2011年09月14日

堀部安兵衛〜忠臣蔵を演出した男〜

忠臣蔵を演出した男
THEナンバー2、堀部安兵衛〜忠臣蔵を演出した男〜です。

忠臣蔵の主人公といえば、大石内蔵助です。でも、その演出をした仕掛け人は堀部安兵衛だというのです。なかなか斬新な意見です。(〃゚д゚;A

忠臣蔵を画策し、成功させた男堀部安兵衛とはどんな人物だったのでしょうか?

堀部安兵衛といえば、高田馬場の決闘が有名です。この高田馬場の決闘で江戸中で評判となり、赤穂藩に仕官することになるのです。
でも、高田馬場は史実であるけれど、18人ぶった斬ったとかそういうことはなかったようで、斬ったのは3人とか・・・。

で、赤穂藩士になるまではというと・・・。
1670年、新潟県新発田に、藩主の血を引く由緒ある血筋に育ちます。
が、14歳の時、本丸表門の辰巳櫓が焼失し、その責任者だった安兵衛の父が責任を負わされます。が、書物によると、櫓は燃えていず、その前にあった雨合羽が燃えただけでした。これは安兵衛の父が、藩政にまで口出しをするのを嫌がった人々による陰謀だという説もあります。

親戚の家にあずけられた安兵衛は、19歳の時にそこを飛び出し、江戸を目指します。江戸に着くと、江戸四剣客といわれる堀内源太左衛門の道場に入門します。そこで、天武の才が開花するのです。

そこで知り合った菅野六郎左衛門と叔父・甥の義理を結びます。この六郎左衛門が、高田馬場で決闘するのです。安兵衛は助太刀でした。決闘に駆けつけた安兵衛は、孤軍奮闘し、その活躍は尾ひれがついて江戸中に広がります。そこから運命の歯車が動き出すのです。

では、安兵衛は本当に強かったのでしょうか?そんなことはどうでも良かったのです。関ヶ原から100年、武士は堕落していました。米の経済から貨幣経済へ、商人が勢いを増してきました。武士たちは自分の存在に疑問を感じ始めます。テレビでやっている「切り捨て御免」なんて事はなかったのです。切り捨て御免は出来ても、その後に待っているのは切腹であり、お家断絶でした。

また、殉職の否定が綱吉の時に明文化されます。武士とはどうあるべきか?武士道とは何か?

物価は上がるのに、俸禄は上がらない。武士は勝手にアルバイトも出来ないし、届出をしないと出歩くことさえ出来ない時代でした。そんな息の詰まった時代、安兵衛はヒーローになってしまったのです。

安兵衛に関心を持ったのは、重鎮柳沢吉保でした。太平の世で堕落してしまった武士道。安兵衛には質実剛健を旨とする大名の使いが殺到します。そんな中で、赤穂藩士堀部安兵衛が誕生するのです。

赤穂藩、江戸留守居役の補助になって7年後のこと・・・。
元禄14年3月14日、忠臣蔵の幕が上がります。
朝野長矩が松の廊下刃傷沙汰に及ぶのです。もちろん相手は、吉良上野介。吉良は当時、高家衆の筆頭でした。

では、何故斬りつけたのでしょう?それは全く闇の中・・・。
というのも、歴史的に見て、虐められたとはありえないのです。

浅野内匠頭は勅使饗応役(天皇・上皇などから派遣された勅使を接待するための役職)についていましたが、
吉良に賄賂を届けていなかった。→当時は当たり前。浅野家は二回目なので間違うはずはない。
服や儀式の用意するのを間違った→お金を払うだけなのでありえない。
塩の精製方法でケンカ→海の塩と山の塩では精製方法も全く違うのでありえない

斬りつけられた吉良でさえ解らなかったのではないか?といわれています。

この刃傷沙汰が将軍綱吉の逆鱗に触れ、浅野長矩は当日中に切腹となるのです。

このことがきっかけで、赤穂藩はお取り潰しになります。浅野家への厳しい罰に不平等を訴えたのは民衆でした。

敵を討つのが武士道である→首を取れという民意。

安兵衛は内蔵助に会うために赤穂へ・・・。
しかし、内蔵助は仇討ちなど夢にも思わない。「昼行灯」と呼ばれていました。内蔵助の本心は、浅野大学を擁立し、御家の再興を望んでいたのです。
しかし、お取り潰しになり失業し、残ったのが47人だったのです。

では、何故安兵衛は仇討ちにこだわったのでしょうか?それは武士道ではなかったか?武士が堕落した世の中で、武士の一分を全うしたかったのではあるまいか?

時が経ち、職を辞した吉良は、江戸城内から本所松坂町へ屋敷がえとなります。それは、もしかすると、武士は武士らしく!!という武士道を・・・仇討ちを望む吉保が、警備の薄い本所松阪町にしたのかも知れません。

お家再興の望みも絶たれた今、腰の重かった大石内蔵助も、民意に押され、仇討ちへと傾いていきます。

元禄15年12月14日、討ち入りは見事に成功。

それを「武士の鑑だ」と賞賛したのは、皮肉にも綱吉でした。

ここに出てくる武士道は、幕閣に利用されたのかもしれません。なぜなら、幕府は47人の行動を把握していた節があるのです。すべて見てみぬふりをしていたのかもしれません。

これをきっかけに、武士道のあり方が変わってき、世論は幕府の思惑通りに武士を尊敬し、武士の面目は保たれることになるのです。

今回の堀部安兵衛がナンバー2というのはなかなか面白かったです。いつも行け行けの急先鋒のイメージがあったので・・・。

歴史は本当に何に視点を置くかでコロッと変わりますね。本当に面白いです。


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posted by ちゃーちゃん at 14:25| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幕末・安政の大地震に立ち向かった男

幕末・安政の大地震に立ち向かった男

BS歴史館〜復興の鍵は民にあり 幕末・安政の大地震に立ち向かった男「濱口梧陵」です。稲むらの火と言った方がピンとくるかも知れませんね。

これは、知っていないとまずい郷土の有名人です。が、人間の頭なんてあやふやです。こんなにバイタリティに溢れた人とは思っていませんでした。

ちなみに、戦前の教科書には載っていた有名な人物です。去年から5年生の教科書に載るようになりました。それは、戦前の日本の教育が悪かったというアメリカナイズされた教育が削除させたのでしょうか?

この安政の大地震は、安政元年に起こった安政南海地震のことで、西日本で数千人の死者が出たといわれています。

濱口梧陵は紀州藩広村の醤油を生業とした商人です。巨大な津波から村人の命を救い、広村に奇跡の復興をもたらした人です。

広村は、今の広川町のことで、たちうお、しらすなどの捕れる漁港です。この町を、100年〜150年ごとに大きな津波が襲っていました。

そんな中、後々語り継がれるほどの大地震、安政南海地震がおこります。震源は沖合M8.4の大地震で、高さ4.2mの津波でした。これは幕末最大級で、今回の東北の津波の二分の一ですが、防波堤などはなかったので、同じぐらいの津波といえるでしょう。

手記より
「七つ時頃に至り、大震動あり、瓦飛び 壁崩れ 塀倒れ 塵空を蓋う」という大被害でした。
冷静に海岸の異変に気づきます。
「巨砲の連発するが如き 響きをなす数回 伝え聞く 大震の後 往々海嘯(津波)の襲ひくるありと」
と、津波を予感しています。
「村民一統を警戒し 氏神八幡境内に立ち退かしむ」

村から八幡様まで1.7km20分はかかる距離でした。

後の計算によると、広村にくる津波の第一波は40分後。

この時、村人たちは八幡神社に逃げて救われます。が、第二波、第三波が来るはずで、逃げ遅れた人達のために目印に・・・

「路傍の稲むらに火を放したむるもの十余」
稲わらに火をつけ
「以って漂流者に其身を寄せ、安全を得るの地を表示す」

暗闇に忽然と現れた炎。その火を頼りに高台へ逃れた人達。多くの命が救われました。
他の村では村人の半数が被害にあった地域もありましたが、広村の死者は、30/1323人中であったのです。

この安政元年とは、その前年、ペりーが来航し、情勢が不安定で落ち着かない時代でした。そんな時代に・・・。

安政元年   11月4日  安政東海地震
       11月5日  安政南海地震
       11月7日  豊予海峡地震
  2年    2月1日  飛騨地震
       10月2日  安政江戸地震

と、地震が誘発しています。本当に不安な時代だったのです。

小泉八雲はこの「稲むらの火」を外国に伝承しています。それは、日本人独自の共同体のあり方に興味を抱いたからでしょう。

では、何故津波を予知できたのでしょうか?

濱口家は、広村の名家で、代々醤油屋(今のヤマサの前身)を営んでいました。ここには1万冊以上の本が梧陵文庫として残っています。
この中の「日本三代実録」(平安時代に編纂された歴史書)に、貞観地震というのが記録されています。869年に東北地方で起こった地震で、激しい轟音、雷のことが記録されています。

梧陵は、広村では知的階級を代表する人であり、地震と津波が連動しているという知識があったのです。

では、何故田畑の貴重な財産である稲むらに火をつけたのでしょうか?
火をつけたのは、梧陵が私財を投じて作った「耐久舎」の教え子たちでした。梧陵は、幕末の不安の中、防衛・教育を地域で行うことを目指していました。高い危機管理能力を持っていたのです。

では、どうしてこんなにリーダーシップがあったのでしょうか?

当時まだ、士農工商の身分制度が残っており、商人である梧陵はお金持ちで名家であるにもかかわらず、政治的には一番下の階級でした。

江戸時代、殆どが農民で、米だと年貢は40%取られていた時代、醤油醸造の商人だと税金を払わなくて良い=人として重きにおかれていない存在だったのです。

でも、富は貯まっていく。これを社会還元、地域に還元するというのが、当時の商人の人間の倫理であり、義でした。それが、梧陵文庫にも表れています。
梧陵は、地域の自治の確立を目指します。

「人家は概ね崩壊して
 只ニ三の旧態を存するあるのみ
 人生の悲惨茲に至りて極まれりと謂うべし」

濱口家が炊き出しをし、みんなを飢えから救います。また、長屋を建てたりと広村の復興に尽力します。

家を流され、田畑は塩水に浸かり、生活の手段をなくした人々。
紀州藩は、藩全体が被害を被っているため全域に支援できない状態。
そんな中、梧陵は紀州藩に手紙を出します。

「波除土手の増築、御免許蒙奉候
 右工費は乍恐 私如何様にも勘弁仕る」

と申し出たのです。

千葉県銚子市には、黒潮に乗って紀州からの移民も多く、当時は利根川を遡ると江戸であったため、江戸への搬入口として栄え、交通の要所となっていました。梧陵はそこでも醤油醸造所を経営していました。

ここで稼いだお金を広村の復興に充てたのです。総額5億円といわれています。広村では、仕事のなくなった住民を使い、女子供であっても日当を払ったそうです。

が、安政2年10月2日安政江戸地震が起こります。江戸は壊滅し、醤油の江戸支店も閉鎖することになるのです。でも、この銚子では、広村復興の為に今までにないほどのたくさんの醤油を製造し、バックアップするのです。

この梧陵のした共同事業は、村人に仕事を与えたばかりでなく、帰属意識の高まりを作ったのです。

4年後に堤防は完成します。これは、世界初の津波用堤防です。
そして堤防と海の間には、6000本の松を植えます。松は根を張るばかりではなく、松林で人を津波で持っていかれないようにしたのです。

この堤防の上にははぜの木が植わっていて、木の実はろうそくの材料となります。それを売って、堤防の維持費に充てたのです。

昭和21年12月21日昭和南海地震が起こります。M8.0高さ4mの津波が広村を襲いますが、堤防のおかげで市街地に被害は殆どなかったといいます。

商人から初めて勘定奉行に任命された梧陵は、今までの禄高制をやめ、能力給の給料制にしたりと、政治にも精を出します。大久保利通の目にも留まりますが、民間人の実力をつけるという考え方は、専制主義国家である明治政府とは相容れませんでした。

後に和歌山県議会議長となりますが、かつての夢だった世界旅行の途中、アメリカのニューヨークで亡くなります。

本当に、一般人にしておくのは勿体ないくらいです。が、民間人たればこそ、これだけフりーに動けるからこその決断力なのかも知れません。

今の政治家の皆さんは、お互いの顔色ばかり伺って、落としどころを考えながらお話して、政治をしている感がありますよね。(≧ヘ≦)

もっとリーダーシップのある人を求めるのは酷なのでしょうか?自分で見極めて、庶民のパワーから持っていかないとだめなのかも知れませんね。

ホント、これ以上、天災も人災もおこりませんように(* ̄∇ ̄*)


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posted by ちゃーちゃん at 13:25| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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