2011年10月07日

徳川綱吉は名君だった?

あなたの常識大逆転!
BS歴史館です。

”お犬様”騒動に隠された真実〜徳川綱吉は名君だった?〜

最近よく聞きますね。名君だったって・・・。

五代将軍綱吉と言えば、「生類憐みの令」「犬公方」「犬将軍」で有名です。この生類憐みの令、何十万人を苦しめた、天下の悪法といわれています。それと共に、綱吉には暗君のイメージが付いて回るのですが・・・。

綱吉は社会の大改革を行った人でした。日本人の意識改革をしようとした人で、これだけ虚像と実像の違う人はいないのです。

本当に、常軌を逸した暗君だったのでしょうか?それとも時代の先を行く名君だったのでしょうか?

今から300年前の元禄時代、東京・中野に日本史上最大の犬飼育施設がありました。雨をしのぐ寝床と食事を貰い、ぬくぬくと生活をしていたのは犬でした。

そんな時代を作ったのが生類憐みの令。では、実際にどんな法律だったのでしょうか?

1685年「将軍が御成りの道筋に
      犬猫が出てきてもかまわない
      今後はつなぎおかなくて良い」

1692年「子犬は人や馬に踏まれぬよう小屋に入れておくこと」

1694年「犬は捨ててはならない
      捨て犬を見つけたものは養育すること」

と、こころ優しいものでした。
が、それが・・・。

     「犬を傷つけたものを見たら見逃さず捕まえること」
     「犬を傷つけるものを見逃したら町中全員を罰する」

1695年「捨て犬・殺犬の密告をしたものには褒美を約束する」

となっていきます。
つまり、ひとつの法律ではなく、25年にわたり、130あまりを読み習わしたものなのです。これは綱吉が死ぬまで、エスカレートしながら続いていきます。

これは、犬のみではなく、魚釣り、鳥の確保の禁止、どじょう、うなぎの販売禁止、虫の飼育禁止、これに違反した場合・・・死罪や流罪になった人もいるのです。

では、この生類憐みの令、本当に悪法なのでしょうか?

当時綱吉に謁見したドイツ人・ケンペルの記録によると・・・。
「今、この国を統治している徳川綱吉は、卓越した主君である。彼の元で全国民が完全に調和して生活している。生活習慣や芸術・道徳の点で、他のあらゆる国の人々を凌駕している。」としています。

それには生類憐みの令が出来た当時の社会的背景が関係してくるのです。

当時は犬が問題になっていました。江戸には人口が集中すると同時に、野犬も増え、女・子供・老人・家畜が襲われていたのです。

この問題に対処するべく綱吉は、動物の登録を行うことにしました。犬・猫・牛・馬などの生き物を保護したのです。ちなみに世界では、ニューヨークが19世紀に入って行っています。

こんな法律もあります。
1687年「宿で人や牛馬が重病になると、まだ命があるのに捨てる者がいると聞く。厳しく処罰するように」と。

つまり、こんなことが日常茶飯に行われていました。
他にも、捨て子や間引きの禁止、7歳以下の子供の氏名を記録、妊婦も登録させ、幼い命を守ろうとしたのです。

おまけに、罪人の劣悪な環境を変え、建物の風通しを良くし、月5回の入浴をさせました。

弱者に対する憐みの令、福祉の社会を作ろうとしたのでしょうか?

最近では、生類憐みの令の一番初めの法律は、

1682年「忠孝に励み、夫婦、兄弟、親戚が仲良くし、召使いまで憐れみなさい」だと言われています。本来の目的としての”人”も、もちろん入っているのです。

1680年に綱吉は将軍に就任しますが、当時は「切り捨て御免」の殺伐とした時代でした。斬れないと、意気地がないと思われた時代だったのです。
それは農村でも同じで、農作物も盗むと殺されました。これが当たり前の世の中だったのです。

これを変えなければ!!生きとし生けるものを大切にする!ということで、先進的な登録制度や鉄砲と武器の登録も行いました。国家による「暴力」と「生命」の徹底した管理をしようとしたのです。

これは、地球上類を見ない試みでした。

1683年「武家諸法度」を改正。
     ”文武弓馬の道 専らあい嗜むべき事”→”文武忠孝を励まし 礼儀を正すべきこと”と修正しました。

「切り捨て御免」の容赦ない世界、武士のあり方に大きな変化を、武士達の意識改革を求めたのです。つまり、武士を”社会の支配者・戦士”から”平民の召使い・官僚”に改革しようとしたのです。

当時、戦場で戦えない武士は、目標を失っていました。たむろして、人を斬ったり、犬を斬って食べたり・・・。それを、虫も殺さない人へ・・・。
武断政治から文治政治への改革でした。

各地の代官のふとどきな者、8割を更迭し、交代させます。また、落ち度のあった大名は、改易、減封にしました。

中央集権を推進し、幕府内部も改革し始めました。4代将軍の時は、30年間病弱な将軍をしっかりとした老中が守ってきていましたが、お飾りの将軍は止め、能力のある者を側用人として使い、老中を遠ざけ、強い将軍と有能な官僚のトップダウンの政治を実現!。優秀な官僚による能力主義の世界の始まりでした。

この優秀な官僚制度のおかげで、明治維新ではアジアの中でいち早く近代化が出来たと思われます。

国家経営の価値観は文化です。人命尊重を基本においた綱吉は、安心して暮らせる社会を実現させました。平和になり、女・子供が安心して外出できる、買い物に行ったり、芝居を見たり出来る時代、これが元禄文化を花開かせたのです。

ところでこの綱吉、1646年1月8日家光の四男として誕生します。四男ということもあり、跡を継げるわけでもなく、しかし聡明だったので学問に勤しみました。それは家来に講義もする程でした。

図らずも?35歳の時に将軍となります。

学問や芸術を愛した綱吉は、人の命も動物の命も大切にしましたが、困った面がありました。優しい反面、神経質で、妥協の許せない几帳面な人だったのです。

その妥協は許さない精神が・・・。野犬は増えるばかり、中野の大屋敷の年間経費は9万8000両、当時の幕府の収入の8分の1にまで膨れ上がっていました。

生類憐みの令の理想と現実。高い理想を掲げ、社会改革を目指した綱吉。就任して22年、その矛盾を突き付けられる事件が起こります。

元禄15年12月14日元禄赤穂事件、後の忠臣蔵です。

殿中で刀を抜いた浅野内匠頭は即日切腹、その一年後、大石内蔵助率いる47士が吉良上野介を討ち、主君の無念を晴らすのです。

武士としての忠義⇔大規模な殺し合い

世間ではこんな落書きが出回ります。
「たのもしや 内匠の家に内蔵ありて 武士の鏡を取り出しけり」

武士の鏡が天下泰平の世の中に現れてしまったのです。

赤穂浪士は犯罪者?忠義者?迷った綱吉は世間との中和策として武士の顔を立てて切腹を申し付けます。これは、武士としての名誉、誇りを守る一方で、処罰はする、という世論とのぎりぎりの妥協でした。

この赤穂浪士、よくよく考えてみるとテロです。わざわざ47年後の大坂で、人形浄瑠璃として「仮名手本忠臣蔵」が上演され、赤穂浪士人気に火がつき、赤穂浪士が正しくなり・・・そうなると綱吉は悪となってしまうのです。

その年、元禄16年11月22日元禄大地震(M8.2)、巨大な地震が起こります。

これは、綱吉が最も恐れていたもの、天変地異でした。

綱吉の考え方は「天けん論」で、天災は、天が人を戒める罰だとする考え方です。四男が、めぐりめぐって将軍となった・・・。「自らの政治」を顧みて、中野犬屋敷の資金を被災した人々の復興にまわしました。

宝永4年10月宝永地震これでは、津波が押し寄せ、埋め立て計画、ウォーターフロント計画が断念し、経済成長が止まってしまいます。

また、その年の11月富士山の大噴火。

世間にも天からも見放され、宝永6年(1709年)1月10日死去。享年64歳でした。

ちなみにこの法律、6代将軍家宣で殆ど廃止されます。が、

「もう取り締まりは行わないが、憐れむものはきちんと憐れむように」としています。

綱吉とは、生きとし生けるものを大切にし、争いをなくし、天下泰平の世の中を作った人でした。綱吉が、日本人を変えたのは間違いなく、明治時代にきた外国人は、日本人社会は、銃もなく、殺伐性がなく、良い人で、優しい人だと思ったと言います。

改革をするためには3つの壁があるそうです。

@物理的な壁
A制度の壁
B意識の壁

あえてそこに挑戦した、名君となれたかもしれない人。かれは早く生まれすぎたのかも知れません。

少し先を行くのは「偉人」先を行き過ぎると「奇人」


歴史は本当にいろんな見方がありますね。

その時代、自分を正義として生きている人は皆さんカッコいいです。


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ラベル:綱吉  お犬様
posted by ちゃーちゃん at 10:48| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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