2011年10月17日

池上彰の現代史講義

池上彰の現代史講義
〜歴史を知ればニュースがわかる〜です。

この前書いた内容と似ていますが<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...ま、中東情勢は世界にとって大切なお話です。

第六弾〜中東戦争とその後〜です。

今年の1〜2月にアラブの春がありました。

これにより、エジプトでは、タハリール広場でムバラク長期独裁政権に対する反政府デモが起き、これに100万人もの人が参加しました。結果、ムバラク大統領が辞任し、失脚しました。

このきっかけとなったのは、去年の12月チュニジアでした。野菜を路傍で売っていた少年が無許可であったことを理由に警官に殴られ、野菜や果物を没収されます。この時、少年は賄賂を渡せばよかったのです。が、そうはしませんでした。

暴力を受けたと市当局に訴えますが、聞いてもらえません。そして絶望した少年は、焼身自殺を図るのです。これが、ネットで配信されました。

で、この焼身自殺、イスラム世界では衝撃的な出来事でした。まず、
@自殺は絶対にいけないこと。生殺与奪はアラーが決める事なのです。
Aイスラム世界では、死んだ後は世界が終わるまで眠るのです。そうして、世界が終わったら、蘇り「審判」にかけられます。審判で良いと判断されると天国へ、悪いと判断されると地獄へ落ちるのです。が、まず、体が無くなったら天国への道は絶たれます。つまり、復活は出来ないのです。おまけに、地獄では紅蓮の炎に焼かれるのですが、焼かれるそばから肉体は復活し、永遠に焼かれることになるのです。これは、焼身自殺を連想させます。

つまり、この少年の行いは、イスラム世界ではすごい抗議だったのです。

これを機に、反政府運動が盛り上がり、デモVS治安部隊という形になり、ベン・アリー大統領は国外追放されました。

これが、エジプトに広まったのです。

このデモには、ツイッターやフェイスブックが大活躍したと言われていますが、みんな読み書きが出来るわけではありません。勿論、パソコンを使えるのは一部の裕福な人たちです。

ここで登場するのが、アルジャジーラです。このアルジャジーラはカタールの放送局で、どの機関に対しても中立です。中東の国営放送は政府批判は出来ないのが実情です。しかし、アルジャジーラは相手が誰であれ、ビンラディンであっても、中立に自由に放送しています。

これは、衛星放送ですし、アラブ語なので、みんな見ることが出来、ネットの内容が広がり、活動しやすくなったのです。

秋には大統領選挙を控えていますが、ここで、アラブのややこしい問題が出てきます。ムバラクが大統領だった頃、イスラム原理主義者・過激派は、徹底的に弾圧されていました。しかし、今は、反米・アルカイダなど、自由に活動が出来てしまうのです。

今では、穏健派とはいえイスラム原理主義者のムスリム同胞団が、力を持っています。また、その傾向はアラブ世界に広まっているのです。

そう、自由化、民主化は簡単には出来ません。アルジェリアでも、原理主義者が圧勝し、それに慌てた軍が弾圧、つまり、自由な選挙をした結果それを否定する団体が勝つこともあるのです。

その代表的なのが、ナチス・ドイツです。ワイマール体制により、第一次世界大戦後できた共和制で、世界最先端の民主主義を採用したものの、ナチス・ドイツの独裁を産む温床となったのは周知の事実です。

チュニジア。・エジプトと来て、リビア・・・。
リビアは内乱にまで発展し、NATO軍が軍事介入し、多数の死者が出ました。そうして、カダフィ政権が崩壊したのですが、このカダフィ大佐、一番たちが悪く、大統領でもなく何の役職にも就いていないのです。

”大佐”と呼ばれるのは、エジプトで軍事クーデターを起こしたナセルを尊敬しているので、そのとき大佐だったナセルからとったのです。

リビア軍と反政府勢力の戦いにNATO軍は地上部隊は派遣しませんでした。投入しない理由の一つは、イスラムの国にキリスト教の国が入る・・・。十字軍を彷彿させるからだったようです。


で、本題の中東問題とは・・・。勿論、イスラエルとパレスチナの問題です。
パレスチナには2000年前にユダヤの国がありました。ローマ帝国によって滅ぼされ、世界各国に離散します。ヨーロッパではイエス・キリストを十字架にかけた民族として差別を受けます。仕事も、キリスト教では禁止され、さげすまれている金貸しなどになったのです。

が、金貸しは金持ちですよね。また、蔑まれ差別されることになるのです。

第二次世界大戦では、「アーリア人こそすばらしい!!」ということで、ヒトラーに迫害され、アウシュビッツなど収容所に送られたり・・・。毒殺されたり・・・。ヨーロッパでは600万人が殺害されました。

多くの罪の無いユダヤ人が殺されたのです。

どうして自分達がこんな目に遭うんだ!それは、自分達の国が無いからだ!!自分達の国が欲しい!!と、なって・・・。

戦勝国は同情し応援し、どこにする?→2000年前にあったユダヤの王国の場所がいい!!ということで、パレスチナになるのです。

でも、そこにはアラブ人が住んでいます。。。当時パレスチナを統治していたのはイギリスでしたが、イギリスはやっとこ戦争に勝ったところでした。パレスチナでは、イギリスに対するユダヤ人達のテロが起こり、イギリスは余力も無かったので撤退、国連に丸投げしました。

国連は、パレスチナは誰のもの?分けることにしよう!!で、ユダヤ人は国がもらえるので協力的でしたが、アラブ人は協力的ではありませんでした。

なので、1947年パレスチナ分割では、ユダヤ人に有利に仕上がりました。

ここで、大問題がエルサレムです。このエルサレム、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地です。だから、国際管理にしました。

1948年5月14日、テルアビブを首都として、イスラエル建国。ユダヤ人たちは南の砂漠を欲しがりました。そこにはウランがたくさんありました。これが、核開発へと進んでいくのです。

翌日5月15日アラブが攻め込んで、第一次中東戦争勃発です。
これは、イスラエルが勝利します。

ガザ地区はエジプトが、ヨルダン川西岸はヨルダンが支配しました。パレスチナにいたアラブ人は、同じ逃げるならアラブ人の国に!ということで、ガザ地区やヨルダン川西岸に非難します。この人たちをパレスチナ難民というのです。

パレスチナをアラブの国にしたい!!ということで、パレスチナ解放機構(PLO)が出来ます。はじめは穏健でしたが、アラファトが議長になってから戦闘的な機構になっていくのです。
そうしてPLO VS イスラエルの構図が出来ますが、イスラエルの圧倒的な戦力にPLOはテロやゲリラで応戦するしかありませんでした。

エルサレムは東西に分裂し、そこにはグリーンラインが」敷かれたのでした。

1967年6月5日第3次中東戦争勃発。

これは、イスラエル軍の先制攻撃にアラブが壊滅し、6日間で終わります。アラブでは2万1000人の死者が、捕虜は6000人に上りました。

これによってイスラエルは土地を拡張し、パレスチナとシナイ半島、ヨルダン川の水源となるゴラン高原を占領、ガザ地区もヨルダン川西岸も占領しました。

エジプトとしては、スエズ運河のギリギリまでイスラエルが来てしまいました。何とかしなければ・・・。
エジプトは今まで大統領はナセル・サダト・ムバラクの三人です。当時の大統領、サダトは、イスラエルを国家として認めればシナイ半島を返すという「平和と土地の交換」の交渉にサインしようとしますが・・・。サダトのやり方に反発したイスラム過激派に属するエジプト軍中尉によって暗殺されます。1979年3月エジプト・イスラエル平和条約締結されましたが、サダトは、自らが暗殺されることを予期していました。

現在では、ガザ地区・ヨルダン川西岸がパレスチナとなっています。

1993年オスロ合意がありました。このノルウェーは、ノーベル平和賞を決める平和国家として貢献したい、仲介に入りたいと申し出たのです。イスラエルとパレスチナに声をかけ、和平交渉をしました。

でも、調印式の証人はアメリカのホワイトハウスをバックにしたクリントン大統領でした。その後、ラビン首相がユダヤ人に暗殺され、平和交渉は進みません。敵に近寄ろうとすると見方のに背中から撃たれるのです・・・。

パレスチナでは、アラファトにはカリスマ性がありましたが、アッバス議長は実務家であまりカリスマ性がありません。なので、選挙ではハマスが勝ってしまいました。パレスチナではファタハVSハマス(イスラム原理主義者)の対立が起こってしまいました。

2011年5月パレスチナ統一政府の発足に向け、和解案に最終合意。
パレスチナ国家を国連に承認してもらいたいと思っていましたが・・・。先日ニュースになっていましたね。

ここで誤解してはならないのは、イスラム原理主義=過激派ではないということです。

キリスト教原理主義とは、聖書に書かれているのは正しい!!というもので、天地創造は本当で、神が6日間ですべてを作られた。進化論は嘘だ!という考え方で、それを原理主義とするならば、イスラム教が出来たころに帰れという考え方なので、イスラム原理主義といわずにイスラム復興運動と呼んだほうがいいのではないか?と、言われています。

ところでイスラエルの首都はどこでしょう?イスラエルはエルサレムだと主張していますが、各国は認めておらず、テルアビブに大使館を置いています。
このエルサレム、どうなっているかというと、「岩のドーム」と、「嘆きの壁」「聖墳墓教会」となっています。

まず、「嘆きの壁」もともとあったユダヤ人の神殿で、ローマ帝国によって破壊されたものの、残っていた西側の壁のことです。何故嘆きかというと、@朝、壁を見ると、空中にあった水滴が壁についていて泣いているように見える。ユダヤ人の数奇な運命を嘆いて・・・。と、Aユダヤの人々が嘆きにくるからと説があります。

次に「聖墳墓教会」これは、キリストの墓のあった場所とされ、ゴルゴダの丘、その上に建った教会のことです。もともとキリストはユダヤ教で、救世主だと思った人々が信じたのがキリスト教ということになります。

そうして、最後に「岩のドーム」ムハンマドが昇天する旅に出た際に手を着いた岩とされています。その岩をドームが大切に守っているのです。

3つに分けられている聖地エルサレム。世界の殆どの人が信じている、本当は一つだった宗教。皮肉なものですね。。。

今後はパレスチナが国家として認められるかどうか?首都はどこになるのか?エルサレムは誰のものか?誰もが妥協できないでいるのです。


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posted by ちゃーちゃん at 13:55| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幕末。日本外交は弱腰にあらず。

あなたの常識大逆転!
BS歴史館、「幕末・日本外交は弱腰にあらず」〜黒船来航に立ち向かった男たち〜です。

本当に?って、感じですが・・・。
とかく日本は弱腰外交と言われていますが・・・本当なのでしょうか?

1853年6月3日
浦賀沖に黒船が来航します。圧倒的な軍事力を持って。

翌1854年日米和親条約締結、1858年日米修好通商条約締結、これらは日本にとっては恩恵だったというのです。

ペリーは開国に持っていくことは出来ず、日本も要求するところは要求し、話し合うところは話し合い、弱腰外交とは言えなかったのです。

当時の日本は、唯一出島で、オランダと中国のみと外交していました。そこへ、黒船が浦賀に出現、関東が大砲の射程圏内に入るのです。

ペリーは大統領の親書を持っていました。それには・・・

@漂流民の保護
A外国船への燃料や食料の供給
B貿易の開始

が書かれていました。

翌年5月に返答すると定めます。

が、ペリーは1月11日に、しかも船を9隻に増やしてやってきました。
「条約の締結が受け入れられない場合は、戦争になるかもしれない!!当方は、近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意している。これら100隻は20日間で到着する。」ペリーの恫喝外交の始まりでした。

これに応対したのは、昌平坂学問所の塾頭、林大学頭でした。では、何故学者が?これは、禍根を残さないため「学者のしたことだから・・・。」にしたかったようです。

が、この大学頭、死闘を繰り広げます。

2月10日第一回交渉

ペリーは@もAも守っていないので、戦争によって雌雄を決することになる!!と、砲艦外交を始めます。

林は、まず、B貿易の開始については硬く禁じられていると跳ね返します。そして、@Aについては、伝聞の誤りではないか?と、指摘します。

まず、A外国船への燃料や食料の供給は・・・。「異国船打払令」は11年前に廃止しています。代わって「薪水給与令」を出し、外国船に燃料や水の給与を認め、穏便に出国させる法令をつくっています。と、説明しました。この、異国船打払令、廃止した要因は、中国がアヘン戦争でボロボロになったのを見て、二の舞になることは避けるため、廃止していたものでした。

そしてB、漂流船の人を罪人同様に扱っているというのは・・・。
1848年、ラゴダ事件がありました。これは、漂流していたアメリカ人が、アメリカ人同士で殺人に及んだ結果、保護のためやむなく投獄したというものでした。

これを取り出し、やむなく投獄したことはありますが、非道な政治ではなく、貴国と戦争に及ぶ理由はひとつもない!!と、事実に基づいた確かな反論をするのです。

そして、これ以上言うことはないと、ペリーの脅し、恫喝に屈せず論破しました。今でもアメリカは、世界で恫喝外交をしていますが・・・これに対抗したのです。

ちなみにこの林家、江戸時代に外交文書を司っている家でした。バタビアから幕府に提供された世界情勢の報告書であるオランダ別段風説書を持っており、ペリーのことは何もかも調べ上げていたようです。

つまり、私達が思っているほど、世界情勢に対して疎くはなく・・・それは、日本としてはロシアの恐怖を感じていたからです。

ペリーまでの50年間は、日本に外国船がやってくることはしばしばで、突然のことではないのです。

で、第二ラウンド、交易については・・・。
日本にメリットがある!!外貨を稼げる!!と、アメリカは説得しますが、これも「自国の産物で十分に足りている!国法を直ちに廃することは出来ない」と、跳ね返します。

これには切実な問題がありました。。。
1840年〜42年アヘン戦争がありました。このきっかけは交易でした。交易からアヘンが入ってきたのです。中国、当時の清は、イギリスの圧倒的勢力に負け、南京条約を結び、香港を割譲することになるのです。

このようなことは、最も避けなければなりません。

これは、アメリカが@で使った、人命の尊重を逆手に取り、「第一に人命の尊重と申された。開港は人命尊重とは関係ない」と、またもや論破するのです。

2月19日第二回交渉

ここでアメリカは、長崎だけでは不便だと、開港地を要求します。これは、交易に繋がる作戦でした。これに対し日本は、だというなら、何故、親書に記さなかったのか?当方は長崎だけで、何の異論もないと思っていた。と、反論します。これ以降、交渉は林のペースになっていくのです。

2月26日第三回交渉

南は下田、北は箱館の2箇所にしてください。と、日本が申し出ます。
これは、もともと長崎一港主義でしたが、ペリーに花を持たせたのです。

2月30日

アメリカが、「港から四方へ10里は自由に行動したい」と、言ってきます。これに対し、「薪や水の供給だけならそんなに遠方まで行く理由が見当たらない。」と反論し、遊歩地は、7里の内となります。これは、林の計算でもありました。天城峠より北へは上がれないからです。なるべく日本人との接触を防ぎ、日本を守ろうとしたのです。

1854年3月3日日米和親条約締結。厳しく交易を制限するものでした。この時点では、まだ日本は開国しておらず、通商を押し返して和親の状態に止めたということで、外交上は成功。孝明天皇もお慶びになったのです。

ペリーは後に言っています。日本人がひとたび文明開化の技能を手に入れれば、強力なライバルになるだろう。と。

ペリーは日本を甘く見て、条約の専門家を連れてきていませんでした。アヘン戦争後、清と米が結んだ不平等条約であるワンシア条約をそのまま持ってきてしまっていたのです。これに、反抗できたのは、日本の目が世界に向いていたことと、日本の教育・文化が高かったことが上げられます。

では、何故和親条約が不平等条約として扱われているのか・・・。それは、和親条約と通商条約がごちゃごちゃになっているからです。

幕末の歴史は、薩長が書いたもの・・・。本当のエリートは幕臣であったなどとは書かないのです。


1856年7月21日ハリスがアメリカの領事として下田に到着します。
これは、和親条約第11条に「合衆国官吏のもの、下田に差置候儀も可有之。」という条文があり、アメリカがこれに目をつけたのです。
日本は「両国が必要とするならば・・・」と解釈していましたが、アメリカはこれを、「どちらか一方が必要とするならば・・・」と、自分達に都合のいい解釈をしたのです。そして日本が今、いかに危ないかを説くのです。

1856年清でアロー戦争勃発、次は日本が狙われていました。
ハリスはアメリカとの貿易を望みます。
「私のように和平の使者としてやってきた人間の公正な希望を聞き入れるか、イギリスの武力による不当な圧力に屈するか!!今や問題は、いかなる形で貿易を始めるかだ!」と迫るのです。

対応したのは目付岩瀬忠震。外国奉行のエリートでした。この人は、ハリスと並ぶ開国の仕掛け人です。海防掛という幕府が設置した海外問題を処理する職務についていました。ちなみに林大学頭は叔父に当たります。

この時、幕府でも危機感は感じてはいましたが、意見は分かれていました。
攘夷派VS開明派(中心が岩瀬)
岩瀬は、今の日本の軍事力では、とても欧米列強にはかなわない、一刻も早く開国して、アヘンを自由に売らせないためにも居留地を作り、将来に備えなければならない。と、思っていました。

彼のビジョンは、年貢よりも地方特産物の輸出、蝦夷地の開墾、横浜を開港しての貿易でした。

当時政府は江戸でしたが、経済的富の7〜8割を大坂に持っていかれていたというのが現状でした。岩瀬は貿易の利益を江戸に集中させようとしたのです。

では、何故横浜?紛争を防ぐため、西洋人を一定の区画に閉じ込めておこうとし、横浜を巨大な出島にしようとしていました。

1857年10月14日ハリス江戸に到着、条約草案を提示します。

しかし、日米の思惑は全くかけ離れていました。
アメリカは、大坂など8箇所の開港と京都などでの自由貿易を要求してきました。

交渉が開始されました。
「日本は国が小さいので、3港以上は開かないことに決めました。その代わり大きな港を提供しよう。その港に満足がいったなら、また開港したい。」と、日本が申し入れますが、ハリスの狙いは大坂でした。商業の中心地で大きな自由貿易がしたかったのです。

当時攘夷運動が盛んに行われていました。京都が拠点となり、流血事件も日常茶飯事でした。だから、外国人は京都・大坂には入れられない!!京都の市場開放と大坂の開港は、謀反へと繋がりかねませんでした。
御所と伊勢神宮は守らなければなりませんでした。

岩瀬は「もし、貴下の大統領が日本の親切な友人であるなら、無秩序と流血をもたらすようなことを主張できるはずが無い」と、譲りませんでした。

ハリスは京都を断念。しかし、大坂は商いに最も適しているから譲れない!日本の国益にもなると、主張します。

ここで岩瀬は攘夷運動を逆手に取り「内乱が起こるのは外国との戦争より恐ろしい。内乱をするなら外国と戦争するほうがましだ!」と、突っぱねるのです。

そして、日米修好通商条約全14条が出来ました。
岩瀬とハリスは条約の内容を現実的なところに落とし、ほぼ岩瀬のプラン通りになりました。しかし、これは日本の制度全体を変える大きな出来事でした。

開港地は横浜・長崎・新潟・兵庫(大坂が駄目だから・・・。)箱館になりました。後に不平等条約といわれるこの条約、理由は

領事裁判権の容認と、関税自主権の喪失が大きな理由ですが、岩瀬は十分対処できると思っていました。

領事裁判権は居留地だけの話だし、関税自主権の喪失は、当時は20%もあったので、不利ではなかったのです。

ハリスは後に「岩瀬は機敏で反論が上手でした。私は答弁に苦しんだばかりでなく、岩瀬に論破されてしまい修正せざるを得なかった条項が多かった。」と言っています。

あとは調印のみ!しかし、徳川斉昭ら攘夷派が反発、岩瀬は調印の勅許を受けるため京都へ赴きます。

1858年1月25日上洛、孝明天皇に謁見するも、貿易に反対する公家が天皇に進言しており、勅許が下りなかったのです。岩瀬の目論見が外れた瞬間でした。

井伊直弼は、勅許が無ければ開国しないと決定します。が、激しく調印を迫るハリス。

そこにアロー戦争の最新情報が入ります。英仏艦隊来航情報がもたらされるのです。このままでは、通商条約は不利な条約になってしまう!!今までの苦労が水の泡になってしまう!!岩瀬はハリスに「調印したら英仏の間に入ってほしい」と、誓約書を書かせ、井伊直弼の「止む終えない場合は調印してもいい」という言葉にすがるように

1858年6月19日勅許なしに調印。
しかし、9月5日井伊直弼によって左遷後永蟄居処分となるのです。

この後、安政の大獄→開国の一途をたどるのですが・・・。
1861年7月11日岩瀬忠震失意のうちに死去、享年44歳。
1862年生麦事件
1863年薩英戦争 と、攘夷に拍車がかかっていきます。
1863〜64年下関戦争
1866年関税誓約書調印
     関税20%から5%に引き下げ
この結果、日米修好通商条約は不平等な条約になってしまったのです。

岩瀬は無断調印をし、その後混乱したが、アジアで植民地化されなかったのは日本だけでした。日本の将来を考えた上での調印で、評価に値します。

では、何故勅許が下りなかったのか?当時はかなりの情報格差があり、天皇も薩長もこの情報を持っておらず、世界の情報は幕府のエリートたちが持っていたからでした。

岩瀬の甘かったところは、外国のことは解っていたが、日本のことは天皇が何を考えているかがわかっていなかったということでした。

岩瀬は左遷、幽閉され、名前もあまり知られていませんが、彼の作った
講部所は陸軍に、海軍伝習所は海軍に、アメリカに勝海舟ら人材を派遣したその人でした。

この通り、幕末外交は弱腰ではありませんでした。
彼らは(決)断と(見)識のあったのです。

幕末はお金も国力も軍事力もありませんでしたが、人材がいました。そして、この人たちが明治維新へと繋がっていくのです。

やはり、勝てば官軍ですね・・・。岩瀬が蟄居した理由も攘夷だし、苦労した条約も、不平等にしたのは薩長だったのかしら?と、思うとやはり歴史は後世の人間の作ったものだから、今は明治政府の良いように書かれているのでしょうね。

あのままの条約でいたら、日本はどうなっていたのかな・・・。
そしていつも思うのです。誰が一番ずるいかって、どう考えても公家でしょう!!と。色々画策するのに自分では手は汚さないなんて・・・。(天皇ではないのよ)


ああ、頭が痛いですね。
100年経たないと、そのときの政治がどうであったか判断は難しい。と、言いますが、今日の政治は100年後の人たちにはどう評価されるのかな・・・。<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...

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