2011年09月15日

早すぎた改革者 田沼意次

早すぎた改革者
今日見たのは、THEナンバー2〜早すぎた改革者〜田沼意次です。

田沼意次は、10代将軍家治に仕え、道鏡・足利尊氏と共に、日本史上の三大悪人とされています。その悪事とは、賄賂。地元相良町では、「ワイロ最中」も発売されているほどです。

彼は、清き政治を求める人々に追放されました。

有名な歌があります。

「田や沼や
 濁れる御世をあらためて
 清く澄ませ 白河の水」

この白河とは、田沼意次を追放した松平定信のことです。

将軍に信頼された人物⇔金にまみれた三大悪人の一人
どちらが本当なのでしょうか?

本当に、田沼意次は悪人だったのでしょうか?

田沼の時代は、徳川幕府が10代も続き、不平不満の出てきた時代でした。
江戸時代は、公然ともらえる賄賂があり、それは帳面にも記載されています。今日の賄賂とは違い、帳面に載って明らかにされているので、「私」にせず、ばら撒いて使っていたとの事。田沼を始めとする老中たちが、陳情の見返りに金品を受け取っていたのです。でも、どの老中も受け取っていました。ただし、実用性が高いのが田沼意次なのであって、田沼だけが悪徳政治家ではないようです。

田沼意次の父は、八代将軍吉宗に仕えた足軽でした。意次は9代家重に仕えます。その家重が、亡くなる時、10代将軍家治に意次を重用するように遺言します。そこから、彼の政治は動いていくのです。

つまりこの田沼、もともとは側用人でした。側用人とは、将軍の私生活を仕切っていて、秘書のようなもの。家治は平々凡々な将軍でしたが、立て続けに起こる天変地異に、政治をやる気を失ってしまうのです。

では、側用人とは・・・。側用人は、将軍への連絡係や、将軍からの命令伝達などのが仕事だったため、強大な権力を持っていました。つまり、大きな影響力のある、将軍の側近中の側近だったのです。

当時は「奥」の役人と「表」の役人があって、奥が側用人、表は老中でした。そんな表裏があったり、根回しがあったり、日本は変わっていませんね・・・。( ̄_ ̄|||)

田沼は、側用人でありながら、「老中」にもなったので、すごい権力が集中したのです。これは前代未聞のことでした。政策の立案から決定まで、一人で行うようなもので、どこも、誰もチェックできません。

江戸幕府始まって以来、最も強い権力を握った人物なのです。

ここから田沼の時代が始まります。

田沼は、徳川幕府をもう一度立て直したい!!という強い思いから、日光社参という大プロジェクトを立ち上げます。これは、48年ぶりのことで、日光社参は、将軍にとって大変名誉な事でした。

20万両(9兆円)という莫大なお金がかかりますが、これを成功させたい田沼は、水野忠友を勝手掛若年寄(表の役人に)します。

そして、幕府の財政の無駄を省き、事業仕分けをします。そうして、費用を捻出するのです。ああ、民主党さん見習ってください・・・。

このことがきっかけで、老中に昇進します。

さらに事業仕分けを進める田沼。御三卿である田安家を取り潰そうとします。それは、10代目になって、御三卿の存在意義がなくなってきていたからです。この田安家の跡取りが松平定信でした。定信は、吉宗直系の孫、つまりは世が世であれば将軍候補なのです。ちなみに田沼意次は足軽の息子・・・。これが、因縁の対決の始まりでした。

田安家は、家治の意向でお取り潰しは免れたものの、定信は、白河藩松平家の養子となるのです。

また、田沼は更なる改革に臨みます。
当時、金山、銀山、銅山は、出なくなってきていました。また、米を主とする経済が破綻してきていました。旗本も幕府も貧乏だったのです。

事業仕分け・・・。いつの時代も無駄を省かれたほうは恨み、恨まれます。そこで、悲劇が起こるのです。江戸城で、刃傷事件が起こります。起こしたのは佐野善左衛門、殺害されたのは、田沼意次長男・意知享年36歳でした。当時、よく出来る息子、意知は若年寄で、意次は権力を引き継がせようとしていました。善左衛門は切腹となりますが、後継者を失った意次は失意に咽びます。

ここで、田沼は孫の為に、後世に名を残そうとするのです。

まず、蝦夷に調査団を派遣しました。調査した結果、蝦夷では600万石が見込めました。当時の幕府は400万石、これは成功すればとてつもない収益をもたらす巨大事業になるのです。でも、その為にもお金が必要でした。

田沼は、国を大きく変えようとしていました。

が、ここに未曾有の天変地異が襲います。

まず、浅間山の大噴火・天明の大飢饉では200万人の餓死者を出しました。米不足が深刻化し、財政はますます悪化していきます。

幕府は当時300万両の蓄えがありましたが、それを切り崩し・・・。逼迫する一方でした。

そこで、諸藩の、そして幕府の財政改革に臨みます。意次は、江戸時代の年貢制度に限界を感じていました。
幕府の収入は、天領からの徴収のみ、諸大名の領地は、諸大名の忠誠と引き換えに徴収権を与えていました。この年貢制度、飢饉にはめっぽう弱かったのです。

田沼は貸金会所設立令を出します。この貸金会所とは、今の中央銀行のようなもので、貸金会所から各所藩へ貸出しをするというものでした。この時の担保は領地。こうすることによって、幕府の収益の安定性と諸大名の勢力縮小という一石二鳥の構図が出来るのです。

これには、諸藩、幕府内部からも反発が起きます。しかしこれを強引に通すのです。

ここでまた悲劇が!!
天明6年7月、関東一円が大洪水に襲われます。被害は甚大で、210万両の蓄えが90万両にまでなってしまいます。それが引き金となって、田沼の求心力は低下、反対派が襲い掛かります。そのリーダーとなったのは、松平定信。虎視眈々と狙っていたのです。そして、田沼のいない会議で、貸金会所設立令廃止。

天明6年8月、田沼は老中を解任されます。これを申し渡したのは、かつての仲間である水野忠友でした。水野は、田沼に取って代わるチャンスだと思ったのかもしれません。ここには難しいものがあります。幕閣はすべて大名です。お金を返せなかったら土地は没収されるという貸金会所設立令は、許せなかったのでしょう。封建領主の立場から抜け出せなかったのです。

おまけに10代将軍家治が死去。田沼は汚職を横行させ、政治を乱したとされ蟄居を命じられます。

天災に襲われ続けた不運な男は、天明8年死去。その後を松平定信が取って代わりますが、幕府の貯蓄金は65万両にまで減るのです。

田沼は経済に通じ、先見性に富んだ政治家であったといえるでしょう。

彼の政治目的は江戸幕府の存続のみだったのです。新しい税金改革が出来ていたら・・・。政策が成功していたら、明治維新の魁となり、財政に余裕が出来ていたら、海外と戦えたのかも知れません。

勝海舟は言っています。「田沼は早すぎた」と。

彼の死後、江戸ではこんな歌が流行ります。

「白河の清き魚も
  住みかねて
 もとの濁りの
  田沼恋しき」

それから200年がたったのかしら・・・。 
今も昔も事業仕分けか・・・。
ホント、うちの家計も事業仕分けが必要かなあ・・・。<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...


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posted by ちゃーちゃん at 14:39| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

堀部安兵衛〜忠臣蔵を演出した男〜

忠臣蔵を演出した男
THEナンバー2、堀部安兵衛〜忠臣蔵を演出した男〜です。

忠臣蔵の主人公といえば、大石内蔵助です。でも、その演出をした仕掛け人は堀部安兵衛だというのです。なかなか斬新な意見です。(〃゚д゚;A

忠臣蔵を画策し、成功させた男堀部安兵衛とはどんな人物だったのでしょうか?

堀部安兵衛といえば、高田馬場の決闘が有名です。この高田馬場の決闘で江戸中で評判となり、赤穂藩に仕官することになるのです。
でも、高田馬場は史実であるけれど、18人ぶった斬ったとかそういうことはなかったようで、斬ったのは3人とか・・・。

で、赤穂藩士になるまではというと・・・。
1670年、新潟県新発田に、藩主の血を引く由緒ある血筋に育ちます。
が、14歳の時、本丸表門の辰巳櫓が焼失し、その責任者だった安兵衛の父が責任を負わされます。が、書物によると、櫓は燃えていず、その前にあった雨合羽が燃えただけでした。これは安兵衛の父が、藩政にまで口出しをするのを嫌がった人々による陰謀だという説もあります。

親戚の家にあずけられた安兵衛は、19歳の時にそこを飛び出し、江戸を目指します。江戸に着くと、江戸四剣客といわれる堀内源太左衛門の道場に入門します。そこで、天武の才が開花するのです。

そこで知り合った菅野六郎左衛門と叔父・甥の義理を結びます。この六郎左衛門が、高田馬場で決闘するのです。安兵衛は助太刀でした。決闘に駆けつけた安兵衛は、孤軍奮闘し、その活躍は尾ひれがついて江戸中に広がります。そこから運命の歯車が動き出すのです。

では、安兵衛は本当に強かったのでしょうか?そんなことはどうでも良かったのです。関ヶ原から100年、武士は堕落していました。米の経済から貨幣経済へ、商人が勢いを増してきました。武士たちは自分の存在に疑問を感じ始めます。テレビでやっている「切り捨て御免」なんて事はなかったのです。切り捨て御免は出来ても、その後に待っているのは切腹であり、お家断絶でした。

また、殉職の否定が綱吉の時に明文化されます。武士とはどうあるべきか?武士道とは何か?

物価は上がるのに、俸禄は上がらない。武士は勝手にアルバイトも出来ないし、届出をしないと出歩くことさえ出来ない時代でした。そんな息の詰まった時代、安兵衛はヒーローになってしまったのです。

安兵衛に関心を持ったのは、重鎮柳沢吉保でした。太平の世で堕落してしまった武士道。安兵衛には質実剛健を旨とする大名の使いが殺到します。そんな中で、赤穂藩士堀部安兵衛が誕生するのです。

赤穂藩、江戸留守居役の補助になって7年後のこと・・・。
元禄14年3月14日、忠臣蔵の幕が上がります。
朝野長矩が松の廊下刃傷沙汰に及ぶのです。もちろん相手は、吉良上野介。吉良は当時、高家衆の筆頭でした。

では、何故斬りつけたのでしょう?それは全く闇の中・・・。
というのも、歴史的に見て、虐められたとはありえないのです。

浅野内匠頭は勅使饗応役(天皇・上皇などから派遣された勅使を接待するための役職)についていましたが、
吉良に賄賂を届けていなかった。→当時は当たり前。浅野家は二回目なので間違うはずはない。
服や儀式の用意するのを間違った→お金を払うだけなのでありえない。
塩の精製方法でケンカ→海の塩と山の塩では精製方法も全く違うのでありえない

斬りつけられた吉良でさえ解らなかったのではないか?といわれています。

この刃傷沙汰が将軍綱吉の逆鱗に触れ、浅野長矩は当日中に切腹となるのです。

このことがきっかけで、赤穂藩はお取り潰しになります。浅野家への厳しい罰に不平等を訴えたのは民衆でした。

敵を討つのが武士道である→首を取れという民意。

安兵衛は内蔵助に会うために赤穂へ・・・。
しかし、内蔵助は仇討ちなど夢にも思わない。「昼行灯」と呼ばれていました。内蔵助の本心は、浅野大学を擁立し、御家の再興を望んでいたのです。
しかし、お取り潰しになり失業し、残ったのが47人だったのです。

では、何故安兵衛は仇討ちにこだわったのでしょうか?それは武士道ではなかったか?武士が堕落した世の中で、武士の一分を全うしたかったのではあるまいか?

時が経ち、職を辞した吉良は、江戸城内から本所松坂町へ屋敷がえとなります。それは、もしかすると、武士は武士らしく!!という武士道を・・・仇討ちを望む吉保が、警備の薄い本所松阪町にしたのかも知れません。

お家再興の望みも絶たれた今、腰の重かった大石内蔵助も、民意に押され、仇討ちへと傾いていきます。

元禄15年12月14日、討ち入りは見事に成功。

それを「武士の鑑だ」と賞賛したのは、皮肉にも綱吉でした。

ここに出てくる武士道は、幕閣に利用されたのかもしれません。なぜなら、幕府は47人の行動を把握していた節があるのです。すべて見てみぬふりをしていたのかもしれません。

これをきっかけに、武士道のあり方が変わってき、世論は幕府の思惑通りに武士を尊敬し、武士の面目は保たれることになるのです。

今回の堀部安兵衛がナンバー2というのはなかなか面白かったです。いつも行け行けの急先鋒のイメージがあったので・・・。

歴史は本当に何に視点を置くかでコロッと変わりますね。本当に面白いです。


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posted by ちゃーちゃん at 14:25| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幕末・安政の大地震に立ち向かった男

幕末・安政の大地震に立ち向かった男

BS歴史館〜復興の鍵は民にあり 幕末・安政の大地震に立ち向かった男「濱口梧陵」です。稲むらの火と言った方がピンとくるかも知れませんね。

これは、知っていないとまずい郷土の有名人です。が、人間の頭なんてあやふやです。こんなにバイタリティに溢れた人とは思っていませんでした。

ちなみに、戦前の教科書には載っていた有名な人物です。去年から5年生の教科書に載るようになりました。それは、戦前の日本の教育が悪かったというアメリカナイズされた教育が削除させたのでしょうか?

この安政の大地震は、安政元年に起こった安政南海地震のことで、西日本で数千人の死者が出たといわれています。

濱口梧陵は紀州藩広村の醤油を生業とした商人です。巨大な津波から村人の命を救い、広村に奇跡の復興をもたらした人です。

広村は、今の広川町のことで、たちうお、しらすなどの捕れる漁港です。この町を、100年〜150年ごとに大きな津波が襲っていました。

そんな中、後々語り継がれるほどの大地震、安政南海地震がおこります。震源は沖合M8.4の大地震で、高さ4.2mの津波でした。これは幕末最大級で、今回の東北の津波の二分の一ですが、防波堤などはなかったので、同じぐらいの津波といえるでしょう。

手記より
「七つ時頃に至り、大震動あり、瓦飛び 壁崩れ 塀倒れ 塵空を蓋う」という大被害でした。
冷静に海岸の異変に気づきます。
「巨砲の連発するが如き 響きをなす数回 伝え聞く 大震の後 往々海嘯(津波)の襲ひくるありと」
と、津波を予感しています。
「村民一統を警戒し 氏神八幡境内に立ち退かしむ」

村から八幡様まで1.7km20分はかかる距離でした。

後の計算によると、広村にくる津波の第一波は40分後。

この時、村人たちは八幡神社に逃げて救われます。が、第二波、第三波が来るはずで、逃げ遅れた人達のために目印に・・・

「路傍の稲むらに火を放したむるもの十余」
稲わらに火をつけ
「以って漂流者に其身を寄せ、安全を得るの地を表示す」

暗闇に忽然と現れた炎。その火を頼りに高台へ逃れた人達。多くの命が救われました。
他の村では村人の半数が被害にあった地域もありましたが、広村の死者は、30/1323人中であったのです。

この安政元年とは、その前年、ペりーが来航し、情勢が不安定で落ち着かない時代でした。そんな時代に・・・。

安政元年   11月4日  安政東海地震
       11月5日  安政南海地震
       11月7日  豊予海峡地震
  2年    2月1日  飛騨地震
       10月2日  安政江戸地震

と、地震が誘発しています。本当に不安な時代だったのです。

小泉八雲はこの「稲むらの火」を外国に伝承しています。それは、日本人独自の共同体のあり方に興味を抱いたからでしょう。

では、何故津波を予知できたのでしょうか?

濱口家は、広村の名家で、代々醤油屋(今のヤマサの前身)を営んでいました。ここには1万冊以上の本が梧陵文庫として残っています。
この中の「日本三代実録」(平安時代に編纂された歴史書)に、貞観地震というのが記録されています。869年に東北地方で起こった地震で、激しい轟音、雷のことが記録されています。

梧陵は、広村では知的階級を代表する人であり、地震と津波が連動しているという知識があったのです。

では、何故田畑の貴重な財産である稲むらに火をつけたのでしょうか?
火をつけたのは、梧陵が私財を投じて作った「耐久舎」の教え子たちでした。梧陵は、幕末の不安の中、防衛・教育を地域で行うことを目指していました。高い危機管理能力を持っていたのです。

では、どうしてこんなにリーダーシップがあったのでしょうか?

当時まだ、士農工商の身分制度が残っており、商人である梧陵はお金持ちで名家であるにもかかわらず、政治的には一番下の階級でした。

江戸時代、殆どが農民で、米だと年貢は40%取られていた時代、醤油醸造の商人だと税金を払わなくて良い=人として重きにおかれていない存在だったのです。

でも、富は貯まっていく。これを社会還元、地域に還元するというのが、当時の商人の人間の倫理であり、義でした。それが、梧陵文庫にも表れています。
梧陵は、地域の自治の確立を目指します。

「人家は概ね崩壊して
 只ニ三の旧態を存するあるのみ
 人生の悲惨茲に至りて極まれりと謂うべし」

濱口家が炊き出しをし、みんなを飢えから救います。また、長屋を建てたりと広村の復興に尽力します。

家を流され、田畑は塩水に浸かり、生活の手段をなくした人々。
紀州藩は、藩全体が被害を被っているため全域に支援できない状態。
そんな中、梧陵は紀州藩に手紙を出します。

「波除土手の増築、御免許蒙奉候
 右工費は乍恐 私如何様にも勘弁仕る」

と申し出たのです。

千葉県銚子市には、黒潮に乗って紀州からの移民も多く、当時は利根川を遡ると江戸であったため、江戸への搬入口として栄え、交通の要所となっていました。梧陵はそこでも醤油醸造所を経営していました。

ここで稼いだお金を広村の復興に充てたのです。総額5億円といわれています。広村では、仕事のなくなった住民を使い、女子供であっても日当を払ったそうです。

が、安政2年10月2日安政江戸地震が起こります。江戸は壊滅し、醤油の江戸支店も閉鎖することになるのです。でも、この銚子では、広村復興の為に今までにないほどのたくさんの醤油を製造し、バックアップするのです。

この梧陵のした共同事業は、村人に仕事を与えたばかりでなく、帰属意識の高まりを作ったのです。

4年後に堤防は完成します。これは、世界初の津波用堤防です。
そして堤防と海の間には、6000本の松を植えます。松は根を張るばかりではなく、松林で人を津波で持っていかれないようにしたのです。

この堤防の上にははぜの木が植わっていて、木の実はろうそくの材料となります。それを売って、堤防の維持費に充てたのです。

昭和21年12月21日昭和南海地震が起こります。M8.0高さ4mの津波が広村を襲いますが、堤防のおかげで市街地に被害は殆どなかったといいます。

商人から初めて勘定奉行に任命された梧陵は、今までの禄高制をやめ、能力給の給料制にしたりと、政治にも精を出します。大久保利通の目にも留まりますが、民間人の実力をつけるという考え方は、専制主義国家である明治政府とは相容れませんでした。

後に和歌山県議会議長となりますが、かつての夢だった世界旅行の途中、アメリカのニューヨークで亡くなります。

本当に、一般人にしておくのは勿体ないくらいです。が、民間人たればこそ、これだけフりーに動けるからこその決断力なのかも知れません。

今の政治家の皆さんは、お互いの顔色ばかり伺って、落としどころを考えながらお話して、政治をしている感がありますよね。(≧ヘ≦)

もっとリーダーシップのある人を求めるのは酷なのでしょうか?自分で見極めて、庶民のパワーから持っていかないとだめなのかも知れませんね。

ホント、これ以上、天災も人災もおこりませんように(* ̄∇ ̄*)


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posted by ちゃーちゃん at 13:25| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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