2011年09月13日

保科正之〜江戸を救った副将軍〜

江戸を救った副将軍
THEナンバー2です。

今回は、保科正之〜江戸を救った副将軍〜です。

何故、江戸城に天守閣がないのか?そんなこんなを決めた人です。
4代将軍家綱を陰で支え、有事の時にこそ(今回の場合は明暦の大火)必要な、強力なリーダーシップで江戸幕府を支えた人です。


保科正之とは?父は徳川秀忠、母はいまをときめく江(お江与)ではなく、側室の子、つまり、上様の御落胤です。秀忠は、江が怖かったため、正之とは親子の名乗りは出来なかったそうです。

三代将軍家光と弟・忠長は、仲が悪かったことは有名ですよね。家光・春日局VS忠長・江(秀忠も)の構図です。当時は、長男が家を継ぐ、という風習は確固たるものではなく、賢い忠長につく人も多かったため、家光は気が気ではなかったようです。

そんな中、家光は保科正之にも疑念を抱きます。腹違いの弟ということで、興味があり、正之をマークしていました。が、その態度が、余りにも誠実で聡明、自分をわきまえている正之に信頼を寄せ、自分の腹心とするのです。

1651年、家光は病に倒れます。その時の心配事は只ひとつ、幼い息子家綱でした。それは、江戸幕府を開いて以来、秀忠・家光で800万石をお取り潰しにした為、諸大名から恨まれていたからです。

秀吉もそうですよね。権力があってもなのか、権力があるからなのか・・・。とにもかくにも、親は子供のことが心配です。(T△T)

息子の家綱と、徳川幕府の将来を託されたのです。

1651年「慶安の変」が起こります。今は「由比正雪の乱」とは言わないのかしら・・・。いわゆる、由比正雪が、浪人たちを集め、幕府の転覆をねらった騒動です。が、これは、正雪の仲間の密告により捕まり、事なきを得るのですが、これから正之の改革が始まるのです。

有名なのが、1657年の明暦の大火。振袖火事とも言われています。

この火事は、江戸が紅蓮の炎に包まれ、三分の二を焼き尽くし、10万人の死者が出た。という大惨事でした。この時に、江戸城の天守閣が焼け落ちたのです。

天守閣を造るお金があるのら庶民に、と、反対する幕閣を押し切って政策を進めるのです。それは世界に先駆けたヒューマリティ溢れる政治で、災害に対しては、人命尊重に一点集中して努力をしています。

例えば・・・。当時、浅草にあった蔵前の米蔵を、大火から守るために「火を消したら米の持ち出し勝手放題」としたのです。
当時は町火消しはなく(八代将軍の吉宗時、大岡越前が作りました。)大名火消しでは足りなかったから。
この時に助かった米を救助米として、炊き出しをし、当時にして16万両を支出しました。

そうして、住民の食料を確保するため、大名行列で江戸に詰めていた大名には帰国を促し、江戸入り無用にしました。

また、亡くなった人には万人塚(後の回向院)を作り、弔ったのです。

この大火の調査の結果、隅田川の被害が大きかったことがわかります。当時は橋をかけたり、運河を作ると、「敵に攻め込まれる」といった戦国時代の考えが残っていました。火事が迫ってきているのに、橋がないため対岸に逃げられなかったのです。それを知った正之は武蔵の国と下総の国の間に橋を架けます。これが両国橋です。
また、当時江戸では火事が絶えなかったので、道幅を広げて火の粉を飛ばないように工夫をしました。

正之の政策としては、三大美事が有名です。これは、家綱がおこなったとされていますが、実は正之・・・。

殉死の禁止
大名証人制度の廃止(人質の廃止)
末期養子の禁の緩和(主君死後の養子縁組の緩和)

です。

正之は役職にはつかず、表に出ないフリーな立場で家綱を支えるのです。

また、水不足を補うために玉川上水の改革に臨みます。これも、古い考え方の人々は、敵が入ってくるため運河はだめだと反対します。が、「一国一城の小城なら堅固を主とするが、天下万民の江戸城は、民の便利安居固祖が第一なり」と跳ね除け、この玉川上水は、江戸庶民の飲み水をまかなうばかりか、大穀倉地帯を生み出すことになるのです。

また、会津藩主としても、農民に対する負わせ(農民が飢饉のときに払えなかった年貢は積み重なって、重税となっていた)を棒引きにし、廃止します。

また、社倉を作り、余った米を入れておき、飢饉の時に米を安価で放出しました。それは、隣の藩に貸すこともあったとの事。
このことで、飢えが無くなります。

また、年金制度のようなものを作り、90歳以上の人は終生1人扶持を与えられたそうです。初年度の申し込みは155人もいたらしいです。

でも、有名でないのは・・・。やはり。松平容保が子孫のため、明治政府には敵とされました。特に、会津はコテンパンにやられていて、死者を埋葬することさえ許してくれなかったといいます。やはり、勝てば官軍なのです。・゚・(ノД`;)・゚・

今の時代は、一応、明治政府が続いているのかなあ・・・。

とにもかくにも、そんな風にあまり知られていない保科正之、家康を除けば、14人の将軍の誰よりもNO,1だそうです。

本当に、すごい手腕ですね。今の政治家のみなさんに見習ってほしいものです。(´Д`) =3 ハゥー


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posted by ちゃーちゃん at 12:01| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月12日

アンデルセン〜童話に隠された秘話〜

アンデルセン〜童話に隠された秘話〜
BS歴史館です。

この回は、デンマーク出身の世界的童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805〜1875)の実像に迫ったものです。

アンデルセンは、マッチ売りの少女、裸の王様、人魚姫、みにくいアヒルの子など、数々の童話を世に生み出した童話作家です。

時は19世紀のデンマーク、人びとは戦争や貧困に苦しんでいました。アンデルセンが育ったのは、デンマーク第三の都市オーデンセ。靴職人の父と、働き者の母の間に生まれます。この家は、今も残っています。外国はなんといってもこんなところがすばらしいです。なんせ日本は残っていませんからね・・・。

当時、まだ階級制度があって、「靴職人の子はどんなに勉強しても靴職人」という時代でした。

世界的には、ナポレオンがロシア遠征をした時代です。アンデルセンの父は、このナポレオンに、当時のロマン主義に心酔し、ロシア遠征に一旗あげようと参加するも、ロシア遠征は大敗に終わります。そして、失望のあまり亡くなります。

母は、洗濯女をしながらも、生活から逃れるためにアルコールを煽り、父の死から二年後に再婚します。

このことをきっかけに、アンデルセンは家を出ます。14歳のことでした。

すでにイギリスでは産業革命が起こっていたにもかかわらず、コペンハーゲンはまだまだ古い体質でした。ここでアンデルセンは16年という長い歳月を試練の中で過ごします。それはやはり、階級と、無学ということがネックとなっていたのです。

そうして「子どものための童話集」を発表します。
アンデルセンの作品は、今までの昔話、おとぎ話とは違って、自らの経験、体験を基にしたものです。そのため、当時の社会情勢が反映しています。
例えば、「マッチ売りの少女」この軸のあるマッチは、当時の最先端、最新の商品だったのです。

このマッチ売りの少女、実はモデルはアンデルセンの母親で、母は、子供の頃、親から物貰いをさせられ、それが出来ずにオーデンセの橋の下で泣いていた・・・。というところから出来ています。そして、このマッチ売りの子どもという設定は、「物売りする子供は貧しい子」という当時を語っています。

アンデルセンは次々と作品を世に送り出し、流行作家となり、ヨーロッパでの地位を確立したかに見えました。ロマン主義のおかげで、階級がなくなって、個人の時代のように見えましたが、階級制度はまだまだ根強く残っていて・・・。靴屋の子供はは靴屋でなくても良い筈なのに、靴屋のまま。という、下層のものが生き抜くにはまだまだ大変だったのです。

アンデルセンは、ヨーナス・コリーンの援助を受けていましたが、作家として成功していても、上流階級の人間ではないため、家族にはなれませんでした。これが、「みにくいアヒルの子」なのです。

でも、みにくいアヒルの子は白鳥になります。これは、アンデルセンが心の中で、自分が下層の人間ではないと思っていたからのようです。それは、当時の人にとっては新しい感覚でした。

1848年、フランスでは2月革命が起こり、3月にはデンマークでもデモ。そして、立憲君主制になります。

これは、市民階級の起こしたデモでしたが、この「市民」とは、当時はインテリのことで、労働者ではありませんでした。

アンデルセンは、生涯独身で過ごします。それは、童話作家というものは、安定した収入がなく、「旅をして、高貴なおうちに逗留して、およばれをする。」という生活だったからだといえます。失恋に失恋を重ね、王子に恋をする「人魚姫」を書き上げるのです。

そしてどこにも根をはれない現代的な芸術家アンデルセンは、「赤い靴」を書きます。これは、人間の内面の葛藤を書いたもので、私とは何か?という個人主義、自己中心的な考え方を、踊りの好きな女の子を通して、自分を優先する心と他者を思いやる、隣人を思いやる心との対立を書いています。これは、アンデルセン自身の葛藤なのでしょう。

切り落とされた赤い靴。赤い靴は何?それは自己愛の象徴なのでしょう。

アンデルセンは、自分に対して正直で、率直な人、そうして自己愛という現代的な問題をいち早く、童話という形で世界に広めた人だったのです。

1875年70歳で死去。高貴な身分に憧れ、仲間に入りたかったアンデルセン。かれは、国民から惜しまれ、国葬されました。

お子様向けの童話とはいえ、なかなか後味の悪い作品が多いですよね。「人魚姫」も、ハッピーエンドにしてあげたらいいのに・・・。とか、「赤い靴」では斧で足をきりますし・・・。「みにくいアヒルの子」でも、君が醜いのなんか気にならないよ。家族にならなければね。とか、童話らしからぬ話も多いのですが、それは、アンデルセン自身の鬱屈した醜い部分がそうさせたのかも知れませんね。

読みたいような気もしますが、童話って怖いですよね・・・。トイレに行けなくなったら困るので、止めておきます。Σ(T□T)

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posted by ちゃーちゃん at 13:41| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

〜戦国最強の僧侶〜太原雪斎

THEナンバー2
久しぶりに見ました。(*≧m≦*)

夏休みの疲れも、映画でリフレッシュ!やっと、普通の生活になれそうです。

今回は、〜戦国最強の僧侶〜太原雪斎です。

この人は、実はよく知りませんでした。戦国ゲームの中では、知る人ぞ知る、とっても有名な人だそうですね。彼は、臨済宗の僧侶で、今川義元の名参謀でした。

雪斎は、今川義元の父から、義元の教育係を任されます。

というのも、この義元も、もともと家督を継ぐ立場ではなく、1536年氏輝が死去、その弟も不審死、当時は仏門に入っていた義元が、18歳で家督を継ぐことになったのです。

そうして、跡目争いに勝利し、この義元を当主にするため、お家安泰を望み、立ち上がるのです。

僧侶といえば、今では平和主義的なお坊さんというイメージですが、江戸時代前の僧侶は、織田信長で有名な比叡山焼き討ちなど、結構戦闘的な僧侶が多かったのは事実です。

僧侶は、経文だけでなく、孫子や六韜三略など、軍略書にも明るかった上に、使僧として、全国を回れたという強みがあったのです。この使僧とは、俗世間から切れているという「無縁の原理」によって、国をまたいだ旅が出来たというものです。これが、雪斎の強みでした。

今川の内乱を抑えるため、武田信虎から支援してもらうことを確約させます。これは、最大の敵を味方につけることによって、戦いの先手を取ったのです。義元を当主にした後、武田家との関係を強化するため、武田晴信に京都三条家娘を娶らせ、信虎の娘を義元に娶らせます。いわゆる婚姻外交を進めるのです。

そうした中、1541年、武田晴信が、自分の父である信虎を追放します。この信虎の身元引受人になったのが雪斎で、武田側と話をまとめます。
諸説ありますが、この追放劇は、晴信と雪斎の密約があって、二人の策略かともいわれています。

そして、上洛するため、武田・北条と三国同盟を結びます。これは、武田は上杉と、北条も北と、今川は西と、背を見方にする必要があったからです。

1546年、三河へと侵攻を始めます。軍の総指揮は雪斎。松平とは、竹千代(家康)を人質にとることで同盟を約束したにもかかわらず・・・。田原城主が織田側に買収されていて、「駿河には海で行くほうが・・・。」と、船に乗せられてしまい、船はあれよあれよと織田側へといってしまうのです。織田が、竹千代強奪に成功します。

そんな中、松平の家臣をまとめたのも雪斎でした。小豆坂で織田信秀の長男・信広と対決し、信広を生け捕ります。そうして、竹千代と交換するのです。

そうして、雪斎は竹千代の教育係になるのです。

1554年、北条、武田、今川の間で三国同盟(不可侵条約)が成立しようとしていましたが、雪斎は今までの無理がたたり59歳で亡くなるのです。

後に家康が語っています。

「雪斎亡き後は今川の国政ととのわざりき」と。

雪斎の死から5年、義元は桶狭間の戦い(本当は田楽狭間の合戦らしい)で討ち死にすることになるのです。

今川義元の失敗は、雪斎に代わる人材を作っておかなかったことでしたが、はじめの通り、雪斎はと義元は師弟関係にあり、雪斎を尊敬していた義元には、考えられなかったのかも知れません。

しかし、聡明な愛弟子、家康には数々のことを、自らの兵法の極意を伝授していました。それは、家康の中に類稀な才能を見出していたのかも知れません。そして自分がナンバー2として大きな存在になりすぎたことを憂慮して、家康にはあまり公言しないように、また、家康も公言しなかったといいます。

こんなに有名になる要素がたくさんあるのに、何で知らなかったんだろう?ε〜( ̄、 ̄;)ゞフー安国寺恵けいとかぐらいです・・・。

まだまだ修行が足りませんね。(TmT)


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posted by ちゃーちゃん at 12:21| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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