2011年10月21日

池上彰の現代史講義 池上彰の現代史講義 

池上彰の現代史講義
〜歴史を知ればニュースがわかる〜

「キューバ危機と核開発競争」です。

なかなか前へ進みませんが・・・。

これは、キューバ危機と今に繋がる核開発競争についてでした。

これは、世界が核戦争の脅威に晒され、核戦争の寸前まで言った事件です。

現在、アメリカとキューバは仲が良くありません。なのに、アメリカ軍・キューバにグァンタナモ基地があります。不思議なことですが・・・。

このグァンタナモ基地、最近大きなニュースとなりました。アフガニスタンのタリバンや、アルカイダ、テロの容疑者、多くの捕虜をここで尋問していたのです。

何故ここか?アメリカ国内では、被告の人権が守られないといけないので、国内法が適用され、弁護士がつかなければなりません。が、これは、アメリカには都合が悪かったのです。

2001.9.11以降、アルカイダやテロの容疑者を次々に捕まえ、ここで尋問しました。拷問などは出来ないという建前でしたが、アメリカ人ではなく、エジプトなどに引き渡していたのです。

オサマ・ビンラディンのアジトも、ここで捕虜が自白し、証言に基づいて探し出したのです。想像の域を出ませんが、体に痕の残らない、24時間水攻め、24時間明るい、24時間大音響のロック、と、精神を拷問したのかも知れません。

オバマ大統領は立候補した時、このグァンタナモ基地を閉鎖しようとしましたが、国内では「このテロリスト達はどこに行けばいいのか・・・」釈放には出来ない。。。結論の出ないまま、捕虜は今でも拘留されています。

1962年10月、キューバ危機が起こります。
アメリカはキューバを領空侵犯し、高高度を偵察機が飛んでいました。そこで撮った写真には、ミサイル基地の建設が行われていました。

調べると、それはソ連の核ミサイルでした。ソ連がキューバに核ミサイルを持ち込んで、アメリカを狙って、基地を作っていたのです。

当時はフルシチョフが大統領でした。60発のミサイルを持ち込もうとしていたのです。では、それは何故でしょう?

当時はソ連もアメリカも、核ミサイルを遠くまで飛ばすことは出来ませんでした。キューバに配置すると、アメリカの西半分は破壊できます。

アメリカはトルコにソ連を狙った核ミサイル基地を作っていました。お互い様のことでしたが、アメリカは凄く危機感を持っていたのです。

まだ基地は出来ておらず、ソ連が輸送船で物資を運んでいる最中でした。
ケネディはこれをアメリカ軍による海上封鎖をします。実力で物資の搬入を阻止しようとしたのです。

1962年10月22日ケネディが発表します。「ソ連軍の動向を監視していたところ、この数日間、核ミサイルの発射準備を進めていることがわかった。」と。輸送船がアメリカ軍を突破して進んだら、アメリカがこれを撃沈するだろう。

そうなるとソ連から核ミサイルが富んでくる!!全面戦争に発展するかもしれない!!東ドイツ軍やソ連軍が西ベルリンにあるアメリカ軍基地に進入するかもしれない!!

核戦争が始まるかもしれない!!と、臨戦態勢に入るのです。

アメリカでは作戦が練られます。キューバの基地を上空から爆破?それとも、上陸して占領?。キューバでも総動員令が出され、市民25万人が民兵として参加しました。みんなが戦争の準備を始めたのです。

10月27日には、アメリカの偵察機がキューバ上空でソ連のミサイルに撃墜されます。緊張はますます高まります。

いよいよ核戦争?

アメリカでは核シェルターが飛ぶように売れます。いつ核戦争が始まるかわからない。日本も、米軍基地があるので、標的になる可能性もありました。
地球が滅亡するかも・・・。

ちなみに、ソ連崩壊後、ロシアはエリツィン大統領の時、橋本総理に「日本をロシアの標的からはずす」ことを約束します。それまでは、ミサイルがこちらを向いていたということでした。

ケネディの強行策が功を奏してソ連の貨物船がUターン、引き上げます。映画「13デイズ」には苦悩の有様が描かれています。

実はこれには裏取引があり、もし帰ってくれるなら「トルコのミサイルは撤去する」という密約がなされていました。

では、キューバはどうしてアメリカと関係が悪かったのでしょうか?
19世紀のこと、キューバはもともとスペインの植民地でした。独立運動が盛んになり、アメリカはこれを支援、米西戦争の始まりでした。これにアメリカが勝ち、フィリピンとグアム島がアメリカの植民地となります。

キューバは独立しました。
その時に出来たのが、グァンタナモ基地です。

出来たのはバチスタ政権、独裁政権でした。
アメリカの企業がたくさん入り、石油会社も入り、アメリカとキューバは密接な関係になりました。

このバチスタ政権を倒そうと立ち上がったのが”フィデル・カストロ”なのです。

1953年7月、新しい国を作ろうと、1000人いるモンガタ兵営を、百数十人で襲撃、人数的にも上手くいくわけがありません。これに失敗し、多くの仲間が殺されます。カストロは捕まり、刑務所へ・・・。ドンキホーテのようでした。

カストロは後に恩赦によってメキシコに逃れます。
亡命先のメキシコで、仲間を募り、再びキューバへ・・・。
195612月、8人乗りのヨットに82人が乗って、再びキューバにあるラス・コロラーダスを目指します。

馬鹿なことに、メキシコで、宣言してから出発したので、待ち構えていたバチスタ政権に攻撃され70人が死亡します。この発表は、発表すれば国内にいる反対勢力が立ち上がってくれるのではないか?と、期待していたからでした。

キューバ革命は、逃げ込んだ山の中から、たった12人で始まります。戦ったバチスタ政権の捕虜は、殺さずに武装解除するのみ、釈放しました。カストロのカリスマ性に、ミイラ取りがミイラになり、また、国民も立ち上がり・・・。見る見るうちにカストロの信者ができていきました。

1959年1月1日、バチスタが国外に亡命。32歳という若さで革命を成功させます。カストロは首都ハバマへ・・・。

カストロの人気は今でも高いですが、「団結した人民に対しては、いかなる人間も勝つことは出来ない」と演説し、首相に就任します。

そしてカストロは、アメリカが経営していた石油会社を国有化します。これに怒ったアメリカは、砂糖の輸入を禁止。そうするとサトウキビ工場も国有化しました。

それに怒ったアメリカは、経済制裁を始めます。これが、関係が悪化していくはじめでした。

キューバの産業は砂糖です。砂糖のみが輸出資源でした。
そんな中、ソ連が手を差し伸べてくれます。砂糖を高い値段で買ってくれることになったのです。カストロは共産主義ではなかったが、ここからソ連よりになっていくのです。国が社会主義化し始めると、困るのはアメリカでした。

そしてCIAが登場します。キューバから亡命した人1500人を軍事訓練し、キューバ人自らキューバを解放するためピックス湾から上陸させますが、キューバ軍が待ち伏せしていて壊滅させられます。これがピッグス湾事件です。

作戦はあえなく失敗。このことはケネディは知らなかったとされています。
NYタイムズはこれを1週間前にキャッチしていました。しかし、これを記事にすることは、国益を損なうことになる、と新聞に書くのを見合わせていました。

ケネディは言ったと言います。「NYタイムズが書いていてくれれば・・・。」と。
この時から、NYタイムズはアメリカ政府に都合が悪くても報道するようになりました。目先の利益ではなく、長期的な国民の利益に繋がるように。

キューバでは、カストロの地盤が固まり始めます。
CIAは、カストロを恨んでいて、今後、カストロ暗殺計画が何度も繰り返されることになるのです。葉巻に毒を・・・。とか、ラジオの生放送中に神経ガスで錯乱させるとか。

これは、カーター政権で明らかになります。カーターはCIAに、海外で暗殺してはいけないと命令を出します。この後、クリントンになって、オサマ・ビンラディンを見つけ、暗殺してもいいのか?大統領に伺いをたてているうちに姿を見失い・・・。9.11に繋がってしまいます。

ブッシュ政権が大統領が命令すれば暗殺してもいい、と新しい命令を出しました。
ちなみに、ロシアでも、大統領命令があれば暗殺できます。
イスラエルにも、モサドという暗殺グループがあり、暗殺計画は首相命令で実行されます。

キューバの社会主義は、楽園と言われています。捕まっても処刑はしません。逃げてもいいのです。社会主義に中ではかわっています。
1960年代、世界の若者、日本の若者が憧れます。

1970年に起こった、日本航空よど号ハイジャック事件で、赤軍派は平壌に亡命しましたが、本当はキューバに行きたかったのでした。

現在のキューバでは、医療制度が徹底的に完備されており、医者や看護婦はたくさんいます。経済的には発途上なのに、乳児死亡率はかなり低く、アメリカのほうがはるかに高いのです。

医療は世界トップレベルで、最近ではベネズエラの大統領が、キューバでがんの治療をしています。

経済状況は良くありませんでしたが、ソ連の全面的なサポートの下、理想の社会主義国家となったのです。が、ソ連は崩壊・・・。

キューバも崩壊の危機に陥ります。アメリカからまだ経済制裁されていました。物資も乏しく、農業も有機農法で涙ぐましい努力をし、食糧不足を解消するため、農業を建て直しを図っています。

カストロは、体の不調から2008年引退、今は弟のラウル・カストロが議長を勤めていますが、ラウルは実務派・・・。指導力は未知数です。

カストロは本当にカリスマ性があり、絶頂期には1月1日の革命記念日には5時間〜7時間も演説し続けたと言われています。

最近のキューバは、資本主義化、自由化が進み、中国やベトナムのようになってきています。

話は核開発へ・・・。
アメリカ、ソ連は核開発競争を始めます。相手の国まで届くようなミサイルを!!と、開発されたのが、ICBM=大陸間弾道ミサイルでした。ユーラシア大陸⇔アメリカ大陸が、ミサイルで結ばれたのです。また、この発射基地をたたくためのミサイル基地が作られ、基地だと狙われるので、トラックの荷台に乗せて撃つミサイルが出来ます。

地下トンネルを作り、発射口からミサイルが撃てるようになったり、爆撃機に積んで24時間常に上空から狙っている時代でした。

1946年ビキニ環礁ではアメリカの核実験が行われました。アメリカとソ連は、冷戦時代に入り、核兵器の威力を競うことになります。

地上からだと見つかるので、原子力潜水艦を開発、この原子力潜水艦は、水も空気も潜水艦の中で電気分解して作ることが出来るので、食料さえあれば、永遠に潜っていられるものでした。
海の中で、追跡し続けます。

今は、中国とアメリカが、東シナ海、日本の近海で、追いかけっこをしています。

しかし、この追いかけっこ、事故もしばしばありました。このことをブロークン・アローと呼びます。世界中でありましたが、日本では1965年、ベトナムから横須賀に向かっていた空母タイコンデロガに搭載されていた戦闘機の水爆が、沖縄の深海に眠っています。

後に民主党政権になって持ち込まれていたことが暴露されましたが、当時日本は非核三原則を謳っていました。

この冷戦以外にも、イギリス、フランス、中国が、実に2000回以上の実権を行っていました。世界中で放射性物質が撒き散らされ、中国の土地も汚染、きっと日本にも降り注いだことでしょう。池上さんも言っていました。私も覚えています。「雨に降られるとはげるよ」と、言われました。どれだけ日本に降り注いだのかは良くは解っていません。

2009年プラハでオバマ大統領が「核兵器の無い世界」を目指すことを表明。
2010年4月、日露核軍縮条約調印。これによって、戦略核兵器配備数を1550発に制限することになりました。最高時は、1万発以上は持っていたといいます。

現在では、インド・パキスタン・北朝鮮・中国・イスラエル・英・仏が持っているとされています。

核を話す時、「核抑止力」という言葉が出てきます。
一旦使ってしまうと勝者はいない、全滅する→戦争にはならないと言うもので、別名、相互確証破壊=MADと言われます。

キューバ危機は過去の歴史ですが、今も核の脅威は変わっていません。

前に、エコプロジェクトという番組で、キューバを紹介していました。本当に、物資が無いから、本当に物を大切にし、使えなくなったものは分解して部品にして使うとか・・・。見習わなければいけないところがたくさんありました。

ああ、怖いです・・・。
北朝鮮や中国のミサイルは、勿論日本に向いているのでしょうね・・・。(TmT)

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


posted by ちゃーちゃん at 12:00| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月19日

池上彰の現代史講義

池上彰の現代史講義
〜歴史を知ればニュースがわかる〜第八弾です。

ああ、本当に、ベルリンの壁崩壊も、ベトナム戦争もビデオに撮り忘れてしまいました。。。(TmT)本当にショックです。

ということで、今回は第八弾、「カンボジアの悲劇です。

では、カンボジアの悲劇とは?

ベトナム戦争が関係しています。ああ、だからこそ見たかったのに・・・。
1960年〜75年にかけて、ベトナム戦争がありました。北ベトナムと南ベトナムで内戦をしていたのです。その戦争は、共産化しようとするベトナム(北ベトナム)に対して、アメリカが南ベトナム政府を樹立し戦いが始まったものです。

が、南ベトナムを支援するアメリカに対し、ベトコンが対立していました。北ベトナムからベトコンに対してホーチミンルートを使って救援物資が運ばれていました。このホーチミンルート、なんとカンボジアの中を通っていました。
アメリカとベトコンは対立しているのだから、当たり前ですがアメリカはこのルートを破壊します。当時はシアヌーク殿下が治めていましたが、カンボジアはベトナムとタイに囲まれた小さな国・・・。カンボジアがベトナム戦争に巻き込まれないように中立、どちらも見てみぬふりをしたのです。

このことがアメリカの怒りを買います。「ホーチミンルートを使っての支援物資の援助はカンボジアの中を通っている!これはカンボジアが何とかしてとめるべきだ!!シアヌーク殿下には任せておけない!!」として、1970年シアヌーク殿下がモスクワを訪問中にロン・ノル首相によるクーデターが起きます。これは、CIAの支援を受けて行ったものでした。

この政権は、アメリカにとって都合の良い政策をとります。これが20年間戦火に見舞われる結果となるのです。

シアヌーク殿下はカンボジアに帰れなくなり、中国・北京からロン・ノル政権と戦うことになってしまうのです。中立だったのに、中国・ソ連などの共産主義と手を組むようになってしまったのです。

ベトナム戦争からアメリカが撤退していく中、カンボジアでは内戦が始まります。シアヌークがカンプチア民族統一戦線=クメール・ルージュ(実態はカンボジア共産党)を指揮、内戦がはじまるのです。

1975年4月17日クメール・ルージュが中心となってカンボジアを統一、その代表が悪名高いポル・ポトなのです。

ポル・ポトの下プノンペンに入り、カンボジアを支配します。ロン・ノル政権の崩壊です。
が、翌日から世界を震撼させます。ポル・ポトが実権を握ったカンボジアに平和は訪れなかったのです。

まず、政府マスコミ関係者は殺害、プノンペン市民200万人を追放し、農村に強制移住させます。勿論抵抗した人は全て殺されます。このポル・ポトの政策は原始共産制と言われます。生産性の低い原始時代には、自給自足の極めて平等な社会が存在したという考えです。
この理想を実現しようとしたのです。

人々を
旧住民・・・クメール・ルージュ
新住民・・・都市から来た人

にわけ、クメール・ルージュさえよければいいと考えます。
また、紙幣の廃止・・・お金で物を買う必要は無い
   宗教の禁止・・・共産主義の考え方で、アンコールワットなど仏寺を破壊、僧を殺害しました。

肉体労働こそすばらしく、共同農場で働かせました。
学校や病院も廃止し、子供は国家が育てるとして、5歳で親から引き離され、ポル・ポトの言いなりの人間を大量生産していきました。
知識人は敵である、必要なしとし、抹殺計画を立て70〜80年代にかけて殺害していきます。その中には眼鏡をかけていたからという理由もありました。
その結果、カンボジアでは40代、50代、60代の人材がすっぽりと抜けているのです。

それは解放された後のインテリ層でもカンボジアを地図で示せないほどでした。読み書きの出来ない人達ばかりになってしまったのです。

何人死んだのかはデータが無いのでわかりませんが、当時の人口は600万、少なくとも100万人〜300万人の人が殺害されたと言われています。

クメール・ルージュはシアヌークが始めたものでしたが、シアヌーク殿下は帰国と同時に王宮に幽閉されてしまいます。

今はトゥール・スレン虐殺博物館として公開されている当時の強制収容所では、生存者は10人にも満たなかったそうです。

都市の人たちは強制労働をさせられます。が、農業をしたことの無い都市の人々が、満足のいく道具も無く作るので、ダムは決壊、農地は水浸し・・・。と、飢饉になり、悲惨な食糧不足に陥るのです。これは、中国の毛沢東に習った政策ですね。同じことが世界各地で起こっています。

国民の不満は高まりますが、そのたびに無表情で無慈悲な、親の愛情を知らない軍人として育てられた人たちが殺していくのでした。

が、国民の不満が出た時の常套手段は国外に敵を作ること。カンボジアでは、伝統的にベトナムを敵対視していました。

そこで、ベトナムを攻撃します。ベトナムでは、やっとアメリカ軍が撤退し、戦争が終わり、これから政府を作っていこうという時でした。そんなときにカンボジアから軍事攻撃されたのです。

これにベトナムが切れます。ベトナムにはカンボジアから逃げてきた難民がたくさんいました。その人たちを助けるという大義名分の下、1987年12月10万のベトナム軍がカンボジアに侵攻します。

そうして侵攻してきて見つけたのが虐殺されたなきがらだったのです。街には死臭が漂っていました。カンボジア人はベトナムが侵攻してきてくれて嬉しかったかも知れません。ポル・ポト政権は、2週間で崩壊し、ポル・ポトは北へ逃げます。

1979年1月ヘン・サムリンは、ベトナムの支援の下、政権を樹立。
しかしポル・ポトはジャングルで勢力を温存、タイ国境には難民キャンプが出来るほどでした。
いずれは政権の座に返り咲こう!!と、ゲリラ活動をし、VSベトナムの新しい内戦が始まることになるのです。

ベトナム軍は、この3年前までアメリカと戦っていました。自分達の国に侵攻してきたアメリカ軍と戦っていました。そうして今、自分達が侵攻している・・・。皮肉な現実がありました。

国際的には、ポル・ポトの大虐殺から「人道的介入はあっても良いのか?」という問題が指摘されるようになります。ベトナムの軍事的な侵略には間違いないが・・・。国民はポル・ポトの大虐殺から解放されるのです・・・。

後に旧ユーゴでもセルビア人がボスニア・ヘルツェコビナの人を殺していた時・・・。NATO軍がセルビアを攻撃したことがありました。ボスニアの人たちは解放されましたが・・・。

現在でもNATOがリビア政府を攻撃しています。これは許されるのでしょうか?国家に対する干渉、国際政治の難問が、このカンボジアを機に考えられるようになりました。

現在の人道的介入は、ヨーロッパ側から見れば許されるもので、国際常識になりつつあります。国際世論はどう考えるのでしょうか?問題提起されたのです。

北朝鮮でも貧困に喘ぎ、虐げられた人たちがいます。これに人道的に介入していいのか?非常に難しい問題です。

シアヌーク殿下は、王宮からの幽閉が説かれ、中国はへと戻ります。ポル・ポトはもともと毛沢東主義派だったので、中国はあんなポル・ポトを全面的に支援していました。

ところで、タイにはカンボジアからポル・ポト派が難民としてたくさん来ていました。タイとしてはベトナムの勢力が強くなるのは困ります。カンボジアがベトナム化するのは困るのです。=ポル・ポトの方がましだ!!と、ポル・ポト軍が、カンボジアに戻って戦うことを黙認しました。

このポル・ポト派、質のよい木材、ルビーを密輸してタイで捌いたのです。これは、タイにとっては大歓迎!と言うことで、支援され、長く存続することになるのです。

中国は、北京に助けを求めたシアヌーク殿下を利用して、ベトナムを懲罰する!と・・・。

1979年中越戦争勃発。中国軍20万人がベトナムを攻撃します。ベトナム軍が、カンボジアから引き上げることを期待したのです。そうすれば、ポル・ポトが盛り返すことが出来る!しかし、ベトナム軍は、カンボジアに10万の軍を置いたまま迎え撃ちます。

当時のベトナムは、アメリカが戦車など全ての武器を残していっていました。南ベトナム崩壊後はその武器は自分達のものになっていました。その武器は最新式でした。それに対し、中国は人海戦術で戦います。

この人海戦術、日中戦争の時日本軍もやられました。人数で閉じ込める作戦です。

20万で攻撃するも、最新兵器なのでベトナムは少しの兵隊で戦えるのです。殺されても殺されても進んでくる中国軍。これによって2万人の中国軍が死亡、ベトナム軍は7000人でした。そうして、殆どベトナムに入ることが出来ずに撤退するのです。これによって、中国は人海戦術では戦えないことを知り、軍の近代化へと向かうのです。

ベトナムでは今も中国に対する反感は強く、現在も南シナ海は誰のもの?と、反中国感情が高まっています。

そんなこんなでベトナムはカンボジア駐留が難しくなり、1989年撤退を始めます。この時点でベトナム兵の死者5万人、ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の数も5万でした。皮肉なものです。

国際政治において誰が正義で誰が悪なのか?複雑な関係になってしまいました。撤退をきっかけにカンボジアでも・・・

1991年パリ共和協定が結ばれます。国連監視の下、平和に選挙を実施し、代表を決めることになります。

1992年3月新政府が出来るまで国連カンボジア暫定統治機構を作ります。UNTACです。44カ国、2万人を超える組織で、代表は日本人、明石康特別代表でした。

この時自衛隊が始めて海外に派遣されました。PKOの平和維持活動です。主に道路を作ったりしました。この自衛隊の派遣にも日本国内では問題になりました。憲法で戦争を放棄しているのに、もし襲われたら攻撃できないのか?という問題ですね。私も覚えています。
でも、その後色々なところで参加し、活動することになりました。

ANTACの下、1993年カンボジアで総選挙が行われます。ポル・ポト派は選挙をボイコット、投票率90%の中、1993年9月ノロドム・シアヌークが再即位するのです。新憲法が発布されます。
この頃からポル・ポトから取り巻きが離れていき、力が弱まり始めます。

1998年4月ポル・ポトは一人寂しく死亡。ジャングルの中で病死したとされていますが、毒殺されたとも言われています。

2004年、シアヌークが退位、息子のノロドム・シハモニが即位します。

2006年7月からポル・ポトがカンボジアでしたことを国際法廷で裁こうではないか!ということになり、クメール・ルージュ「特別法廷」が開かれます。これによってポル・ポト及び、幹部の責任が問われたのです。が、未だに続いています。

こんなに長引いている原因は、そもそも今の政府ももともとポル・ポト派。大量虐殺の責任が無いわけではないのです。だから、法廷で決着するのを体制側の人間も止めようとしているからなのです。

何故、こんな悲劇が起こったのか?それは理想のためならば手段を選ばない・・。閉ざされた場所で、極端な理想を追求した結果、些細なことから過激な意見へ、過激な意見へ導かれたことが、国家レベルで起きたということなのでしょう。


本当に悲惨な戦争でしたね。自衛隊の派遣でもめていた頃は大学生だったのでよく覚えています。で、いつも思っていたのは、国際法って、結局意味が無いの?ってことでした。

平和な日本が、時代が続きますように・・・。


↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

posted by ちゃーちゃん at 17:41| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦略のアーティスト〜竹中半兵衛重吉〜

竹中半兵衛重吉です。
今回見たTHEナンバー2は、「戦略のアーティスト〜竹中半兵衛重吉〜」、秀吉を支え続けた若き天才軍師です。

この半兵衛、まだ秀吉が木下藤吉郎だった頃、山賊だった秀吉軍を常勝軍へと押し上げた天才なのです。そして秀吉の器を天下人の器にしたのも半兵衛でした。

では、山賊集団をどのようにして常勝集団へと導いたのでしょうか?

それは、刀を捨てること・・・。「戦わずして勝つ」というもので、半兵衛は調略の天才でした。私達は、戦国時代、合戦で領地を取っていたと思いがちですが、本当は、合戦するとダメージが大きいので、合戦よりもお金で口説くというのが常套手段でした。つまり、合戦する時は、もう勝負は決まっていたのです。

そうして、半兵衛はこの調略の天才から、「和製孔明」というイメージをもたれています。

その最初は稲葉山城で、齢21歳、わずか16名で成し遂げました。

では、この半兵衛どんな人物なのでしょうか?

歴史書には長身・痩躯・閑雅の風采=女装すれば類稀な美女になるほどのユニセックスなイケメンだったのです。華奢な体で、結核を患っていました。

この弱点を補うため、中国の兵法・孫子の兵法を身につけます。孫子の兵法は、最も優れた軍略で、少しの兵隊で最大の効果を上げるものでした。これは、結果として家臣の命を大事にするということに繋がります。

余談ですが、この半兵衛の兵法の軍法極秘伝書を、大東亜戦争でも軍が参考にしています。天才軍師は時代を超えてなお軍配を振るっていたのです。

それでは、話は戻って稲葉山城攻略について。
1564年、21歳の時、半兵衛の主は斉藤龍興、蝮の道三の孫でした。華奢で結核を患っていた半兵衛を、龍興、家臣は蔑んでいました。正月に稲葉山城に伺いをたてた時、家臣たちから小便をかけられます。

これに対して、「龍興の不明を正すほかは無い」と、稲葉山城を落とす計画を立てるのです。たった16人で・・・。

しかし、半兵衛には自信がありました。まず、城に人質にとられていた弟、竹中久作重矩を病気と偽らせ、見舞いと称して家臣16名と共に入城します。その家臣は屈強なものを選び、お見舞いの長持ちには武器が入っていました。

そうして、城内一の手練、斉藤飛騨守を狙うのです。この混乱で、龍興が城を脱出、それに乗じて城を陥落させるのです。この騒動の首謀者は、西美濃三人衆の一人で、後に信長に寝返ることになる半兵衛の義理の父・安藤守就が言い出したという説もありますが、とにかく、若干21歳、天才軍師の誕生でした。

もう一人の天才、信長は、天下布武を果たすため足掛け7年にわたって稲葉山城を攻略していました。この稲葉山城がのどから手が出るほど欲しかったのです。

半兵衛が若干21歳で、しかも16人で落城させたことに驚嘆し、「城を譲るならば、美濃半国を進ぜよう」と手紙を出します。しかし、半兵衛はこれを拒否、城を斉藤龍興に返還、自らは菩提山城に帰り、弟に家督を譲って隠棲生活に入るのです。このことが後に「知らぬ顔の半兵衛」と言われることになるのですが、欲の湧かない変わり者でした。

この半兵衛、どのようにして秀吉と結びつくのでしょう?

逸話として残っています。秀吉が墨俣城を作っていた頃、10日間も留守にします。この時、秀吉は半兵衛の下で政治談議をしていました。

半年に7回行ったとされていますが、これは明らかに後付で「三顧の礼」をモチーフにしています。しかし、この2人の出会いは歴史を大きく変えるものでした。

今までは秀吉はまだ戦の規模が小さく、大きな戦になってきた頃から精彩を欠き始めていました。山賊の寄せ集めであることの限界を感じていたのです。自分には無い、正統な軍略を持つ半兵衛、おそらく戦国一!。どうしても欲しい逸材でした。


信長は半兵衛を欲しかったものの、動いたのは秀吉。秀吉は野心家で、半兵衛が入ってくれると織田軍はさらに強くなる!!と。半兵衛にとっては、命令もされていないのに、主君の意を汲んで動く秀吉が奇妙にも見えました。半兵衛は、一国一城の主、秀吉は城を持たない武将、そんなところに織田家の斬新さを感じたのかも知れません。

半兵衛は織田軍に仕えることになります。秀吉をチェックする目付でした。半兵衛としては強烈な信長に付くよりも、秀吉をかませた方が楽でした。また、秀吉は、半兵衛には野心が無く、調略の成功を喜ぶのみ、文句も言わない、と、お互い都合の良い存在でした。

2人に大ピンチが訪れます。

小谷城主浅井長政が寝返ったのです。秀吉が武士の誉れである魁の任を負いましたが、喜びませんでした。単なる魁ではなく、お市の方と三人の娘を城から救い出すという任務が魁の条件だったのです。

戦闘中、女子供を助け出すのは至難の業です。失敗すれば信長の逆鱗に触れ秀吉は失脚してしまいます。だれもが尻込みする中、半兵衛は、
「案ずるに力攻め落城に及べば大殿妹母子の一命は無常助けがたし」とし、浅井の弱点を突くのです。この戦、浅井家では父が朝倉との関係を強くしようとして始まった戦いでした。そこで、

「浅井親子の情は一世、夫婦の契りは二世。されば、親子それぞれの居城の中間にある京極つぶらを抱かえて親子ともどもの連絡を絶つことが得策でしょう」と、中間点の京極丸を占拠しようとしました。

そうすれば、長政は子煩悩だから子供を道連れにはしないだろう、と、判断したのです。

結果、子供は秀吉の手に渡り、喜んだ信長は、秀吉に対して絶大な信頼を置くようになり、長政の所領の殆どを秀吉に与えるのです。この戦功は秀吉にとって大きなターニングポイントでした。

どうしてこのように喜んだのか?信長は、天下を取るに当たり右手に家康、左手には長政を期待していました。だからこそ、大事なお市の方を出したのです。この天下構想がぐらついた時、そこにすっと入ったのが秀吉だったのです。領地を貰って羽柴姓をなのる秀吉。半兵衛が最大の功労者だったのは言うまでもありません。


しかし、半兵衛は、素直には喜べませんでした。万福丸の磔・・・。幼い子の命までも奪う非情な信長に。

ここに、黒田官兵衛という男がいます。後に半兵衛と共に「二兵衛」と呼ばれる軍師です。

毛利攻めをするに当たり、播磨あたりを手に入れたい信長。この官兵衛が小寺家を織田家につかせます。秀吉に仕え、秀吉に姫路城を譲渡、余りにも露骨な官兵衛の取り入りように、無私無欲で働いてきた半兵衛の見る目は冷ややかでした。

そんな2人が、2人だけで酒を飲む機会がありました。官兵衛が半兵衛に証文を差し出します。そこには秀吉が官兵衛を弟のように慕っていると・・・。書かれてありました。そして、

「羽柴殿はこれほどまでに約してくださり後生大事に納うてござるがいっこうに・・・」とぼやいたのです。

それに対し半兵衛は、「このようなものを何時までも当てにしているようでは忠節は尽くせぬばかりか愚痴の種にもなろうというもの。証文など時が経てば反故同然、人の心は変わるものです」と、証文を破いたといいます。

そんな中、荒木村重の謀反が発覚、これに官兵衛の主だった小寺が加担していました。面食らった官兵衛は説得するため荒木村重の下へ・・・。しかし地下牢に幽閉されてしまいます。今までの行いから、功名心のある官兵衛のこと、寝返ったのでは?という噂が立ちます。人質にとっていた松寿丸を殺せ!という判断が信長によって下されます。

半兵衛はもう自分が病気で先が短いことを感じていました。
自分が亡き後は、官兵衛の調略が必要でした。そうして、官兵衛のことも信じていました。

しかし、信長を絶対視している秀吉には、信長に背くことは出来ません。そこで、自分がその任を負うことにしました。松寿丸は、殺さずに菩提山城にかくまうのです。信長に背いてまでも・・・。

一年後、有岡城で幽閉されていた官兵衛が助けられます。信長は自分のしたことを悔いたといいます。が、その子供は生きていたことが解り、ホッとするのです。

その殺さずに育てた子供が、黒田長政です。
この黒田長政、徳川家康を天下取りに貢献します。

助けられた官兵衛は功名心が一切無くなり、名軍師となっていくのです。
1579年6月13日竹中半兵衛死亡、享年36歳。播州攻めの最中でした。

黒田長政がつけている一の谷兜、これは半兵衛が愛用していたものだといいます。

なんだか、女装の似合うイケメンというのにビックリしました。(* ̄∇ ̄*)
美人薄命といいますが、憎まれっ子世に憚るといいますが、竹中半兵衛たくさんの密度の濃いドラマを作れそうですね。

今年の大河ドラマ、「江」まだやめずに見ています。ここまでくれば年末まで見そうですが、(ちなみに去年の龍馬伝は評判良かったのに私は途中でやめてしまいました・・・。)「江」も、食べるか、子供を産んでいるかで、政治に口出ししても「そんな大それたこと言える?」とか、「政治に口出しは無理だろう」とか、思ってしまいます。(/□≦、)

上野樹里ちゃんかわいいですが・・・。男尊女卑をするつもりはありませんが、当時の女姓は結局「食べてるか、産んでるか、おしゃべりしている」ぐらいなのかも知れませんね。

来年の松ケンに、アクションは期待します。。。


↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

posted by ちゃーちゃん at 12:40| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。