2011年10月31日

今年の顔ですね!

史上最高のファーストレディー
ナンバー2、今回は、今年の顔、「お江」です。

300年にわたる徳川幕府の栄華を築きあげた、基礎を作ったのは、家康ではなく秀忠でした。家康の言うとおりの、統治プランを律儀に全うし、長期安定政権へと導いたのです。

この秀忠の正妻がお江です。今年の大河ドラマで有名になりましたね。2度の落城を経験し、両親との死別、三度にわたる政略結婚、本当に波乱万丈な一生を送った人です。

この数奇な運命をたどったお江。イメージとしては、
@嫉妬深い妻
Aヒステリックな母

というのが定番ですが、どんな人だったのでしょうか?激動の戦国時代を生き抜いた、宿命に対して決して逃げなかった人でした。

浅井三姉妹は・・・
  長女  茶々  豊臣秀吉の側室 → 三度の落城を経験
  次女  初   京極高次の正室
  三女  江   徳川秀忠の正室

というのは有名ですね。この三人は、上の2人は年子で、3人すごく仲が良かったそうです。

この三人の母、織田信長の妹、戦国一の美女と謳われたお市は、近江の国の浅井長政との同盟のため嫁ぎました。織田信長は、長政を信頼して大事な妹を嫁がせたわけですが、どうして長政が謀反に及んだのかは、諸説あって本当のところはわかっていません。

長政が切腹後、お市は織田信長の家臣、柴田勝家嫁ぎます。が、この勝家も、賤ヶ岳の戦いで、秀吉に敗れます。お市は、勝家と共に、切腹する覚悟を決めていました。娘達は城を後にしました。この時、お江11歳でした。

つまり、三姉妹にとっては、秀吉は自分達の父と兄弟の仇、愛憎は激しかったと思われます。

が、三人は秀吉の下へ。秀吉は、天下統一へ走り出します。

お江の使い道は、尾張の佐治一成へ嫁に出すというものでした。これは、徳川家康をけん制してのことです。
が、小牧長久手の戦いで、徳川軍が逃げる際に船の手配をした事が、秀吉の逆鱗に触れ、お江は離縁させられます。

1590年、秀吉が天下統一を成し遂げます。そうして、お江は、秀吉の甥である秀勝と結婚します。当時、秀吉には子がいなかったので、もしもの時は、この秀勝とお江の子を跡継ぎにしたかったのかも知れません。

この秀勝、新婚1ヶ月で朝鮮出兵へ。この戦いは泥沼化し、戦地で病死してしまいました。

政略結婚によって、秀忠に嫁いだのは23歳、秀忠はまだ17歳で6歳も年下でした。

当時は、「家」を持つことが自分の存在意義でしたが、お江は子供の頃から、「家」を求めてさまよう人生でした。

1595年、伏見城に輿入れします。この時点では、家康は徳川家のライバルではなく、秀吉にとっては頼もしい家来の息子に輿入れ、という感覚だったのではないかと思われます。そうして、徳川家の内情を徳川方に伝える役目を担っていたのです。

しかし、家康は天下を取ろうと思っていました。。。

では、お江は、どんな嫁だったのでしょうか?

家康にはたくさんの側室と息子がいました。そのみんなに、付け届けなど、大変な心配りが必要でした。当時の呉服商「雁金屋」へのお江の注文書には、御三家をはじめ、家康、秀忠の呉服の注文が何十件となされています。

家康の帯は白くなく・・・。とか、秀忠の葵の紋は大きくも無く小さくも無くとか・・・。

細部にわたり心配りがなされていて、当時のファッションリーダーでした。

1600年関ヶ原の戦いで家康が勝利します。
大坂には淀・秀頼・千・・・を、家康が追い詰めようとしていました。家康も、一大名として残るのなら・・・と、最初は助けようと思っていたようです。

秀頼と会見した時、甘やかされ放題と言われた評判とは全く違い、聡明で身長は190cmあったと言われています。

その若さを見たとき、老いていく自分を実感し、危機感から殺意に近いものを感じたといいます。自分の目の黒いうちに何とかしなくては・・・。

と、大坂夏の陣、決戦の火蓋が切って落とされました。お江が諦めきれないもの、それは、娘・千でした。この千姫は助かるのですが、侍女が連れ出したとも、大野治長が特使として逃がしたとも言われています。

淀殿にとっては、大坂城は秀吉の形見でした。秀吉は淀殿に天下を残しましたが、淀殿はその天下を捨てて、一大名に成り下がることは出来なかったのです。

父・浅井長政追福のために淀殿によって1594年に建てられた養源院には、お市、秀頼、淀、長政、秀忠、江が祭られています。

正室として活躍する江。将軍となった秀忠は、武家社会の秩序を次々と作っていきます。

江戸城と大奥を区別し、江は、秀忠公御台所となります。大奥のTOPとなった江、役目は世継ぎを作ることでした。

1604年に家光、1606年に忠長が誕生。家光は、ふさぎがちな性格で、動作が鈍く、人付き合いも悪い。しかし、忠長は、明朗闊達で人をひきつけました。お江と秀忠は、忠長を推しました。それは、国松が可愛いということではなく、国家の共同経営者として「将軍としてどちらがふさわしいか」客観的に判断したものでした。戦国時代、冷静に考えれば忠長で正しかったのです。

そこで出てくるのが、春日局です。春日局は一本気な性格で、駿府の家康に謁見し直訴します。そこで有名なまんじゅう事件です。

江戸城にやってきた家康は、竹千代と国松を呼んで・・・。竹千代は膝のうえに乗せ、それを見て自分も・・・とやってきた国松を叱りました。まんじゅうも、竹千代には手づから与え、国松にはほって与えたといいます。

これは、親2人に長男の大切さを伝えたかったからだといえます。これからの天下泰平の時代、どちらが継ぐか・・・決まっていなければ、お家騒動に発展しかねません。「長男が跡を継ぐ」という形式が大事だったのです。

しかし・・・家光はお江が産んだ子ではない?という説があります。たくさんの子供を産んでいる春日局は家康のタイプでした。その2人の子では?という説です。


徳川幕府の基礎固めをはじめた秀忠。お江は、将軍補佐官として力を発揮します。秀忠の使命は、秩序ある武家社会、大名の序列、役割を決め、サラリーマン社会にすることでした。

縦割りのシステムを作りますが、そのシステムを作るに当たり、お江は、大名一族と交流、女の「裏」ルートを使って情報を集めます。

辣腕を振るう秀忠、改易をしたりして40以上の大名を取り潰します。その中には身内もありました。が、それが戦には発展していません。それは、お江が裏でそれぞれの人の顔が立つように、追い込まない政策を考えたからでした。

1620年には、娘和子を天皇の正室にします。70万石をかけた花嫁行列でした。そうして、この和子の産んだ明正天皇の祖父母となり、日本国の頂点へと上り詰めました。

戦国時代の女性は、自由で活発だったとルイス・フロイスの記述にあります。つまり、女は強い!!ということです。

恐妻家でヒステリックなイメージのお江。でも、結局は忠長ではなく家光を将軍にしているので、これは後世作り上げられたもだとも思われます。

しかし、秀でた適応能力を持ち、知恵と才覚で生き抜き、逆境を逆手に取り、自らの人生を切り開いていった、戦国時代の一番の勝者は、江だったのかも知れません。。。

ああ、大河ドラマも後もう少しですね。楽しみにしています。


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posted by ちゃーちゃん at 13:58| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

天安門が血に染まった・・・。

天安門広場が血に染まった。。。
「池上彰の現代史講義」です。

毛沢東の死後、大躍進した中国ですが、毛沢東の亡き後、中国を立て直したのがケ小平でした。ケ小平は、文化大革命で毛沢東により失脚させられていました。というのも、ケ小平は、経済体制や経済制度にこだわらず、国民を豊かにすることを一番にとらえる現実主義者でした。イデオロギーを重視する毛沢東よって地方に追いやられていたのです。しかし、その才能は毛沢東も認めていたので、死なないように気配りはされていました。

中国を立て直すためには必要な人材だと認められていたのです。

1976年毛沢東死亡。これにより江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は失脚。裁判にかけられます。江青は、文化大革命を推進し、権力を専横したとして、執行猶予付きの死刑判決を受けます。改心したら、許してくれる・・・。というものです。が、自殺を図ります。

1977年ケ小平が復活し、中国の改革、建て直しを図ります。開放路線の始まりでした。

ケ小平の政策は
1978年人民公社の解体。「生産請負制」を導入しました。
土地は国有地ですが、農地を農民一人ひとりに分け、収穫したもののうち、余ったものは自分のものにして良いとしたのです。こうすれば、自分達で食べたり、売ったりできます。中国の食糧不足は解消されました。

中国をもっと豊かにするため、実験的に1979年〜80年「経済特区」を作ります。
これは、1979年

深圳 - 香港に隣接する。
珠海 - マカオに隣接する。
汕頭- 華僑が多く、海外との交流が密接である。
廈門 - 台湾の対岸に位置する。

この四ヶ所に限り、外国が進出しても良い、資本主義化しても良い。というものでした。次々に投資し、工場が進出しました。いきなり資本主義化は出来ないまでも、大成功でした。
このように、ケ小平の考え方は、「先富論」先に豊かになれる人から豊かになればいい、と言うものでした。

1992年、社会主義市場経済論を打ち出します。市場経済とは、需要と供給によって値段が決まるというものです。社会主義とは、もともと計画経済(5カ年計画)で、エリートが計画し、値段も決めていたのですが・・・。資本主義そのものの市場経済を受け入れました。でも、主義、考えは、国がコントロールするという変わった形が出来上がりました。

つまり、社会主義経済論は、共産党が手綱を握って、みんなが豊かになればいい。というものでした。世界的には意味不明でしたが・・・。

一生懸命働けば、給料が良くなる→買う→経済が良くなる→働く。。。と、上手く回り、経済の急成長と繋がりました。

中国が建国以来ずっと取り組んでいるのが人口政策です。

1953年6億0193万人でした。
1957年、北京大学学長・馬寅初が、「新人口論」を発表します。
これは、生産不足・食糧不足を補うために人口を抑制する必要がある。というものです。毛沢東はこれを厳しく批判し、馬寅初は大学を追われ、軟禁されます。生めよ増やせよで・・・。大躍進政策で多くの人が餓死していたのに、人口は増えていました。

1979年毛沢東の死後、軟禁を解かれ、「一人っ子政策」が始まるのです。
全国に16万人の計画出産責任者を置き、監督チェックを入れました。人口目標が定められ、2人目3人目ができた場合、本人ばかりか責任者も罰せられました。

圧力がかけられ、中絶が一般化します。
しかし、農村では働き手である男の子が欲しい・・・。女の子は生まれなかったことにしよう・・・。となります。中国には56もの民族がいて、少数民族には一人っ子政策は適用していませんが、出生率は5.8人だったのが、現在では1.8人になりました。男女の比率が極端で、女100人に対し、男118.58人です。これは、人為的なことが無い限り有り得ないことです。

20歳〜45歳まで、男性が3000人余っていて、結婚相手がいなくなるそうです。

おまけに、人口のピラミッド、人口比率が変わり、若年層が抑制され、高齢者が増えており、今では65歳以上が1億人、深刻な社会問題になっています。

中国には年金制度は無く(もともとは国有企業だったから)、農家の人は特に貧しく深刻化しています。年金制度が充実する前に、超高齢化社会になってしまうことでしょう。

2002年、「一人っ子政策」を認める法律が出来ます。今年子供を産んでもいいよ。と、行政が介入し、発表するのです。
子供は「小皇帝」となり、わがまま一杯に育った子供がたくさんいます。そうなると、就職してもすぐ辞めたり、親が文句を言うようになります。

人民解放軍お得意の人海戦術がとれなくなり、おまけに親が文句を言うので鍛えられないのだそうです。結婚してもすぐに離婚。という人が増えています。

だからか、一人っ子同士では2人産んでも良いとなりましたが、依然として一人っ子政策は続いています。


かつては食べることが精一杯だった人が、学力がついて視野が広くなり、大学生を中心に民主化運動が高まります。

1986年12月民主化運動が始まります。もともとは、学食の食事を良くしろ!などの他愛も無いものでしたが、改革運動に発展します。胡耀邦(黒幕はケ小平)が総書記にときでした。
のが、この胡耀邦、学生達に同情的だったため、ケ小平を含む保守派が反発し、やめさせます。胡耀邦、ときに72歳、理由は若すぎるから。でした。

この自分達に同情的だった胡耀邦を追悼しようと学生達は天安門広場へ・・・。総書記は趙紫陽のときです。
この時、何故天安門か?
1989年5月中ソの和解後、ソ連のゴルバチョフがセレモニーのため中国を訪問しようとしていました。いつもは報道がシャットアウトでしたが、この時ばかりは中国も一大イベント、中ソ和解の歴史的瞬間を世界に発信しようと、世界的にメディアが自由な取材を認められていました。

これを学生は利用しようと考えたのです。
5月17日、民主化運動を進める学生100万人が天安門広場へ集まりました。全国では1000万人に達したと言われています。
趙紫陽は、6月にお忍びで天安門広場へ向かい、涙ながらに「集会はやめてほしい」と、訴えます。そうして、この趙紫陽は失脚します。この時、秘書として行動を共にしたのは、温家宝でした。趙紫陽が失脚したにも関わらず、温家宝はどう立ち回ったのか、残っています。

6月4日、天安門事件勃発。人民解放軍の戦車、装甲車が弾圧・制裁を加えます。民主化が武力によって押しつぶされた瞬間でした。

しかし、この天安門事件を検証した結果、一人も殺されていなかったことがわかります。学生のリーダー達が軍の責任者と話し合い、突入する直前に、学生達は撤退していたのです。
このリーダーの一人がノーベル賞をとった劉暁波なのです。当時、劉暁波は、ニューヨークで研究活動をしていましたが、帰国して学生に寄り添っていたのです。

しかし、他の地域では、多数の死者が出ました。しかし、学生の親達は、国に反抗した手前、殺されても、どこにも言っていくところはありませんでした。

この事件はすぐさま世界のテレビ局が放送しました。

こんな事があって、学生達の愛国心を育てようとします。時代は、趙紫陽から江沢民に変わっていました。

民主化運動をしないように、学生達に愛国教育を徹底します。
これは、「愛党教育」共産党を愛するというものでした。かつて、日本軍と戦って、人民を解放したのは中国共産党だ!!という教育です。そうなると、必然的に「日本がいかに悪いことをしていたか」という反日教育になっていったのです。

国民は、思想はどうであれ、文句を言わずに金儲けしよう。と言うことになり、経済が発展するのです。

ヨーロッパでは、貧乏から脱して豊かになると、言論の自由がしたくなり、軍は倒され、民主化されるのが普通だと思われていました。当然、共産党の支持基盤が揺らぐだろうと思われていましたが、未だに共産党勢力です。

報道は、中国共産党宣伝部が、毎日通達を出します。今でも、政治・共産党に対しては、報道の自由は認められていません。だから、反対に、中国政府の幹部は、国民がどんな世論を持っているのかがわかりません。世論の動向がわからないのです。

幹部は、インターネットの書き込みを見て探ります。3万人10万人はいるといわれるサイバーポリス。24時間体制で、ありとあらゆる批判を見つけては、削除をしています。

香港では、民主活動家が、このサイバーポリスよりも早くサイトを見つけてはコピーし、ミラーサイトを作る。。。これが、拡散して、西側諸国に伝わっています。鉄道事故のことも、このような形でインターネット報道されました。

中国は、経済は発展しているのに共産党。という不思議な国家になりました。
次のトップは、習近平。妻の彰麗媛は、人民解放軍の将校で、専属の国民的歌手(日本で言うなら美空ひばり)です。
中国共産党代表大会で総書記に選ばれる予定です。

この習近平、父はかつての副首相、失脚を余儀なくされ、息子である習近平も反動学生として苦労します。

中国には

共青団と、太子党(二世)が対立しています。
共青団は、「李克強」・太子党は習近平を推して、対立していましたが、この権力闘争の末・・・。
今のままで行くと、習近平が国家主席で、李克強が首相になるのではないかと思われます。

ちなみに、習近平を推したのは江沢民。
李克強を推したのは胡錦濤、李克強は昔、小沢一郎の家にホームステイしていました。ΣΣ( ̄◇ ̄;)!

中国は今、まさに勃興期。海軍力、空母・・・。かつてのポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・米国・日本も・・・そうだったように。

今中国は大きく発展していますが、経済的には厳しくなってきています。21世紀前半は中国ですが、後半はインドかも知れません。
1962年、中印戦争などをして、敵対して、お互いに相手を警戒しています。

ああ・・・。やっぱり中国は何もかもスケールがでかい!!でした。


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posted by ちゃーちゃん at 15:46| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

文化大革命続き

文化大革命つづき。
中国大躍進政策と文化大革命。。。

途中になってしまっていました。

1964年、文化大革命、これは、失脚させられた毛沢東の復讐劇です。
1959年に国家主席を劉少奇に譲った毛沢東、自分を失脚させた実権派を打倒するため立ち上がります。この国家体制に対して、大学生や高校生を使い始めます。

1966年6月、エリートの清華大学附属中学校壁新聞で、今の体制を厳しく批判し、これを毛沢東が支持、勢いに乗った生徒達は反乱を起こします。

自分達を「紅衛兵」と名乗り、「造反有理」がスローガンになり、今のありとあらゆる体制を潰そうとします。

8月、天安門広場に100万人の紅衛兵が集まります。これを、毛沢東が激励します。紅衛兵は熱狂し凶暴化!!改革運動に進んでいきます。

街を歩く女性の服装をチェック、パーマ・スカートは駄目、髪はおさげで化粧も駄目、男性もスーツは駄目、全国民が人民服を着ることになります。

教会・寺院を破壊しました。酷かったのは、チベットで、寺院を破壊、仏像も破壊、経典は奪われました。こんな状態がずっと続いたのです。

車も赤信号で進んだりして、あちこちで交通事故が起こりました。高級レストランもなくなりました。

1966年、北京市公安局(警察)が恐るべき通達を出します。それは、「紅衛兵による暴力、殺戮、殺害を制止してはならない」というものでした。もう怖いものはありません。紅衛兵は、毛沢東のお墨付きもあるし、やりたい放題です。

「毛沢東語録」を片手に、”これのみが真実”と、改革運動に突き進む若者達・・・。ブルジョア教育は行わなくていい!!と、学校教育をやめます。

全国で、紅衛兵達は共産党幹部の頭を坊主にしたり、暴力を振るったり、吊るし上げたり・・・。共産党員達ではなく、自分達こそが改革!正しく!と、今度は「紅衛兵」お互いがケンカをしだし殺人事件に発展するようになりました。

香港には中国大陸からの死体がたくさん流れ着きました。その人たちは、両手を縛られ、殺害されていました。大陸では何が起きているのか?それは大量殺人なのか?全くわかりませんでした。

中国国内では、過激派がまかり通って大混乱!このことで、劉少奇が失脚。毛沢東は、まんまと返り咲いたのです。そうしてこの文化大革命は、江青が強い力を持って、さらに推し進めるのです。

権力闘争に勝利した毛沢東は、「紅衛兵」が邪魔になってきます。一掃しようと考えました。

1968年12月知識青年は農民に学べと、体のいいことを言って、2000万人の若者を農村に追いやります。「下放」したのです。
そうして、この権力奪還闘争は収束を迎えるのです。

この文化大革命で50万人が処刑されました。終わりを告げるのは、1976年毛沢東の死によってでした。

こんなに混乱したものの、今でも毛沢東の肖像画が掲げられています。毛沢東を否定することは、中国共産党を否定することになるので決して出来ないのです。

そこで、毛沢東には7分の功績、3分の過失があった。全体としては、すばらしい功績を作った人、と、位置づけています。


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posted by ちゃーちゃん at 13:27| Comment(0) | 池上彰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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