2011年09月22日

水戸光圀さんです。

水戸光圀さんです。
昨日見たのは、THEナンバー2、天下の副将軍、水戸光圀です。

水戸光圀(1628〜1700)は、黄門様として知られています。知られているのは、水戸漫遊記という、幕末・講談師によって広まったとされる光圀を主役とした物語です。

この物語が、映画・テレビにまでなり、今の世の中でも愛される作品となったのです。しかし、光圀が全国を旅したという記実はありません。これは、フィクションなのです。おまけに、副将軍という役職は存在しないのです。
私は高校時代、社会の先生に「副将軍って何?」って聞いたものの、教えてもらえなかったことを思い出します。先生、知らなかったのかな・・・。Σ(T□T)

では、何故このような物語が出来たのでしょうか?

それは、五代将軍徳川綱吉に物申せる唯一の人物だったから、天下のご意見番にまつりあげられたのです。

御三家とは、家康の
      九男  義直 尾張徳川家
      十男  頼宣 紀州徳川家
      十一男 頼房 水戸徳川家
                     をさします。

この御三家は、徳川本家に跡継ぎがいなかった場合、御三家から選ぶというのが、暗黙の了解でした。ちなみに、これによって、紀州藩から将軍となったのが、八代将軍吉宗です。吉宗も御三卿、これは、吉宗が、田安家と一橋家を、家重が清水家を作りました。御三家と御三卿の違いは、御三家は大名と同じでお城や領地、たくさんの家来がいるのに対し、御三卿は江戸城の近くに住み、10万石、お城や領地はなく、家来も少なかったのです。

で、水戸藩は、御三家で唯一江戸につめ、小石川後楽園に滞在し、上様を補佐する役目でした。

光圀は、そんな水戸藩に生まれます。水戸藩主頼房は一番弟です。
出生は恵まれたものではなく、兄・頼重共々、父に喜ばれることなく誕生しました。これは当時、尾張藩、紀州藩共に男子が生まれておらず、その兄達に頼房が遠慮したものでした。「水にせよ」と、いわれた光圀は、5歳まで家臣の家で育てられます。

そして、三代家光に拝謁し、「これぞまことの良君なり」と、物怖じしない性格から跡継ぎとなるのです。しかし、兄・頼重は、この時まだ、認知すらされていませんでした。光圀よりも6年も早くに生まれていたため、養子に出されていたのです。光圀は三男ながら跡取り、自分は格下の松平の姓。複雑な思いがあったでしょうが、出来た兄で、優しかったといいます。

光圀は、大きくなるにつれて激しさを増し、傾奇者(かぶきもの)としての悪評が、江戸中に広がります。家臣は「御三家水戸藩の世継ぎとも思えぬ。言語道断の傾奇者、行く末は笑止千万」と言われてしまいます。それに比べて品行方正の兄。

しかし、18歳の時、運命の書と出会います。その書とは、中国前漢の史家・司馬遷が記した歴史書「史記」でした。これは、国史と個人の伝記集でまとめられています。この様に、個人の伝記は日本にはまだありませんでした。この史記に衝撃を受けるのです。

特に殷代の公子・叔斉の話に心打たれます。これは、中国では伝説的な有名なお話で、三男であるにもかかわらず公子であることを申し訳なく思った叔斉が、兄・伯夷に位を譲ろうとしたものの、兄はこれまたそれを申し訳なく思い、自ら国を去る・・・。というお話でした。

この国を譲り合う姿、話で、兄の思いに気付き、兄を超えて後を継ぐことに自責の念を持つようになるのです。そして、水戸藩をわが子ではなく、兄の子に継がせることを決心します。

この決心は揺るぎなく、小石川後楽園の得仁堂に伯夷と叔斉の銅像を祀り、毎日のように拝んでいたといいます。このことで、息子や家臣に兄の子に継がせることを認めさせたのです。

そして、日本に未だかつてなかった人物別の歴史書を完成させようとします。そこで、長崎から朱舜水を、三顧の礼をもって迎えます。朱舜水は、1659年に民から亡命していました。何故亡命をしたのかというと、中国は明から清へと変わり明の文化や朱子学が軽んじられていたためでした。

二代藩主となるも、兄の子を養子に向かえ、自分の子は兄の養子とした光圀は、海外の学問を取り入れて、政治を始めました。朱子学、特に忠義を重んじるようになります。

1680年、4代将軍家綱が危篤になります。そこで老中、御三家が集まって、跡継ぎ相談がなされます。大老・酒井忠清は、鎌倉時代に習って皇室から将軍を迎えることを提案します。ですが、鎌倉時代にあったとはいえ、たった二歳の赤ちゃんが、1回あっただけでした。これは、酒井忠清が幼い将軍を擁立して、傀儡政権をすることになりかねませんでした。

そこで、忠清の勢力拡大を防ぐため、反対を押し切って、ひとり綱吉を推すのです。そうして5代将軍綱吉が誕生します。

いい将軍だった綱吉も、1683年徳松が5歳で夭逝したことで、変わってしまいます。ここで、天下の悪法「生類憐れみの令」が出来るのです。生類憐れみの令という名前はなく、たくさん出されたおふれの総称です。

これは、綱吉の母桂昌院の寵愛していた隆光僧正によると言われていますが、初めておふれが出た時、まだ江戸にいなかったという説もあるので、わかりません・・・。

将軍様が戌年だったため、犬がオーバーラップされますが、とにかく「動物を大事にしよう」というおふれです。「犬を大事にすれば子が授かる・・・。」

31万平方メートルの犬囲い、犬屋敷を中野に作り、10万頭を飼いました。億単位のお金が必要になり、財政は逼迫、庶民は困窮していきます。そんな時、光圀は綱吉を批判するのです。が、綱吉は止まりませんでした。

では、本当に、生類憐れみの令は悪法なのでしょうか?
確かに、財政は逼迫し、庶民は困窮しますが、それまでは切り捨て御免の世界でした。つまり、人であろうと犬であろうと、武士には切ることが出来たのです。この生類憐れみの令で治安が良くなったという説もあります。

が、絶対君主の将軍様が言うと、一言言ったことが、末端に行くとかなり大事となり、エスカレートしていった結果であるのは確かでしょう。

晩年、隠居をし、黄門様になってからはどんな人だったのでしょうか?

水戸の黄門様として親しまれる基となるのは、やはり大日本史の編纂となるのでしょう。この日本史の編纂の目となり足となったのが、助さん、格さんなのです。特に助さんは、東北から九州までくまなく歩き調査に当たりました。その資料を基に人物別に編纂していくのです。

そうして、庶民は「うちにも来てくれないかな〜」と、思って、漫遊記へとなっていくのです。

光圀の考え方は、「史実を包み隠さず記述すれば、勧善懲悪の道理が現れる」というもので、その理論でいくと、中国では王朝は途絶え、新たな王朝が出来る。しかし、日本では、皇室という王朝がずっと続いている。この王朝が途絶えていないことは凄いことではないか?と考え・・・。

主君は天皇であり、天皇を守るのが徳川の使命。そしてそれを盛り立てるのが大名、旗本でありひいては国民だ。というところにたどり着くのです。

光圀のすばらしいところは、南朝を認め、後醍醐天皇の呼びかけに応じて幕府と戦った楠木正成を忠君であると称えたことです。この頃の楠木正成は、鎌倉幕府に弓をひいた悪党とされていたのに・・・。

1700年なくなりますが、世間の人は
「天か下
  二つの宝尽き果てぬ
   佐渡の金山 水戸の黄門」といってその死を惜しんだそうです。

大日本史の編纂は、明治まで続きます。

根底に流れているのは朱子学で、「忠義の対象は武力で天下を取った将軍ではなく、この国を昔から治めている天皇である。」というものですが、これは幕府にとってはなかなかの危険思想。とりようによると、天皇に忠実ならば、将軍に逆らってもいいととりかねられません。

大日本史は、「日本は天皇を中心とした国である」ことの証明が編纂目的だったのかも知れません。

幕末、慶喜は水戸家から一橋家へ入ることになります。かれはこの水戸の幼児教育を受けていました。だから、全員玉砕などすることなく、江戸城を無血開城出来たのかも知れません。つまり、光圀の思想が大政奉還をさせたのです。

おまけにこの大日本史、水戸学といわれ、幕末の志士に大きな影響を与えたといわれています。影響を受けたのは、吉田松陰、西郷隆盛いわずもがなの人々です。そうして、明治維新へと突き進んでいきます。

慶喜は将軍就任の折、「家康公は、日本国の為に幕府を開き将軍職に就かれたが、予は日本国の為に幕府を葬る任に当たるべし」と言ったと言われています。

大日本史は1906年(明治39年)に完成します。かかった時間実に、250年、全402巻に及びます。

たくさんの人に大きな影響を与えました。

光圀は、徳川は天皇に仕えるNO,2だと言いたかったのかもしれません。

本当に、ビックリしました。すごい方だったのですね。幕末好きの、新撰組好きの私としては、慶喜公は物足りなく、いまいちだったのですが。そんな覚悟で臨んでいたなんてね。いろいろ考えさせられます。

やっぱり、勝てば官軍、負ければ賊軍。なのね。公平に物事を見るって難しい。<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...


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2011年09月20日

ヒトラーの影法師と言われた男

ヒトラーの影法師と言われた男
BS歴史館。やっと見ることができました。

今回は、側近が見た独裁者ヒトラー(1)ヒトラーの影法師と呼ばれた男でした。でも、側近が見たヒトラーって。。。ヒトラーの事はあまりしなかったな・・・。どちらかというと、ナンバー2みたいな内容でした。

この主人公は、ルドルフ・へスです。この人は、ゲーリングやゲッペルスと違って、あんまり有名ではないようです。

ヘスは、ヒトラーの首相就任と共に、副総統に任命され、強大な力を手に入れますが、実質的な権力は与えられず、反ユダヤ主義暴動やポーランド侵攻では、ヘスが采配を振るうことはありませんでした。

この、ナチ党副総統、ルドルフ・へスの数奇な運命を、彼が人生を捧げたナチスドイツの知られざる側面を振り返ります。

ルドルフ・へスは、ナチスの中では目立たないですが、ヒトラーに次ぐ地位を持っていました。かれは、ヒトラーに何かあったら、次の指導者になる立場であったのに、ヒトラー個人に仕えた従僕だったのです。

何故目立たなかったのか?それは、例えばゲーリングは空軍、ゲッペルスは宣伝、でも、へスでないと語れないものはありませんでした。

もともとナチスは、トゥーレ教会のひとつのドイツ労働者党から、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)ヒトラーと共に大きくなりました。その大きくなり方、何故国民がヒトラーに惹かれ支持していったのか・・・。

ヘスは、1894年エジプトのアレキサンドリアに生まれます。裕福な貿易商の家に長男としてうまれ何不自由ない生活、父ヨハンは祖国ドイツに忠誠を誓っていました。

14歳で全寮制のドイツの学校に進学、父は貿易商を継がせたかったのですが、1914年8月ドイツが第一次世界大戦に参戦。国中が高揚感に包まれる中、親の反対を押し切って、西部戦線へ行きます。この経験が世界観を変えたのです。航空隊へ入りましたがドイツは敗戦。それを機にミュンヘン大学へ進学します。

1919年5月、暴力闘争の果てにドイツ義勇軍が共産主義者からミュンヘンを奪取。学生だったヘスはこの反共産主義闘争に加わり、人生を捧げることとなるヒトラーと会うのです。

1920年、ヒトラーのナチ党に、創立メンバーとして参加。学生を勧誘します。ヒトラーが蜂起していたミュンヘン一揆でも、最前線で戦い、二人は投獄。この、ランツベルグ刑務所で「わが闘争」を書き上げるのです。

当時のドイツは第一次世界大戦に敗戦。ベルサイユ条約で、ドイツ帝国は戦争を引き起こした責任を取らされ1320億マルクという賠償金の支払いと、領土の割譲が課せられます。

ヒトラーは、時代の不安感につけこむ天才でした。国民は、この課せられた多額の借金に苦しんでいました。この不満に乗って・・・。ヒトラーがやったミュンヘン一揆は、バイエルン州に臨時政府を樹立し国家の転覆を図るクーデターでした。失敗したものの、ドイツ国民にヒトラーを印象付けるには十分でした。

そこでのヒトラーの演説。彼の演説は天才的で、みな心酔し救世主のようにあがめるようになるのです。そこにはヒトラーの、一か八か、生か死かの鬼気迫る世界観があったのです。ヒトラーの意思の強いところに引かれる・・・「意思の勝利」でした。

そうして、帝国国民は党の方針を一切疑わず、従うようになっていったのです。党こそがヒトラーの権力の土台でした。

この頃すでに、副総裁にもかかわらず、ヘスには発言権はありませんでした。ヒトラーは、人の意見など取り入れず、独断で国を支配するようになっていったのです。その結果、帝国は独裁国家へと突き進んで行きます。

そうして、誰もが認めるヘスの誠実さは利用されていきます。

1938年11月9日、ドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が起きますが、ヘスは権力の中枢にいたにもかかわらず、知らされていなかったこと、また、止められなかったことにショックを受けます。

しかし・・・。戦争は迫っていました。にもかかわらず、ヘスはヒトラーを信じ、「ドイツは平和を築く義務があると、総統は常に強調してこられた」と、ヒトラーが平和を演説していると訴えます。

1939年9月、ポーランド侵攻に勝利したヒトラーが呼び寄せたのは、同士ゲーリングでした。ヘスは三番目に格下げされたのです。

ヘスに部下がいなかったり、発言権がないのは、独裁するためには自分が一手に引き受けたいとヒトラーが思っていたからでした。

1940年5月フランスに侵攻し、6週間で勝利。この西部戦線がヒトラーにとってゆるぎない自信となるのです。ヒトラーはますます、助言に耳を傾けなくなります。

イギリスとの戦争にあたり、誤解から生まれた戦争と信じていたヘス。でも、チャーチルもヒトラーも、和平は望んでいませんでした。
ヒトラーは和平に対して「これ以上私に何が出来るというのだ。私が向うに飛んで行き、ひざまずいて頼むことは出来ないのだ」と言ったといいます。

このことで、ヘスは自らイギリスへ行こうと決意をします。これは、国家に対する反逆の何物でもありません。しかし、ヘスはヒトラーを信じていました。ヒトラーに対する己の純粋な信念、ロマンチシズム。

1941年5月10日へスはイギリスに単独飛行を行います。そして捕らえられ、監禁されるのです。

そのときヒトラーは、「よくもこんな事をしてくれたな!」講和条約で、「ヘスの帰国を要求する。反逆罪で裁判にかけて処刑してやる」と言ったのです。

1941年6月ドイツはバルバロッサ作戦を遂行、東方の殲滅作戦を行います。副総統がいなくても、何の不都合も生じませんでした。

捕らえられたヘスは、このことをくよくよと悩んでいたといいます。

何故、単独飛行したのか?ヘスは、東方への殲滅作戦をしたら、ソ連が攻めてくる、アメリカも参加するかもしれない、早く和平をしないと第一次世界大戦のようになって負けてしまう。それだけはなんとしても避けなければ。という気持ちからだったようです。彼にとっては裏切りではなく、英雄になりたかったのです。しかし、これは、客観的にみるとまともではありません。敵に対しても、副総裁がこうでは、国家として戦争継続能力がないのではないか?と思われるからです。

ヘスの滅私奉公は、ヒトラー政権12年のうち8年間でした。

ドイツの降伏で、ヨーロッパ戦は終わり、ナチのニュルンベルグ裁判が始まります。ヘスは、ユダヤ人虐殺やソビエト侵攻にかかわっていないにもかかわらず、すべてにおいて起訴されます。

法廷では明らかに精神が病んでいるように見えましたが、2週間後「裁判を受ける能力がないと断定されないために、ここに宣言を行います。私は法廷での戦術として記憶喪失を装っていました。」と。その結果、終身刑を受けることになります。
しかし、こうも言っています。「わが民族の歴史が生んだ最も偉大な息子の下で、長年働くことが出来たのは、名誉なことでした。たとえ可能であっても、その年月を人生から消し去ろうとは思いません。国民にお対する義務を果たすことが出来て幸せでした。ドイツ人としての義務。国家社会主義者としての義務。総統の側近としての義務。すべてを果たすことが出来ました。何一つ後悔していません。」

終身刑に服したヘスは、連合国の監視下におかれました。1969年まで家族とも面会せず、イギリスへの単独飛行は沈黙しました。最も経費のかかる受刑者でしたが、彼の釈放を阻んでいたのはソ連でした。ベルリンにあるこの刑務所を前線基地として維持していたかったからだといわれています。ヘスの釈放を求める声が上がりますが、これは、ゴルバチョフになるまで応じてくれませんでした。

1987年刑務所内で自殺。遺族は自殺とは思っていず、遺書があったにもかかわらず、イギリスが秘密保持のため、暗殺したという噂もあります。他殺だったという証拠もないが、未解決事件となっています。

ヘスの葬儀はネオナチの支持により延期されます。ネオナチにとってヘスは、裁判においてもヒトラーを否定せずに生き抜いた、ネオナチにとって鏡のような人でした。

彼の信じ続けたナチズムは、まだ葬り去られていないのです。
ただ彼は、ヒトラーに依存しすぎました。

本当に、思い込みって怖いですよね。
太平洋戦争も然り、今のイスラムの聖戦も然りです。
チャップリンの「殺人狂時代」を思い出しました。有名なあの言葉です。

「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が神聖化する。」

洗脳教育は、本当に恐ろしいですね。



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posted by ちゃーちゃん at 13:12| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月16日

〜寛政の改革をした男〜松平定信〜

寛政の改革をした男
今日見たのは・・・。

〜寛政の改革をした男〜松平定信〜です。

この時代は、いったいどんな時代だったのでしょうか?江戸は、100万人を超える世界的にも超巨大都市で、歌舞伎、相撲、川柳なが町人文化が花開いた時代でした。

この時代を作ったのは、「お主も悪よのう」でお馴染みの田沼意次でした。田沼は、農業中心から貨幣経済へと移行させていて、商人たちは潤い、本格的な貨幣経済が始まろうとしていました。
田沼意次は賄賂政治家だけではなく、実力のある優秀な老中だったのです。

しかし、悲劇が・・・。
浅間山の大噴火・天明の大飢饉によって、田沼意次は失脚します。当時の将軍は15歳の家斉。お飾りでした。その将軍を支えたのが、松平定信だったのです。

この開幕以来の危機を、農業重視、質素倹約を旨とする寛政の改革で乗り切ろうとしたのです。

伊能忠敬に日本の地図を作らせたり、間宮林蔵に国防のため北方の調査もさせました。

では、どんな幼少時代だったのでしょう。

もともと松平定信は御三卿のひとつ、田安家に生まれ、聡明な跡取り候補で、ゆくゆくは将軍も夢ではありませんでした。この御三卿、政府としては維持に莫大な費用がかかったのです。そこで、田沼意次は定信を白河藩に養子に出すことによって経費を削減しようとしたのです。

将軍に一番近い男が16歳で養子に出されたのです。定信には憎しみが残りました。

そんな中、天明の大飢饉が起こります。浅間山の噴火に、冷害による飢饉。
定信の飢饉対策は、「白河藩では餓死者を一人も出さないこと」でした。しかし、藩の米蔵はすでに空っぽでした。

そこで定信は、斬新な対策を立てるのです。
まず、凶作を免れた越後にある白河藩の飛び地から1万俵の米を送らせます。江戸では、食料品、日用品を買い漁ります。資金は定信が責任を持って借金しました。
一粒の米も無駄にしないように、民には頑丈な木の桶を配りました。なぜかというと、当時、川で米を研いでいると、盗賊に襲われたからです。あー怖いです。ΣΣ( ̄◇ ̄;)!

また、南湖公園にある沼を、人造湖にしました。これは、公共事業をして民にお金を落とすためでした。特産品も作り、白河だるま、南湖団子は今でも特産です。

養子に来ただけなのに、こんな飢饉に遭って・・・。と、家臣が言うと、「災い転じて福としたい」と、家臣に言ってねぎらったといいます。

家斉の補佐になった経緯は、異例のことでした。
もともと御三卿は、位は高いのですが、老中などの役職にはつけません。老中になるためには、奏者番→大阪城代→京都所司代→老中と、スッテップアップしていくもので、白河藩主がポッと老中になるのは有り得ないことでした。

大飢饉をきっかけにして起こった暴動、天明の打ちこわし、これによって、政治が不安定となり、田沼派は、一掃されます。

しかし、筆頭老中になりたい人はたくさん居たにもかかわらず、松平定信が力で押され、老中筆頭+将軍補佐役という地位を持つことになるのです。

中央に返り咲いた定信は、ことごとく田沼と正反対の政策を打ち立てていきます。

財政難に立ち向かう定信。。。

田沼の政策にかかわった人をことごとく失脚させます。貨幣経済から米を基本とする経済へ戻そうとしたのです。

当時は、人々は未曾有の飢饉に遭い、農業に見切りをつけ、農地をほっぽりだし、江戸へ流れ込んできていました。地方の農地は荒れ放題だったのです。

そこで、旧里帰農令を出します。江戸に来た農民が、故郷の村に帰れるようにお金を出し、農業の為の資金を与えたのです。これは、農業を立て直すだけでなく、無職者をなくし治安維持に努めたのです。

また、七分積金の制を出し、町で積立をし、飢饉に備えるようにしました。

人々は、
「田や沼や
  汚れた御世を改めて
   清く住むる 白河の水」  と詠います。

しかし、改革は意外な方向へ・・・。

飢饉と関係のない町人文化を取り締まりだしたのです。いわゆる倹約令です。まず、浮世絵を風紀を乱すといって規制しました。浮世絵に位置づけは、今でいう、アニメや漫画のようなもので、巨大ビジネスになっていました。町民の反発を買うのは必至でした。

版元は、町人文化のパトロンでした。まず、蔦屋重三郎に目をつけます。そこの喜多川歌麿の豪華絵本の出版を差し止め、蔦屋の財産を半分没収します。歌舞音曲は、華美贅沢であるとし、町人による貨幣経済を押さえ込もうとしたのです。そして、家康の頃の、かつて武士が最も輝いていた時代を懐古し、質素倹約を旨としたのです。

幕府がいつもする奢侈禁止令(質素倹約)、これに加えて行ったのが、棄えん令、これは、借金の帳消しや低金利での返済を命じたもので、借りていた武士は喜ぶものの、貸した商人はずいぶん店が潰れたようです。その踏み倒し額、118万両。

定信の基本は仁政で、義気を持って政治をなす。日本人らしく生きていこう。という理想に満ちたものでした。

これには町人も

「白河のあまりの清きに耐えかねて
     濁れるもとの田沼恋しき」

と、詠い、定信を批判し始めます。

この質素倹約によって、町人文化は衰退し、経済は停滞するのです。

でも、町人も黙っていませんでした。
蔦屋は有名絵描き職人が規制をかけられる中、新人を発掘します。
天才「写楽」です。古きよき武家社会は、豊かな生活に慣れてきていた庶民には受け入れがたいものだったのです。

また、家斉は20歳を過ぎて、贅沢を好み、定信に対し不平不満を言うようになります。定信がやった政治は、のさばる商人を懲らしめ、武士の権威を取り戻すためだったのに、将軍がこうでは・・・。Σ(T□T)

NO,1との間に出来た大きな溝。その上、一橋治済(十一代将軍家斉の父)が、将軍家に入りたい。自分も大御所になりたい。と、言い出したのです。御三家、御三卿からも疎まれだした定信。律儀な定信は、毎年進退伺いをしており、6年で引退すことになるのです。

彼には意外な一面がありました。
文化や芸術には興味のない人に見受けられますが、彼が隠居生活をしていた三重県桑名市にゆかりの品が残っています。

それは、一本の見事な掛け軸。公には厳しい倹約を行っていたものの、文化的な側面も持ち合わせていました。着物もおしゃれなものが残っており、仕事と本音は違っていて、風流心があったのです。

寛政の改革については、専門家の間でも、賛否両論ありますが、七分金積立は幕末まで受け継がれ、(1700億円になっていたらしい)渋沢栄一が中心になって管理し、森有礼によって商法講習所をつくる資金となるのです。この商法講習所は、現在の一橋大学に当たります。

日本の改革は、ことごとく失敗するようになっているのか、成功したのは、大化の改新、明治維新、戦後の改革だけです。

これは、既得権益を捨てられないという日本人の気質で、総論には賛成でも、各論には反対するという今でも変わらないのかも?!

外圧のかかった時のみ、追い込まれた時のみ、成功するようです。

晩年、定信は、外国船の絵を描いています。そこには、外国に対する警告文のようなものが記されていました。

彼は、徳川幕府の終焉を予期していたのかも知れません。その24年後に、幕末の騒ぎが始まるのです。


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posted by ちゃーちゃん at 14:23| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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