断だったのかも?

黒幕説は、近年出てきたものです。
光秀から雑賀衆、土橋平尉にあてた書状には・・・。
クーデターに対し、参加を申し出てくれたことへのお礼が描かれています。
また、
「上意馳走申し付けられて 示し給い快然に候」とあります。この上意とは、足利義昭のことではないか?というのです。足利義満は、光秀のかつての主君でした。天正元年に、京都を追放され、室町幕府は滅亡と言われていますが・・・。将軍は、京都に居ないことがずっと続いていました。亡命している将軍・・・。これが、普通になっていました。

広島の鞆の浦に御所を構え、毛利輝元を副将軍において、打倒信長を目指して幕府を維持していました。鞆の浦には、義昭を推す、反信長同盟(毛利・長宗我部同盟)があったのです。

義昭は、本能寺の11日後、御内書を発しています。
「信長を討ち果たす上は、入洛の儀、急度馳走すべき」=信長を討ち取ったので協力せよ
という内容です。
義昭と光秀が結託していたのでしょうか?

当時の勢力とすれば、信長VS反信長の、二重政権時代でした。

これは、正当性の問題で、信長が作ろうとした国と急進的なものにはついていけない将軍義昭を奉じる国との戦いだったのです。

将軍義昭を報じる国・・・。実現可能性は少なかったものの、室町幕府は滅亡しておらず、義昭の使える冠としての機能はあったかも知れません。

本能寺の変の11日後、山崎で、秀吉と光秀が戦い、光秀は敗走。天正10年6月13日農民の武者狩りで命を落とすのです。

謀反人光秀が、友人細川幽玄宛に遺した手紙には・・・。
我等不慮の儀=思いがけず唐突に・・・とのこっています。

本当に唐突だったのでしょうか?多大なリスクを負ってまで・・・。
当時は、「氏族」を発展させなければ死に絶える」という強迫観念があったと思われます。苦境に立たされている明智一族。まさに、生きるか死ぬか。

真の動機は明らかにはなっていませんが・・・。
本能寺の変には、戦国武将ならではの戦国武将の生き様がちりばめられています。絶頂感の中に生きている人たち。この人たちのことは、長生きしたい、安穏と暮らしたい、呑気に考えている私達にはわからないのかも知れません。

ちなみに、最近発見された大徳寺所蔵「織田信長像」は、絵と下絵には大きな違いがあります。下絵は信長好みの片身替りの派手なもの、口ヒゲも大きく威厳があり、刀も大きいのですが・・・。

着物も、ヒゲも地味なものに。刀は小さく・・・。書き換えさせたのは秀吉でした。秀吉はいつの頃からか信長を疎ましく感じる様になっていました。決して超えることの出来ない畏敬のコンプレックスだったのです。

大阪・岸和田・本徳寺には、かつて逆臣といわれた光秀の肖像画が残っています。
また、滋賀・坂本・西教寺には一族と一緒に祭られています。

歴史とは、勝者のものであり、正と邪を決めたがるものです。

為政者の言うことは正
異論を唱えるものは邪  とされる歴史。

本能寺の変・・・。それは、日本史をゆるがせた戦国の大事件でした。
いつまでも語られるこの事件は、魅力たっぷりに私達を楽しませてくれます。

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posted by ちゃーちゃん at 14:36| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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