2011年10月27日

中国大躍進政策と文化大革命

中国大躍進政策と文化大革命。
「池上彰の現代史講義」〜歴史を見ればニュースがわかる〜です。

今回は、文化大革命です。

では、中国とはどんな国?
今年、2011年7月23日、衝撃的だったのが、高速鉄道事故でした。35人の死者(後に40人と訂正)を出し、その後の処理をめぐって大きな批判を世界中から浴びることとなりました。その処理とは、大きな穴を掘り列車を埋め、2日後に運転再開しました。

今まで、炭鉱の事故など色々な事故がありましたが、死者35人というのが多いそうです。世界では、偶然の一致にしては多すぎるので、正確な死者の数を発表していないのでは?と言っています。

おまけに事故処理している最中に乳児が見つかりました。どうしてそんなことが起こるのでしょうか?
それは、行政をチェックする機関、報道をし刑事事件などにしたり、検証していくシステムが整っていないからなのです。

だんだんと記事の扱いも小さくなり・・・事故調査委員会の発表は報道されるのでしょうか?国政や行政に対する国民の監視の目、批判が存在しないということが、忘れ去られていく原因なのです。

1949年、10月1日中華人民共和国成立を宣言。宣言したのは人民解放軍の毛沢東でした。憲法は出来たものの、中華人民共和国は共産党の指導の下にありました。つまり、憲法の上に共産党があるのです。

ちなみに、日本は憲法の下に三権分立(司法・立法・行政)です。

中国共産党の下に憲法があり、その下に行政機関があるのです。
党の組織としては、全国代表大会が5年に1回開かれ、そこから選ばれた中央委員会が1年に1回、その中から選ばれたのが政治局・常務委員9人です。この9人の中から総書記が選ばれます。今は胡錦濤さんです。が、基本はこの9人は平等で、胡錦濤さんの意見が全て通るわけではなく、9人が決めます。13億人を動かしているのです。

来年、9人のかなりの人が新しくなる予定です。

1950年、国を宣言した翌年、革命を・・・と、労働者が資本家を公開処刑します。それぞれの土地で、共産党に逆らうと殺されるのです。その数70万人。
殺されなかった人も、強制収容所に入れられ、労改(思想を改造する)させられます。このシステムは慣習として今も残っています。

法律の形ではないので、共産党ににらまれると、裁判にかけられることなく強制収容所行きなのです。例えば、民主化運動をした2010年にノーベル賞を受賞した劉暁波は、国家政権転覆扇動罪で今も服役中です。
この劉暁波は、法制度に基づいて判決が下りましたが、強制収容所で労改するのは、表向きには存在していないので、無いものはなくせず、今に至っているのです。

毛沢東は色々な仕組みを作ります。
農業生産の拡大を図るため・・・
@戸籍制度を設けます。
農村と、都市、二つの戸籍を設け、都市の人間は都市の戸籍を変えることは出来ません。が、最近ではゆるくなってきています。

農村出身者が、一生懸命勉強をして大学に進み、優秀な成績を修め都市の企業で就職したら都市の戸籍がもらえるようになりました。だから、みんな死に物狂いで勉強するのです。

A檔案・・・身上調書が作られます。これは、自分は見ることが出来ません。が、自分の祖先、階級、自分の経歴、どういう思想なのか、全て書かれていて、国民がコントロールされています。

そんな中、
1957年毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」という政策を打ち出します。
これは、色々な人が自由に意見を出して、国家を良くしていこうという政策です。

国民は、公開処刑で70万人も殺されたのに・・・。と、黙っていましたが、「批判してもいい」と、圧力をかけます。そんな時に言えるのは知識人です。知識人たちが恐る恐る言い出しましたが、それがエスカレート。共産党そのものの批判まで飛び出します。

その4ヵ月後、この批判は行き過ぎているとし、「反右派闘争」11万人が投獄、55万人が都市から地方へ追いやられたと言われています。この件に対しては、歴史的評価が分かれています。
エスカレートしたから大混乱したのか、
批判的な人をあぶりだそうとしたのか・・・。どちらかはわかりません。

その後も、「右派(資本主義)は、5%程度だろう」と、毛沢東が言うと、反政府勢力を5%追い出さなくてはならない!!と、役人にはノルマになってしまいました。全国で5%の人間を摘発し、追放するということが起きました。うっかり批判すると、右派と言われかねません・・・。

1958年、大躍進政策をとります。これは、一刻も早く社会主義化しようというものでした。

農業では、ソ連の農業の集団化を模しました。
「人民公社」を作り、ここで集団で農業をする。全員で一緒に共同生活をするのです。農民達は、今まで自分たちのだった「牛・ブタ・鶏・土地・農機具」が人民公社のものになってしまう!!と、牛・ブタ・鶏を食べてしまいました。これで家畜は姿を消しました。

集団生活なので、一緒に寝泊りし、共同食堂で食べます。いくら食べてもいいのですから、食べたほうが勝ち!食べ過ぎて、食料の消費量が莫大な量になります。給料は同じにもらえるので働かなくなり、農業生産が激減します。

米を食べるすずめの退治を全国で一斉にしましたが、このことですずめが激減し、害虫が大量発生、農業の深刻化に拍車がかかります。

おまけに、農地深耕といって、土地を数mにわたって掘り起こし、その斉で表土が失われ、農地は栄養を失い枯れていきます。また、稲の密植を行い、水はけも、風通しも悪くなり、次々に農業生産高は激減します。

そこで、農家の応援団も展開します。ちなみにこれは、北朝鮮では今も行われています。

工業では、イギリスに追いつけ追い越せ!!をスローガンにします。当時はイギリスが鉄鋼業の第一位でした。
1957年鉄鋼生産高  535万トン  倍以上にしよう!
  58年      1070万トン  倍以上にしよう!
  59年      2140万トンにしよう!

イギリスでは巨大な鉄工所がありましたが、中国には無く、みんなが手作りしたらいい!!と、全国60万ヶ所に鉄を作る施設を作り、農民が、農村地帯で、土法高炉で、製鉄を始めました。農業はおろそかになってしまいます。

みんなが毛沢東のいうノルマの達成に必死になります。高炉は1日中火を入れています。農業は出来ません。しかも、近代的な工場だからこそ質のいい鉄が出来るのですが、農民の作る鉄は、品質が悪くてものにはなりません。

が、「いい鉄が出来た」と報告します。毛沢東の絶大な権力の下、全国一斉にゴマをすり、お伺いをたてるのです。毛沢東が鉄道に乗る、となると、農業ほったらかしなのがばれないように、鉄道の脇に稲を植え替えたりしました。そうして、虚偽の報告が上がってくるようになり・・・。毛沢東は裸の王様になってしまいました。

鉄はまだまだ作らなければなりません。鉄鉱石は手に入りません・・・。とりあえずの鉄、農機具を高炉に入れて溶かしてしまいます。ノルマは達成しますが、農村地帯から農機具がなくなってしまいます。火を焚いているので山の木もなくなりはげ山になってしまいます。そうして、保水力がなくなり、洪水が多発、農村地帯は壊滅してしまいました。

全国で飢饉が蔓延し、飢え死に、餓死者の数はわかりません。が、1979年毛沢東の死後、大躍進政策の結果を共産党が調べたデータによると、4300万人から4600万人が餓死したことになっています。

しかし、毛沢東は当時、大成功と発表しました。これを真に受けたカンボジアのポル・ポト、アフリカではアンゴラ、モザンビーク、エチオピア、ソマリアが同じことをしました。

ソマリアでは今、無政府状態になっていますが、元をただせばこの大躍進政策を真似し、干ばつ状態、慢性的な飢餓が続き、内戦状態です。1月〜7月のあいだに、乳幼児29000人が餓死したと言われています。毛沢東が原因だったのです。

余談ですが、このソマリアのスエズ運河では、海賊が横行し、その海賊から輸送船を守るため、各国の軍隊が派遣されており、そんな状態が長く続いた結果、海上自衛隊がジブジに拠点となる基地を作りました。Σ(T□T)

この頃から、毛沢東に対する個人崇拝が始まります。1956年ソ連ではスターリン批判が始まって、「個人崇拝がいけなかった」と結論付けます。
このソ連にカチンときた毛沢東は、1960年〜ソ連を批判するようになります。「ソ連は、社会主義という仮面を被った帝国主義だ!!」

ソ連との戦争を覚悟するようになります。地下に巨大な地下都市(核シェルター)を建設します。天安門広場の下もそうです。
中ソ対立が激しくなります。

おまけに大躍進政策は失敗でしたが、毛沢東の批判は出来ません・・・。そんな中、幹部の一人が毛沢東に進言します。そうして毛沢東は、国家元首を退くのでした。

1959年国家主席は劉少奇、共産党主席は毛沢東となったのです。

毛沢東は表舞台から姿を消すも、権力を取り戻そうと画策していました。そうして毛沢東の復讐劇、1964年文化大革命が起こるのです。


ああ、最期まで書けませんでした・・・。ΣΣ( ̄◇ ̄;)!
題に文化大革命が入っているのに!!もう、晩御飯を作らなければ・・・。


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posted by ちゃーちゃん at 15:34| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月25日

こんな男に守られたい〜関羽〜

こんな男に守られたい〜関羽・神になった絆の英雄〜
BS歴史館です。

今回は、”三国志”時代を超えた男の魅力Aです。

三国志、古代中国、壮大なスケールで戦う男達・・・。その中でも、関羽の人気は高いです。武器は巨大な青龍偃月刀、大豪傑で1万人を相手に出来る、中国の英雄です。

中国でも日本でも、人気の高い万能の神。世界168カ国で祭られています。三国志の武将が、何故万能の神に?

全ては、三国志の「桃園の誓い」に隠されていました。

三国志は、古代中国に実際にあった出来事を、脚色したもので、当時は群雄割拠の中、魏・呉・蜀の三つ巴の戦いをしていました。

関羽は、蜀の国、劉備玄徳の下で戦った男です。
劉備は、わらじ売りの男でした。同じような境遇の者を集めて天下を狙います。

そして集まったなかには、義兄弟の契りを交わす・・・。矛を使わせたら天下無敵の豪傑、張飛。は、馬商人の用心棒。そうして、関羽。旅商人の護衛。がいました。

三人は、国家の外にいる、役人でも、軍人でも、農民でもない、何物にも縛られない人たちでした。流民で、家庭を持っていない・・・。そんな三人が義兄弟の誓いを立てたのです。

三国志演義には、この三人の出会いが書かれています。
それが、「桃園の誓い」です。
漢王朝を立て直すことで意気投合した三人は、誓いを立てます。
それは・・・。「義」の誓いでした。人や世の正しい道理に従う、義によって絆を結び、義兄弟となりました。

三国志演義の中では、関羽は、武力、学問に優れ、忍耐強く、力強い。
どんな時も劉備に付き従い、身を呈して尽くす・・・忠義の男
たとえ敵でも、筋道が通っていれば信用する・・・信の男
強大な敵の武将を、ただ一人で迎え討つ・・・勇の男
基本は忠義の男ですが、何にも屈しない男で、身長は2m以上といわれ、強く正しく、勇ましく、人を信じる、頼りにしたいNO,1に書かれています。

正史「三国志」では・・・
関羽の行いは義である。。。953文字しかありません。この中では、武将の扱いが低いのです。

では、何故そこまで崇められるようになったのでしょうか?

中国の神様とは?中国は、基本的に道教を信仰しています。「福(子宝)・禄(財産)・寿(長寿)」を求めます。ちなみに関羽は、福・財神になっています。もともとは軍神であったのが、商業の神様にもなってしまったのです。
では何故関羽は、万能の神となったのでしょうか?
関羽の生まれ故郷、山西省運城市。ここは、鉄・石炭の採掘で有名な場所です。ここに、最近80mもある巨大な関羽像が出来ました。

その中で、常平村が故郷で、人口1500人の農業の村です。
この村にある関帝祖廟には、関羽や祖先を祭る場所があり、関羽直系の子孫(70代目)たちが、今も守っています。
関帝祖廟は、関一族の祖先を祭るもの・・・関羽信仰ではありません。

神となったのは、7〜10世紀唐の時代、場所は湖北省荊州市。玉泉寺にて伽藍神として祀られたのが第一号です。
関羽の最期の時、219年12月この荊州市で息子共々敵に包囲され、天下の豪将ついに万策がつき・・・。首を刎ねられます。そして、時を経て、関羽が幽霊となり、首を返せと幽霊になって出てきたからだそうで、それを鎮めるために作られたといいます。なんか、日本の怨霊信仰みたいですね。

その後は10世紀宗の時代。北方民族の進入に対して戦うべく、かつての英雄23人を軍神として国が祀りました。そこには、劉備・諸葛亮・関羽・張飛も入っていました。
中国人の信仰、道教は多神教なので、次々と色々な神を作ることが出来たのです。

では何故、関羽信仰が広がったのでしょうか?
山西省にある池神廟には、褐色の結晶があります。これは、塩で、味がよく香りもいいのです。ここには塩湖があり、中国の塩の7割を作っていました。

三西商人は宗の国から塩の独占販売権を入手、各地に輸送して膨大な富を得ていました。そうして、商売には信用が大切だと思っていたので、「信」や「義」を関羽を使って広めました。それが関帝廟なのです。生まれや考え方が違っても、義を重んじれば成功する・・・。公演などもして広めました。

行く先々で関帝廟を作ったのです。この関帝廟は、中国の人的ネットワークの原点といえます。
その関帝廟の役割は、廟を共有財産にし、それを土地を離れて生きる人々の資金援助・共同墓地の管理・奨学金に当てたのです。
この考えは、華僑に通じるものがあります。

14世紀明の時代。関羽の人気が決定的に!!山西省の羅貫中が書いた「三国志演義」でした。関羽は、120章のうち90章に登場、義・忠・信・勇を大切にするヒーローとなりました。
が、当時は小説家は小説のみで食べていけるはずも無く、パトロンが必要でした。そのパトロンこそ山西商人だったのです。山西商人がお金を出し、経済とメディアをミックスした戦略でした。

というのも、三国志演義では有名な関羽、正史の中で大きく取り上げられていないことは、中国人はあまり知らないのです。

しかし、当時の皇帝が求めていたものと重なり、関羽の人気は高まります。

では、何故世界へ広がったのでしょうか?
山西商人は、金融ビジネスにも手を出します。世界遺産「平遥古城」には、銀行が立ち並び、資金を運用、為替業務まで行っていました。
国家財政の半分の富を作っていました。清政府の財務部といわれるほどでした。関羽は商売繁盛の神となりました。

しかし、絶頂は突如終わりを告げます。
1840年〜42年のアヘン戦争・・・。欧米の商人が入ってきました。独占していた塩・・・。海外から安い塩が入ってきます。大きな価格破壊でした。おまけに清国の賠償金の肩代わり、貸付金の不渡り・・・。

1912年清朝滅亡と共に衰退。しかし、「義」と「信」は貫き、自分が破産しかけているのに払い戻しをしたといいます。

この後、華僑が外国に進出しました。その時関羽も海外へ・・・。

この関帝廟、横浜中華街にもあります。1986年3代目関帝廟が焼失。当時(今でも?)中国と台湾の確執が中華街にもありました。が、4代目を作るに当たって中国系・台湾系の人たちが、再建に協力したそうです。
関羽は、ビジネスを行うところには必ず祀られています。
1990年4代目関帝廟落成
以来、中華街の人々の絆は深まったといいます。生まれや立場の違う人たちが助け合う誓いを立てたのです。

つまり、華僑達の”人的ネットワーク”の中心に関羽信仰があったのです。

今の中国は、曹操のように急速に近代化をし、関羽の様に海外へ向けて人的繋がりを求めていく・・・そんな社会になってきているのでしょうか?


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ラベル:関羽 三国志
posted by ちゃーちゃん at 15:30| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

時代を超えた男の魅力

三国志〜時代を超えた男の魅力〜
BS歴史館です。

三国志、あんまりわかんないです。子供の頃に、本宮ひろしさんが漫画を描いていたような・・・。さすがに少女だった私は、絵的に駄目でしたが。。。(≧ヘ≦)

世界を敵に回す覚悟はあるのか?〜覇王・曹操、自分を貫く強さ〜です。

私の中では覇王は、ラオウなのですが。( ̄∇+ ̄)

1800年の時を超え、私達の心を揺さぶる英雄達のお話です。

が、この曹操、圧倒的な悪です。
三国志演義の中では、力こそ正義の覇王!!残虐で冷酷、非道な男です。
しかし、近年中国で脚光を浴びています。真実の曹操とは?

2009年曹操の墓が発見、それを見ると、悪人ではなく、古いものを壊して新しいものを築く、偉大な改革者だったと言うのです。なんだか、織田信長のようですが。
伝統VS改革、恐ろしく合理的な男は、不屈の改革者でした。

1800年前の中国大陸は、後漢の時代、群雄割拠の時代になってきていました。そこで出てくるのが、魏(曹操)、呉(孫権)、蜀(劉備)です。
三国志の始まりです。

その1000年後に書かれた三国志演義は、この時代を物語化、ドラマティックに脚色したものです。この三国志演義で、最強の悪の覇王として君臨しているのが曹操です。魏の礎を築いた男で、100万の兵を率いる絶対的権力者、この男と戦うことになるのが、蜀を築いた正義の男、劉備玄徳です。天才軍師諸葛亮孔明をはじめ、関羽、張飛、日本でも人気の高い軍人が、戦っても、戦っても勝てません。

強くて冷酷な悪役です。歴史書には、「我人に背くとも 天下の人我に背かせじ」と、記されています。
しかしこの時代、政治的、社会的に見ると中国の大きな変革期で、よく見ると面白いのです。

諸葛亮がいなくても世界は変わらないが、曹操がいないと中国史は大きく変わると言わしめた大きな人物、天才でした。

1800年前、古代中国、
正史「三国志」には曹操を「超世の傑(時代を超えた英雄)」と、褒め称えた文章が残っています。では、実際の曹操とは?

西暦155年、エリート一家に生まれます。自分も高級官僚の道へ・・・。
性格は、「機知があり、権謀に富み 勝手放題、品行を整えず 世間に評価する者なし」と、正史三国志の書かれています。
つまり、規格外の異端児だったのです。

当時は後漢、洛陽では役人の腐敗がはびこり、賄賂が横行していました。「縁故主義」で、人の顔色を窺う役人達・・・。農民は反乱。曹操は、漢王朝を立て直そうと考えていました。

最も気に食わないのが、「董卓」という男、幼い皇帝を意のままに操り、宮廷を、王朝を私物化する宰相でした。

この董卓打倒計画を立てます。董卓打倒のため、家財を売って義勇兵を集めました。しかし、間に合わせの軍では勝てずにあっさり敗北。力の差をまざまざと見せ付けられるのでした。

この反省から、優秀な人材を集めるようになります。徹底した能力主義、コネの無い優秀な軍師が集まります。そうして、群雄割拠の一翼を担うことになるのです。

つまり、はじめのきっかけは、世直し、自分がやらなければ漢は滅びる・・・。という漢王朝の建て直しだったのです。漢王朝の忠臣でした。

400年に及ぶ漢王朝の衰退の原因は、賄賂政治でした。曹操の家も、祖父の賄賂により曹操の父が大尉(総理大臣)に就任しています。

つまり、賄賂はお金がいる
       ↓
    農民への支配が強くなる
       ↓
    農民は豪族の下へ逃げていく
       ↓
    また税金が重くなる

の繰り返しで、漢の全盛期5000万人いたと言われていますが、三国時代は1200万人に減っていました。つまり、残りの3800万人は国家の支配から外れていたのです。=税収入は激減しました。


当時はヨーロッパでもローマ帝国が衰退、古代社会秩序が乱れ始めていました。

地方で勢力を持ってきた曹操、経済改革を始めます。
まずは屯田政策・・・余った土地を農民に与えました。この頃、農民達も戦続きで無一文、国が牛や農具を貸出し、灌漑設備を整え、農民を援助するシステムを作りました。

曹操は、凄く合理的に統一しようとしました。この屯田制→隋・唐の均田制→日本の班田収受の法で、曹操は税を銅銭でとっていたのを「租・調」に変え、これが隋の「租・庸・調」となるのです。

このことで、農民が定住→税が徴収できる→軍備増強→富国強兵へと繋がります。

また、当時の漢王朝の若き皇帝・献帝は放浪していました。この皇帝を保護し、皇帝の権威の下、196年漢王朝の正規軍になります。皇帝を守るのは自分の役目だと皇帝の心をつかみ、自分の地位を高め、41歳で政治・軍事を取り仕切る最高実力者となるのです。

これで「曹操に背くものは皇帝に背くもの」という大義名分が出来ました。

208年、三国志最大の決戦赤壁の戦いがありました。
曹操VS孫権・劉備の戦いです。このとき曹操は53歳、中国統一を目前にしていました。負けることの無い80万の曹操軍が、奇襲作戦により船ごと炎に包まれ歴史的大敗を帰すことになります。

しかしこの原因、歴史書には「疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ」とされています。この敗北が原因で、中国は三分割されるのです。

それからの曹操は、強い漢王朝の再興へ改革のスピードを上げていきます。
自分の寿命と照らし合わせ、
@漢に代わって自分の国を作りたい
A国家のシステムを変えたい。。。と、これらを優先するようになります。
つまり、赤壁の戦いの挫折によってさらに強く志を持つようになるのです。

その志とは?曹操の子供の頃の夢は・・・。
@漢の征西将軍になること。
A漢の建て直し            だったのです。

国家を根本から変える改革をします。
215年自ら魏公の位に就きます。この魏公は、皇帝に直結する身分で、漢皇帝の身分を脅かす存在になったのです。魏公になれば、魏王→天子→皇帝の道が開かれます。

この魏公になった真の目的は、漢の改革でした。当時の政治には儒教の思想が取り入れられており、皇帝=天子だけが、王権を受け継ぐことが出来る特別な存在でした。その皇帝と同じ権力を自分自身に集中させたのです。漢王朝の実質的な支配者になろうとしていました。

では、曹操の魏公に市民は反発しなかったのでしょうか?自分達は曹操のおかげで平和な暮らしが出来ている。。。実力のある曹操が権力を握っていることにみんな賛成していました。

しかし・・・。
220年皇帝を目前にして65歳で逝去。
息子「そうひ」が、皇帝の座に着き魏を建国します。これによって漢王朝は滅亡したのです。

何故曹操は皇帝にはならなかったのでしょうか?なれなかったのでしょうか?漢の臣として全うしたい・・・。「ならなかった」が、正しいのかも知れません。が、息子には強要しませんでした。

2009年12月28日、中国河南省で歴史的な世紀の発見がありました。古代中国史最大の謎だった曹操の墓が発見されました。
たて42m、幅10mのこの墓の発見で、従来の曹操像が覆されたのです。

その墓は、典型的な漢王朝の墓で、60歳前後の男性の骨が発見されました。シンプルで、金銀財宝、装飾などは全くありませんでした。

正史「三国志」には、「遺体は平服に包み、金銀財宝を納めず、土盛りも植樹も不要」と書かれています。その通り、金銀財宝でなく、あったのは机・墨・琴などでした。

こうした埋葬品から考えても、曹操は単に権力を追い求めたのではなく、多彩で芸術を愛する男でもありました。そこには徹底的な合理主義者の姿がありました。

では、何故悪になったのでしょうか?
それは、漢民族と北方民族の王朝交代史にありました。

900年後、12世紀宗の時代、宗の人々は北方民族に怯えていました。
北に北方民族の国、金王朝が誕生します。この金王朝、かつて曹操が支配していた魏の国と重なっていたので、曹操に対して敬意を表しました。

領土を奪われた南宗の漢民族はそれが許せませんでした。ここで、曹操の認識に変化が現れます。南宗は、劉備に敬意を表したのです。

ここに、「正義の劉備」と、「悪の曹操」が誕生しました。

南宗は、儒教の中の朱子学を推しました。この後、元・明・清の科挙の教科書には朱子学が使われていました。だから、曹操が悪であることが続いてしまったのです。

14世紀、明の時代、羅貫中が、三国志演義を発表し大ヒット。曹操は極悪非道な悪の権化として描かれます。

20世紀の革命家毛沢東は曹操を偉大な改革者として称えます。「誰もが曹操を悪く言う。本も劇も大衆も。これは古い封建社会が生んだ冤罪だ」と。

2006年になって、曹操の巨大な像が作られます。今、中国では曹操が見直されているのです。時代が変わるとき、評価の変わる曹操。


曹操は凶暴な悪人ではなく、新しい時代のシステムを作った人でした。偉大な改革者だったのです。

前に、曹操の墓が見つかったと言う番組も見ましたが、その時も、悪人ではなかったといっていたように思います。

やはり歴史とは勝者の歴史、それは間違いないのでしょうね。日本にもそんな人がたくさんいるでしょう。ま、明治時代でさえその人と成りがわからない人がたくさんいるのだから、2000年も前になるとそりゃあわからないでしょう。だから、どんな人だったのかなあ・・・。と、小説やドラマ、漫画で空想にふけるのも楽しいですよね。

ただ、いつも思うのは、日本がまだ原始のような頃に、こんなすごい政策や政治をしようとしていたなんて、本当にすごいですね。今もなお中国が中心と言う驕りのような中華思想がなるほど、と、当たり前にも思えてきます。(* ̄∇ ̄*)

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